新型コロナウイルスの影響で外に出歩けないこんな時だから長くて古い小説を読んだらいいと思い、『源氏物語』を読むならば今度はちくま文庫で読もうと思っていたそのちくま文庫の大塚ひかり訳について調べたら現在全巻揃っては手に入りにくくなっていた。角田光代訳はどうも読む気がしない。
やはりずっと家で眠っている『戦争と平和』でも読むか。
![百年の孤独](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41iRt+-9xQL.jpg)
というわけでこんな時なので、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読んだ。
長い話なのだがわりと退屈せずに読めた。また読みたい、というほどは惹かれなかった。もう読まなくてもいいと思うと少し嬉しい。
大江健三郎のように「ガルシア=マルケスはどんどん衰弱しているじゃないか」と言ってみたいがほぼ初めて読むに近いので言えない。
この小説は、アウレリャノ・ブエンディア大佐が銃殺隊の前に立つところから始まり、いつもこの始まりを読むたびに(ずっと読まないでいた小説の書き出しは何度か読んでいることがある)、手塚治虫の『火の鳥』のどこかの巻で鼻の大きな登場人物(猿田彦系)がおそらく第二次世界大戦あたりの時代に銃殺隊の前に立って撃たれそうになっている場面が一瞬描かれ、それが『火の鳥』シリーズのどこかで描かれるのかと思っていると描かれない、ということを思い出していた。
そして『百年の孤独』はアウレリャノ・ブエンディア大佐が銃殺隊に撃たれるところで終わり、円環構造になっているのだろうと勝手に想像していた。が、違った。しかもアウレリャノ・ブエンディア大佐は銃殺隊に撃たれて死ぬわけではない。
『百年の孤独』は同じような名前の登場人物がたくさん登場し(それは本当)、それらの人物が区別がつかず(それは嘘)、どこから読んでもおもしろい(嘘)、というような話をこれまでこの小説の紹介で読んだことがあるような気がするがそんなことはない。はじめから読んで、最後まで読むべきだと思う。
いろいろな不思議な出来事があり、たくさんの人が死に(登場人物が死ぬ場面に付箋を付けていってたら戦地の墓標のようになった)、亡霊として登場したり、ずっと登場しなかったら引きこもってずっと生きていたりする。天女のように消えてしまった人もいたな。
最後はこれまでの歴史は全部古い本に書かれていた、というオチだった。
ある人が別のある人の思い出と重なり、短く読めるプルーストのようでもあるが、僕はプルーストのほうが好きかな。