ダブログ宣言!

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将棋にかまけて

2012年02月27日 23時03分01秒 | 文学
将棋ばかりやっていて何もしていない。
時間があるときは「Yahoo!ゲーム」で将棋を指している。
同じ手ばかり打っている。手を変えたいものだとは思うが、慣れてしまっているのでどうしても「矢倉囲い」っぽい手で打ってしまう。
強くなろうと思ったら本を読むか何かしなければならないのだろうが、そこまでやる気にはならない。

アカデミー賞は作品賞が『アーティスト』という、白黒フランス無声映画で、あまり興味が持てそうにない。

辻邦生『西行花伝』は500頁くらいまで読んだ。
長い。
会話文がとても説明的なところがあって、ふたりで会話するときにそんなに説明するか! と思った。
最初はおもしろかったのに、だんだんつまらなくなってきた。
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五十一歳の転機、悪、クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』

2012年02月21日 23時22分03秒 | 文学
今回の直木賞を受賞した葉室麟が、五十歳くらいになると自分の会社での位置がだいたいどの程度か、どの程度まで行くものかが大体分かってきて、それで小説を書き始めた、というような話をテレビ番組でしていて、そういうことはあるだろうなという気がした。三十七歳でもだいたいわかる。たぶん五十になるともっと切実に思うのだろう。
また、NHKで伊丹十三の特別番組をするのだがその宣伝を見ていると、伊丹十三が映画監督になったのは五十一歳だそうだ。
さらに「ホンネ日和」というテレビ番組で瀬戸内寂聴と南果歩が対談をしていたのだが、それによると寂聴が出家したのも五十一歳らしい。
たぶんほんとうに、五十歳を過ぎるあたりには何か思うところがあって、何かをしたい、やっておきたいと猛烈に思う時期が来るのだろうと思う。

最近NHK大河ドラマ「平清盛」を見ているせいで、ドラマの主人公が悪人であるということはどういうことなのだろうかと考える。もっと簡単に言おうとしてかえって難しく言うと、ドラマの主人公を悪人として描けないとしたらそれはどういうことなのだろうか、という問い。
平清盛は悪いこともたくさんするはずなのにいまのところドラマではその片鱗が見られない。
このまま善人のまま生涯を終えるのか、それとも思春期のある段階で自分のなかの悪に気付きそれを抱えたまま生きていくのかに興味がある。
でもたぶん善人として描かれるのだろう。
内田樹が、
《子どもって自分のことを「悪」だと思う習慣ってないでしょう。それが一三、一四歳ぐらいで初めて自分の中に「悪」を発見する。小さい時は、いつも「悪を倒せ!」と言って遊んでいたのに、「え、俺自身が悪なの?」ということでアイデンティティが大混乱する。》(『身体知 カラダをちゃんと使うと幸せがやってくる』138頁)
と言っていたが、そのような感じで、ドラマの主人公が悪人であることや、見ている人間には理由の推し量れない悪行を行うことを視聴者は許せないのだろう。

H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(岩波現代文庫)を読んだ。
神がいるとするとなぜ不幸なひとがいるのだろうか、という疑問は子どものころにわりと誰でも持つ疑問だと思うのだが、それに真摯に答えている。
この本によると、神が不幸を起こしているわけではない。不幸は神にもどうしようもないことなのだ。すべての出来事には原因があると考えて、そこに神の存在を見るのだが、それは違う。
だが、不幸が乗り越えられるのは神のおかげなのだ。
というような趣旨だった。
ユダヤ教やキリスト教の教えの影響をあまり受けていないので、この本を読んだことで僕の長年の疑問が解けたというようなことはなかったのだが、神の問題が生きていくうえでものすごく切実であるひとたちがいるのだなということはよく分かった。
自分が苦しいときや他人が苦しんでいるときのことが具体的に出てくるので、興味深かった。著者が苦しみについてとても考えた人であることがよくわかる本だった。
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テニス、ボディガード、アカデミー賞

2012年02月19日 22時54分20秒 | 映画
土曜日は、前日にお酒を飲んで帰ったこともあったし、またとても寒かったので、朝起きたときに今日はテニススクールをお休みしようと思ったのだが思い直して行った。
行ってみると気分が晴れるので行って良かったと思う。
休もうと思ったことはこれまでなかったので半年過ぎてだんだんと怠け心が出てきた。
習い事はこれからがたいへんだ。何があっても行く、という気持ちでいなければならないと思う。
テニスについては最近伸び悩んでいる、というほど上手いわけではないのだが、あまり上達が実感できない気持ちでいたのだがつい先々週あたりにコーチに指摘されてグリップの持ち方を変えたらなんか上手く打てるようになった気がしている。こういうことがたまにあると続けようという気になる。

歌手のホイットニー・ヒューストンが死んで、主演映画『ボディガード』の映像をテレビで見ていたら、伊丹十三の『マルタイの女』を思い出した。
宮本信子のクレオパトラみたいな衣装は、『ボディガード』のホイットニー・ヒューストンの衣装を思わせる。
伊丹十三は『ボディガード』を見て『マルタイの女』を作ったのかもしれない。
NHKはホイットニー・ヒューストンの追悼をするときに『用心棒』と『ボディガード』と『マルタイの女』を三夜連続放送してほしい。

アメリカのアカデミー賞の作品賞の候補の紹介番組を見ていて、
『ファミリー・ツリー』
『ミッドナイト・イン・パリ』
が気になった。
『ファミリー・ツリー』は舞台がハワイであること、『ミッドナイト・イン・パリ』は監督がウディ・アレンであることによる。
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山口仲美『日本語の古典』

2012年02月11日 18時49分56秒 | 文学
古典への興味が出るかと思い、うちにあった山口仲美『日本語の古典』(岩波新書)を読んだ。
短くいくつも日本語の古典文学が紹介されるが、あらためて読みたくなった本はなかった。著者はたくさんの古典をよく嫌にならずに読んでいるなと感心した。
はじめは真面目に読んでいたが、途中から興味のない本については最初だけ読んであとはぱらぱらとめくって次の本の紹介に移るということを続けていたら、あまり読まずに最後までめくってしまった。
僕にはほんとうに古典との縁がないと思う。
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藤井貞和『古文の読みかた』による歌のわかれ

2012年02月08日 00時37分14秒 | 文学
藤井貞和『古文の読みかた』(岩波ジュニア新書)を読んだ。
僕には古文は読めないのだなということがよーく分かった。
文法もわからなければ、単語も分からない。
これでも高校の古文の時間はもっとも力を入れて勉強した科目であるにもかかわらずさっぱり分からない。当時もよくわからなかったが、いまでもやはり分からない。
ものすごく一生懸命勉強しなければ古文は分かるようにはならないのだろうが、そこまで一生懸命勉強する意義があるのだろうかと思ってしまい、だいたい何でもそうなのだが「意義があるか」などと考えてしまった時点でアウトなのだ。長く続いて上手くいくことは、意義があるかなど考えない。
辻邦生の『西行花伝』の和歌の部分だけでも読めるようになるかと思ったが、そしてさらにそのあとに読む予定の吉本隆明の『西行論』の西行の和歌が読めるかと期待したが、無理だ。諦めよう。
和歌が出てくるたびに、テレビで放送禁止用語や大物の実名が言われた時にピー音が鳴るような感覚で、「あ、また言っちゃいけないこと言いやがって」というふうに思いながら『西行花伝』を読んでいこうと思う。
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本郷和人『謎とき平清盛』

2012年02月06日 23時28分44秒 | 文学
本郷和人『謎とき平清盛』(文春新書)を読んだ。
もっと大河ドラマの舞台裏のような話を期待していたのだが、きちんとした学者の本だった。読みやすい本ではあった。平清盛の時代に何が起きたかが、『吉村昭の平家物語』よりも詳しく描かれていて理解できた。しかしこういうのは経験から言うとすぐに忘れてしまう。新書でこんなことがありましたと言われるよりも、上手い小説家の歴史小説のほうが記憶に残る。
大河ドラマ「平清盛」を見てゆっくりと復習する。
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大野晋の『古典文法質問箱』にやられる

2012年02月05日 00時11分06秒 | 文学
古文についての良い本がないかと思い、本屋で見てまわる。
この前NHK教育の「100分de名著」の「徒然草」の回に出演していた「マドンナ先生」こと荻野文子の本を見たりした。(それにしても「ヤンキー先生」や「夜回り先生」や「金ピカ先生」など、先生というのはテレビに出るときに必ずあだ名をつけられてしまうものなのだ。)
荻野文子の『マドンナ古文』や『和歌の修辞法』などの本を見てみるが、高校生が読むような本なので躊躇する。高校生が読むような本を大人が買って読んでもよいのだろうか。そこまで真剣に古文を勉強しなければならないのだろうか。嫌にならないだろうか、間違いなくなるだろう。という気分になる。
普通の大人が古文を、短歌を趣味程度に理解したいときには誰の、どの本を読めば良いのだろうか。
高校三年間の古文の授業時間を鼻をつまんで過ごして、そのあとは見向きもせずに古文などなかったことにして生きていくというのが本当は正しい大人のありかたなのかもしれない。
大野晋の『古典文法質問箱』(角川文庫)を買ったが、これはとんでもなくひどい本だった。難しすぎてまったく読めない。そんなこと知りたくもないし興味もないし質問の意味も分からないという質問に、大野晋が答えるという本だった。この本を読むにはもっともっと古文の知識が必要だ。
アマゾンで調べると、藤井貞和『古文の読みかた』(岩波ジュニア新書)という本があり、これだったら読めるかもしれないと期待している。

それにしても、この前詩を読もうとしたときも思ったのだが、詩や短歌を知りたいと思ったひとがあったとしてもこんな状態だったら諦めてしまう人が非常に多いのではないかと思う。
わかるひとだけわかればいいよ、という態度をとっているうちに誰にもわからなくなってしまうということがあるんじゃないだろうか。
自動車について、僕はまったく興味がなくて名前とか部品とかぜんぜん知らないのだけれど、仕方がないから乗っている。まるで興味のないひとに対して訴える力が自動車業界にはないのだよなあとこの前思ったことがあるのだが、詩や短歌業界にも同じことを感じる。
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小林秀雄の「西行」

2012年02月04日 01時45分13秒 | 文学
辻邦生の『西行花伝』(新潮文庫)、いま330頁付近。まだ半分にもいっていない。とても長い小説なのだ。
待賢門院が出家するあたりまで読んだ。大河ドラマの「平清盛」を見ているのでやはり、檀れいを思い浮かべながら読んでしまっている。りょうの演じている堀河局が意外にも重要な役であることがわかる。小説によく登場する。
『西行花伝』は当然と言えば当然なのだが西行の歌が引用される。これがやはり毎度のことながらわからない。
助詞と助動詞がわからないということが決定的に和歌が読めない原因であるのだと今回はよくわかった。「ぬ」と言われても否定しているのやら完了(?)しているのやらよくわからない。もうなんと呼ぶのか忘れてしまったが係助詞と呼ぶのか、「そうであろうか、いやそうではない」というように訳すべきところなのかどうかもわからない。
このように、平成七年に書かれた小説で和歌がポンと置かれて訳されてもなくて、しかもわりと重要なことを語っている様子であるのを見ると、そんなに和歌をきちんと読める人はたくさんいるのであろうかと思う。不思議だ。
それとも辻邦生と同世代の人間しか相手にしていないということだろうか。
和歌の読み方を勉強してから来い、話はそれからだ、ということなのだろうか。たぶんそうなのだろう。

小林秀雄の「西行」も読んでみた。
こちらも和歌がたくさん引用されていたが、「小林秀雄全作品」には多くの脚注がついていたのでまだ分かりやすかった。
西行は、「どうしたらいいのかわからない自意識」について詠んでいるらしい。趣味で花や月について歌っているわけではないらしい。
そんなところに興味を持った。
自分の自意識をテーマにしているというところから、なんとなく町田康をイメージして、西行のあとは町田康でも読んでみようという気になっている。

テレビで由紀さおりが「歌うことは生きること」と言っていて西行と同じだなと思った。
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