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☆福沢諭吉「文明論之概略」を読んだ

2009年01月31日 19時46分37秒 | 文学
文明論之概略 (岩波文庫)丸山眞男集 (第14巻)
福沢諭吉の「文明論之概略」(岩波文庫)を、丸山真男の「「文明論之概略」を読む」を読みながら読んでいたが、このように時間がかかってしまっては、感想も何もあったものではない。
福沢諭吉に惹かれる一番の理由は彼の儒教への恨みを感じるところだ。これはルソーを読んだ時に、ルソーの孤独感に魅力を感じたのに似ている。
書いている人に魅力のない本はどんなに正しいことを言っていてもつまらない、と思う。
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☆堤幸彦監督「20世紀少年 第1章」感想

2009年01月31日 00時12分13秒 | 映画
20世紀少年 第1章 終わりの始まり 通常版 [DVD]公開当時おすぎが「ゴミみたいな映画」と言っていて、どれほどのゴミ映画なのかと期待していた。
明日から続編が公開らしく、テレビで放送していた「20世紀少年 第1章 終わりの始まり」を見た。かなり編集してあったようで、見ていて明らかに話の飛んだ印象のところがあったがそれが逆に良く、退屈せずに見られた。この前見た「デスノート」のスピンオフ映画(って好きな言葉じゃないけれど)よりも面白かった。
漫画で読めばそんなにばかばかしく感じないことも、実写映画で見るとヨリばかばかしく感じる(”ヨリ”の使い方は丸山真男に学びました)。漫画はすべて漫画で描かれているのだが、実写映画はCGと実写のところが上手く溶け合ってないとばかばかしく感じる気がする。きちんとした役者ばかり出ている映画に突然監督の友達のイラストレーターみたいなひとが出演していたりすると、この監督のそういうところが駄目なんだよと、岩井俊二などを見ると思うことがたまにあるが、そんな感じ。
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☆三国志、ガンダム、サッカー

2009年01月29日 23時18分03秒 | 文学
最近、炬燵に入ると五秒で寝てしまう。
そんなに眠くもないつもりなのだが寝てしまう。だから本が読めない。
福沢諭吉と丸山真男ペアの本もちょっと読んだら寝てしまうのでなかなか終わらない。これは早く読み終わらなくてはいけない。
通勤のときに読んでいる吉川英治の「三国志」は五冊中の四冊目の半分くらいまでいっているのだがなかなか進まない。もはや誰が何をしているのか把握できていない。曹操がたまに出てくるが、その他の人はよく知らない人ばかりだ。
もうこれ以上読んでも仕方ないのかもしれない。
やめどきかなあ。
結局「三国志」のどこに世の中の男の子たちが惚れるのかわからないままになりそうだ。くやしい。
ガンダムやサッカーと同じだ。
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☆太宰治好き

2009年01月26日 00時38分31秒 | 文学
去年は太宰治の没後六十年で、今年は生誕百年らしい。
雑誌「東京人」の太宰治特集号を買って読む。これまで見たことのない写真が何枚も載っている。
たしか僕が小学校五年生の時に、二つ年上の姉の夏休みの読書感想文の宿題の課題図書の何冊かの一冊に「人間失格」が入っていて、課題図書のなかでいちばん薄いその本を姉が選び、それまで小説など読んだこともなかったのになぜだか気になってその白と黒のゼブラ模様の表紙の文庫を読んだのが太宰治との出会いです。
というか小説との出会いです。
太宰治は不気味で恐ろしい人というのが最初の印象だったが、だんだんと自分が年を取ってくるに従って、「やさしい人」とか「文章のうまい人」とか「いつも酒ばかり呑んでいる人」とかそのような、ちょっと変わってるけど隣にいそうなおじさん、という印象に変わってきている。

「東京人」に紹介されていた太宰の妻の津島美知子の「回想の太宰治」(講談社文芸文庫)を、僕の妻が買って読んでいる。
その本を買いに行ったときにちょうど沢木耕太郎の本を立ち読みしていて、檀一雄の妻が語るという体裁の「檀」に興味を惹かれる。作家の妻つながりということもあるが、そもそも誰かがこちらを向いて丁寧に語るという体裁の小説(井上靖の「孔子」など)はものすごく好きなのだ。
いろいろと読みたい読みたいと言っては読まないままの本や、読みたいと思っていたことを忘れてしまうことも多くあるのだろうと思うので、「宿題」という場所を右下に用意した。
今後ここに読みたいものを書き、読み終われば消すということをやっていきたい。まさしく自分のためだけのものです、はい。
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☆加藤典洋「文学地図」感想

2009年01月25日 15時02分47秒 | 文学
文学地図 大江と村上と二十年 (朝日選書)加藤典洋の「文学地図 大江と村上と二十年」(朝日選書)を読み終えた。
最後の評論「関係の原的負荷」は沢木耕太郎の小説「血の味」、岩明均の漫画「寄生獣」、村上春樹の小説「海辺のカフカ」を取り上げて、親と子の関係について書かれたものだった。
この前よしもとばななの「みずうみ」を読んだ時に、主人公の画家が四匹の猿の絵を描いていて、それが彼女の周囲の人を表しているというところがあった。こういうことは小説を読んでいるとよくあって、これこれはなになにの象徴であるというようなことはよくある。
それは単なるレトリックだとつい最近まで思っていた。
つまり俳句で季語は何だとか、たらちねは母だとか、その類いのもので、四匹の猿は主人公のまわりの半分死んでいる人たちを表している。証明終わり。というようなものかと思っていた。
が、ほんとうはそうではない。それは文学を楽しむためのスタートにすぎないような気がする。
村上春樹の「海辺のカフカ」はほんとうによくわからない小説で、田村カフカの父親がジョニー・ウォーカーであるとか、佐伯さんが母親であるとか、意味不明なのだが、それは主人公のカフカにとって世界がそのように見える、または書いている村上春樹にとってそのようである、ということだろう。
わたしたちの、父親なり母親なりはわたしたちを産んだから父親なり母親なりなのではない。わたしたちが彼らを父親なり母親なりだと信じているから彼らは父親であり母親であるのだ。わたしたちにとって。
だからもしも親子関係を回復するために父親や母親が必要であるならば、それは生物学的な意味での父親や母親を連れてくる必要はない。本人がそうであると信じることのできる人を連れてくる必要があるのだ。
「海辺のカフカ」はそういう話なのだな、と思った。
そう考えると人間というのは結構文学的に生きているのだなあと思う。

沢木耕太郎の本は読んだことはない。沢木耕太郎が本名でないことも今回初めて知った。加藤典洋が彼の出自に対して踏み込んだ仮説を立てているのに驚いた。
しかし、おそらく沢木耕太郎の「血の味」は読まない。あまり面白そうではない。
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☆久しぶりの加藤典洋

2009年01月24日 21時07分24秒 | 文学
加藤典洋の「文学地図 大江と村上と二十年」(朝日新聞出版)を読んでいる。1989年以降の短めの文芸時評がたくさんと、長めの文芸評論が三つ入っている。
文芸時評はぱらぱらと流し読み。ちょうど加藤典洋が文芸時評を担当していた当時の新聞を取っていたこともあり、いくつか覚えている文章もあった。
時評でもっとも興味を持ったのは秋山駿の「私小説という人生」だった。最近再び小林秀雄付近に惹かれているからだろう。
「大江と村上 一九八七年の分水嶺」というタイトルの評論はとてもおもしろかった。
村上春樹が大江健三郎に対して文句を言っていたということが分かっただけでも大発見だった。村上春樹の初期の小説には「吉本隆明」だとか「大江健三郎」だとかという名前も出てきていたように記憶するが、「そんな時代があってまわりの人間は読んでいた(が、自分は関係なかった)」のように言っていた印象しかない。
取り上げられていた村上春樹の「パン屋再襲撃」はこの間読んだ。マクドナルドで眠り続ける若者を政治に無関心でい続ける人々と解釈するところに感心した。この感心は村上春樹に向けられるべきものか、加藤典洋に向けられるべきものかよく分からない。
村上春樹の小説が、案外時代の状況に即して書かれているというところにも深く感じるところがあった。頭の中だけで描かれて書かれたものには読んでも感触が伴わない。やはり何かモノに触れる感触、抵抗感が欲しい。
よしもとばななの小説にはなんだか最近その感触がない気がする。
大江健三郎の「取り替え子」は読んだのだが、その続編を読んでいない。加藤典洋が続編の「憂い顔の童子」に実名で登場することを知り、興味を持って「取り替え子」を読んだように思うのだが、続編まで手が回らずに終わってしまった。
二つ目の評論「「プー」する小説 二〇〇四、「種ナシ」の文学」はあまりおもしろくなかった。阿部和重にどうしても興味が持てないせいもあるかもしれないが、こじつけの感じが強かった。評論がこじつけと感じるか、なるほどと感じるかはかなり微妙な部分だ。
いま三つ目の評論を読んでいる。
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☆アクセスカウンター設置

2009年01月24日 12時58分37秒 | その他
ブログのデザインをカスタムレイアウトにしたのでちょこちょこと触っている。
最初に開いた時に字が小さいのが気に入らないが、それを除けば問題ない。
アクセス数を表示する「カウンター」をつけてみた。やはりホームページにはアクセスカウンターを表示すべき、なのかもしれない。(べつに必要のないもののような気もするけど)。
しばらく置いてみて様子をみる。
一日おきに0からスタートするものではなくて今日からのアクセス数が累積されるもののようだ。
これまで自分のホームページなどを作ったことがなく、こういうものも気にしたことはなかったのだが、ちょっとおもしろくて自分で何度も表示を更新させてカウントをあげてしまう。
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☆よしもとばなな「イルカ」感想

2009年01月22日 01時23分40秒 | 文学
イルカ (文春文庫)よしもとばななの「イルカ」(文春文庫)を読んだ。
もう僕にはよしもとばななは無理なのかもしれない。
まったく面白くも何ともなかった。退屈した。
一時期よしもとばなな(当時は吉本ばなな)の小説がまったく面白くなくて、「まったく面白くなかった」と言うためだけに読んでいるような時期があったが、そのような時期が再び来たのかもしれない。漁師の言うところの「おおしけ」が来ているのだ。
何が面白くなかったのか、少し思うのは、悪人が一人も出てこないところなのかもしれない。あるひとと出会って、このひとがもしもあんなふうだったらこんなには仲良くなれなかっただろうというような場面が何度かあったような気がするのだが、つまりよしもとばなな的にNGなひとは小説世界に登場しなくなっているのかもしれない。
よしもとばななをトップとするバナナ共和国が築かれているようで、そこになんとなく息苦しさが感じられるのかもしれない。
自分の産んだ赤ん坊をアカネちゃんと「ちゃん付け」で呼んで他人に説明するようなひとが私は好きではないのだが、たぶんそのような私はバナナ共和国の住人になれないので、読者としても受け入れてもらえないのかもしれない。
違うかもしれない。
よくわからないが、面白くなかったのは確かだ。
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☆「釣りバカ日誌18」

2009年01月21日 23時52分58秒 | 映画
釣りバカ日誌18 ハマちゃんスーさん瀬戸の約束書き忘れていたが、昨日テレビで「釣りバカ日誌18」を見たのだった。
「釣りバカ日誌」は久しぶりに見た。
初めの頃のほうはよくテレビで見ていたが、浅田美代子が出始めてからあまり見なくなった。
ひさしぶりに見たが面白かった。鯉太郎がとても大きくなっていて驚いた。
この前の「L change the WorLd」といい、大河ドラマ「天地人」といい、最近高嶋政伸をよく見る。
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☆カスタムレイアウトテンプレートに変更させられる

2009年01月20日 01時18分59秒 | その他
ブログの背景を少し変える。
そのままが良かったのだが、”カスタムレイアウトテンプレート”という、使う人が少し手を入れることのできるものに変わったので仕方なくいろいろと触って見る。
ラーメン屋でも何でもそうなのだが、客に辛さや焼き方などいろいろと選ばせるような店はあまり信用できない。
じゃあお前の仕事はなんなんだ、と言いたくなる。
客がはっきりと形にはできないが、なんとなく思っているもの、出されて初めて「そう、これが欲しかったの」と言えるようなものを提示するのがプロフェッショナルの仕事なのだと思う。
なんでもかんでもカスタマイズ、インタラクティブ、はあまり好きではない。どうでもいいことは放っておいても適当にやっておいてほしい。どうでもいいことにはどのような意見もない。どうでもいいことにでも何らかの意見を持っていなければならないと思っているような人間にはなりたくない。

というわけで字の大きさが変わりました。
字の大きさと背景と文字の色だけが大事だと思っているのに、なかなか趣味に合うテンプレートが存在しない。
「標準」だと字が小さいように思うので左にある「文字サイズ変更」の「大」を一度押した方がいいような気がします。
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