本屋で、岩波文庫の『パンセ』の腰巻きに、「ついに、読むときが来た!」みたいなことが書かれていて、「たしかにそうだな」と思って本を手に取ってレジに並ぼうとしたが、まだ上中下の上巻しか出てないからもう少しあとでいいやと思って、思いとどまる。
ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』(平凡社ライブラリー)を確認しようとしたが、まだ並んでなかった。
ちょっと文学的なものが読みたくなってきている気がする。
孫崎享/カレル・ヴァン・ウォルフレン『独立の思考』(角川学芸出版)を図書館で借りて読んだ。
ウォルフレンの本を読むのは三冊目。だんだんとどういう主張のひとか分かってくる。
政治家ではなく官僚によって政治が動かされているのがよくないと思っていて、メディアによる「人物破壊」がひどいと思っている。
日本の”左翼”が「戦争反対」としか言わずに改憲について考えようともしなかったことをいけないと考えている。
こんな感じか。
やはり外国人だからか、日本人ではここまですっきり言えないなと思うことがある。
とくに”左翼”については、白井聡との対談でも意見が合っていなかったが、孫崎享とも合っていなかった。
社会党も大江健三郎もまったく意味がなかった、みたいに言われると「ちょっと、さずかにそこまでじゃないんじゃない? それなりに存在意義があったんじゃない?」と言いたくなるのだ。
ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』(平凡社ライブラリー)を確認しようとしたが、まだ並んでなかった。
ちょっと文学的なものが読みたくなってきている気がする。
![独立の思考](http://ecx.images-amazon.com/images/I/4198TI4aAuL.jpg)
ウォルフレンの本を読むのは三冊目。だんだんとどういう主張のひとか分かってくる。
政治家ではなく官僚によって政治が動かされているのがよくないと思っていて、メディアによる「人物破壊」がひどいと思っている。
日本の”左翼”が「戦争反対」としか言わずに改憲について考えようともしなかったことをいけないと考えている。
こんな感じか。
やはり外国人だからか、日本人ではここまですっきり言えないなと思うことがある。
とくに”左翼”については、白井聡との対談でも意見が合っていなかったが、孫崎享とも合っていなかった。
社会党も大江健三郎もまったく意味がなかった、みたいに言われると「ちょっと、さずかにそこまでじゃないんじゃない? それなりに存在意義があったんじゃない?」と言いたくなるのだ。
![禅とハードル](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51FWIvgw1HL.jpg)
ジョギングをしているので、走ることをついて人がどのように語るのか興味があり、陸上選手の為末大の本なので読んでみた。南直哉は一度、茂木健一郎の講演を聞いていたときに、対談の相手として話しているのを聞いたことはあるがそんなに興味はない。
ジョギングをするのを後押しするような話は全然なく、為末大がどのようなことを考えているかを語り、南直哉がそれを少し上から解説するというような体の本だった。
以下、気になったところ。
南 (中略)私もそうだけど、あなたみたいに物事をあれこれ深く考え込んでしまう人は、ルールがはっきりしているところにとりあえず自分を預けてしまうと安定するんですね。よく、心の状態を保つとか、平常心を持つとかいうけれど、心をコントロールしようと思ったら、体をコントロールするしか道がないですからね。(33頁)
南 つまり「好きなこと」を認められるための「手段」にしてしまうと、苦しくなってしまうわけですね。本来、好きなことをやるのは「遊び」であって、遊びには「目的」がないものなんです。目的があったら遊びにはならない。(47頁)
南 結局、夢や希望を信じている世界というのは、前のめりになっている人なんです。今の自分じゃなくて、常に未来の自分、要は前に向かって実存を投げてるんです。前にばっかり投げていくから、現在が空洞になっていくんですね。(102頁)
南 (中略)ギャンブルっていうのは、時間が常に未来にしかないんですよ。未来に結果が出るまでの時間しか興奮しないわけです。つまりそれは普通の時間を解体してしまうことになる、それで自意識も崩れちゃうんですよ。つまり自我を宙吊りにするということです。自我を宙吊りにするってことは自己存在を宙吊りにするということ。結局それって「快感」なんだと思う。自分がいるとか自分があるとかいう意識の苦しさを、消してしまいたいという欲望があるんだと思いますね。
付箋を貼っていた部分を書き写したが、結果、南直哉の言葉だけになってしまった。
盆休みに実家に帰って早起きし、自分の通った中学校と小学校と幼稚園を一時間ほどかけてジョギングして巡った。
田舎の風景はほとんど変化していなくて、こんな場所だったなと思った。
![青銅の魔人―少年探偵 (ポプラ文庫クラシック)](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51HMjJfSrQL.jpg)
テレビで高橋源一郎が、青銅の魔人は太平洋戦争で死んだ兵士たちなのだ、というような意味のことを言っていて、それならば読んでみるかと思い読んだ。
思い入れがないせいか、私にはそのような深読みは出来なかった。相変わらずの江戸川乱歩だった。
小林少年が捕まって目が覚めてみると目の前に青銅の魔人がいるのだが、実はそれは鏡に映った自分の姿で、自分が青銅の魔人になっていた、という場面がおもしろかった。
人質になった子どもが、実は変装した「チンピラ別働隊」の一員だった、ああよかった、という場面があり、いまではちょっと書けないなと思った。チンピラであれば人質になって殺されてもいいのか、と言われる。
昔はそれでよかった。