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よしながふみ『愛すべき娘たち』

2022年02月27日 21時39分08秒 | 漫画
よしながふみ『愛すべき娘たち』(白泉社)を図書館で借りて読んだ。
娘は母親に、母親はその母親に、強い影響を受けて生きてきて、そこから逃れられないというような話だったように思う。
自分が男なので、息子は母親の影響が強いというようには思ってきたが、もう家を出て二十年以上経つともはや他人という感じがしないでもない。昔ずっといっしょにいたけれど、いまはたまにしか合わない人。
人それぞれだと思うが、娘と母親のつながりのほうが強いように、いま自分に娘がいるせいか感じる。
ひさしぶりにこういうマンガを読んだが、おもしろかった。
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水村美苗『日本語で読むということ』

2022年02月23日 18時46分07秒 | 文学
水村美苗『日本語で読むということ』(ちくま文庫)を読んだ。水村美苗の本は文庫になったら買うことに決めている。
児童文学の話と「寅さん」の話がおもしろかった。
仕事をしなくなったら毎日「寅さん」を見て過ごしてもいいなと思う。
有島武郎の『或る女』はおもしろいのだろうか。
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三宅香帆『副作用あります!? 人生おたすけ処方本』

2022年02月20日 23時12分12秒 | 文学
雑誌『BRUTUS』の最新号は「はじめる。」というテーマでいろいろなことの入門について載っているので興味を持って買ってみた。何か始められたらなという気持ちがこのところあるのだが、何を始めたら良いのかわからない。
結局始められそうなものはなかったのだが、「ドストエフスキーをはじめる」の記事を担当していた三宅香帆という書評家に少し興味を持って、『副作用あります!? 人生おたすけ処方本』(幻冬舎)を図書館で借りて読んだ。
文章は読みやすく、特にはっとするようなことは言わないのだが、まあ読みやすく、ふむふむと思って読んだ。
若い女性なので、やはり日本の存命の作家では女性の作家を読んでいるようだった。
テレビに出る若い女の子が全員同じに見えて区別がつかなくなってしまっているのと同じで、存命の若い女性作家もあまり区別がついていない。
もう若くもないだろうが江國香織なんかも私の中では若い女性作家の印象のままだ。小川洋子もそう。なので薦められても読む気がしない。
結局は、昔読んだ本や、読もうと思って読んでいない本の話に主に興味を惹かれる。
トルストイ『アンナ・カレーニナ』
ディケンズ『荒涼館』
谷崎潤一郎『細雪』
橋本治『恋愛論』
穂村弘『現実入門』
など読んでみたいと思った。『細雪』などは話にあがるたびに再読したいと思うのにまだ読めない。
マンガで、
よしながふみ『愛すべき娘たち』
山岸凉子『日出処の天子』
を読もうかなと思った。
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深沢七郎『人間滅亡的人生案内』

2022年02月19日 22時44分45秒 | 文学
深沢七郎『人間滅亡的人生案内』(河出文庫)を読んだ。
NHKの『理想的本箱』という番組で紹介されていて興味を持ったが、最後まで読むのが退屈な本だった。
相談者からの相談が載っていて、その後に深沢七郎の回答が載っているのだが、相談の文章がすごく読みにくい。七十年代の若者はこんなふうに話していたのかな、と思って不思議な感じだった。観念的というか、素直に文章が書けていない感じだった。吉本隆明自身がそうだとは言わないが、ある時期の吉本隆明の文章のようだった。
ちょっと前に、NHKの『YOU』という昔の番組の放送を見ることがあったが、糸井重里や坂本龍一がその時代(八十年代)の喋り方をしていて面白かった。その時代時代の喋り方というものがあるなと思った。
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イ・ヒョンスン監督『イルマーレ』

2022年02月19日 12時05分42秒 | 映画
イ・ヒョンスン監督『イルマーレ』を見た。
二年の時間差のある男女が郵便受けを通して手紙のやり取りをする話だった。
『君の名は。』ってこんな話だったかなと思った。テレビドラマの『シグナル 長期未解決事件捜査班』もそんな話だった。
最後はハッピーエンドだったが、あそこで男が現れても女としては「誰この人?」と思って、いくら男の説明を聞いても頭のおかしい人が来たと思うだけで、好きにはならないだろうな。
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円地文子『食卓のない家』

2022年02月13日 12時38分56秒 | 文学
この三連休で読み切ることを目標としていた円地文子の『食卓のない家』(中公文庫)を読み終えた。
初めは夏目漱石の小説のように主人公が謎の女と温泉で出会うというような場面で始まり、途中で小津安二郎の映画のように鮨屋に若い女性に中年男性たちが連れてこられるという場面があった。読んでいてたいへん愉しかった。
円地文子は『源氏物語』も訳しているし、もっと難しげな小説を書いているのだろうと思っていたが、読みやすいものを書いているのだなと思った。ちょっと拍子抜けがして、もう彼女のものは読まないかもしれないなと思う。現実に起きた事件をモデルにするところなんかは吉田修一のようでもあった。
もっと主人公が世間から責め立てられるのかと思ったが、そういう話ではなかった。
主人公が立派に生きていくという話だった。

最近、ロッキード事件についてのNHKのドラマの再放送を見たのだが(『NHKスペシャル 未解決事件』)、まだ私が生まれた頃の1970年代は戦争が終わってそんなに時間が経っていなかったのだなと思う。自分の感覚としては戦争が終わってずいぶんと経ってしまっている、昔の話という感覚だったが、まだ戦争経験者もたくさん生きていた。
なにか起きたときに、あの戦争と比べるということが普通の感覚としてあったのだと思う。
人が死ぬとか大きな事件が起きたときに、あの戦争に比べれば(大したことない)というような感覚が、いまはもう無くなっているなと思う。
『食卓のない家』ではあさま山荘事件をモデルにした事件が起きているが、やはり今の感覚ではない気がした。
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フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』

2022年02月06日 21時35分10秒 | 文学
フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』(光文社古典新訳文庫)を読んだ。
少し前に村上春樹訳を読んだばかりなので、話の内容をよく理解できた。
初めのほうに、ギャッツビー邸でのパーティーの終わりにフクロウ眼鏡の男の車が溝に落ちる話があり、フクロウ眼鏡の男が運転していたのかと思ったらもうひとり乗っていて、そちらの男が運転していた。これはギャッツビーが運転していたのかと思ったらデイジーだったという話につながるんだろうなと思った。
期待していた「オールド・スポート」については、この小川高義訳ではなんと訳していなかった。
村上春樹訳で、

「あなたはいつも涼しげね」と彼女は繰り返した。
 彼女はついさっきギャツビーに向かって、あなたを愛していると告げていたし、トム・ブキャナンもそれを見て取った。彼はあっけにとられていた。


となっていた部分は、

「いつだってクールなんだから」
 さっきはギャッツビーに好きなのよと言った。トム・ブキャナンも感づくものがあって愕然としたようだ。


となっていた。
ここの部分を『テヘランでロリータを読む』で読んでとても興味を持ったのだが、『テヘランでロリータを読む』のほうが訳が間違っているようだ。デイジーがギャッツビー(ギャツビー)に「涼しげね」と言った言葉がそのまま「愛してる」と言っているわけではないのだろう。さっきトム・ブキャナンのいないときに「愛してる」と言ったと言っているのだろう。
それともそもそも僕の『テヘランでロリータを読む』の読み方が間違いなのだろうか。

先に読んだせいか、「オールド・スポート」を愚直に訳しているところも村上春樹訳のほうが好きだ。
もう一度読むならば村上春樹訳を選ぶ。
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