今回の直木賞を受賞した葉室麟が、五十歳くらいになると自分の会社での位置がだいたいどの程度か、どの程度まで行くものかが大体分かってきて、それで小説を書き始めた、というような話をテレビ番組でしていて、そういうことはあるだろうなという気がした。三十七歳でもだいたいわかる。たぶん五十になるともっと切実に思うのだろう。
また、NHKで伊丹十三の特別番組をするのだがその宣伝を見ていると、伊丹十三が映画監督になったのは五十一歳だそうだ。
さらに「ホンネ日和」というテレビ番組で瀬戸内寂聴と南果歩が対談をしていたのだが、それによると寂聴が出家したのも五十一歳らしい。
たぶんほんとうに、五十歳を過ぎるあたりには何か思うところがあって、何かをしたい、やっておきたいと猛烈に思う時期が来るのだろうと思う。
最近NHK大河ドラマ「平清盛」を見ているせいで、ドラマの主人公が悪人であるということはどういうことなのだろうかと考える。もっと簡単に言おうとしてかえって難しく言うと、ドラマの主人公を悪人として描けないとしたらそれはどういうことなのだろうか、という問い。
平清盛は悪いこともたくさんするはずなのにいまのところドラマではその片鱗が見られない。
このまま善人のまま生涯を終えるのか、それとも思春期のある段階で自分のなかの悪に気付きそれを抱えたまま生きていくのかに興味がある。
でもたぶん善人として描かれるのだろう。
内田樹が、
《子どもって自分のことを「悪」だと思う習慣ってないでしょう。それが一三、一四歳ぐらいで初めて自分の中に「悪」を発見する。小さい時は、いつも「悪を倒せ!」と言って遊んでいたのに、「え、俺自身が悪なの?」ということでアイデンティティが大混乱する。》(『身体知 カラダをちゃんと使うと幸せがやってくる』138頁)
と言っていたが、そのような感じで、ドラマの主人公が悪人であることや、見ている人間には理由の推し量れない悪行を行うことを視聴者は許せないのだろう。
![なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)](http://ec2.images-amazon.com/images/I/41FS0Du9D4L.jpg)
H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(岩波現代文庫)を読んだ。
神がいるとするとなぜ不幸なひとがいるのだろうか、という疑問は子どものころにわりと誰でも持つ疑問だと思うのだが、それに真摯に答えている。
この本によると、神が不幸を起こしているわけではない。不幸は神にもどうしようもないことなのだ。すべての出来事には原因があると考えて、そこに神の存在を見るのだが、それは違う。
だが、不幸が乗り越えられるのは神のおかげなのだ。
というような趣旨だった。
ユダヤ教やキリスト教の教えの影響をあまり受けていないので、この本を読んだことで僕の長年の疑問が解けたというようなことはなかったのだが、神の問題が生きていくうえでものすごく切実であるひとたちがいるのだなということはよく分かった。
自分が苦しいときや他人が苦しんでいるときのことが具体的に出てくるので、興味深かった。著者が苦しみについてとても考えた人であることがよくわかる本だった。