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大江健三郎・柄谷行人『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』

2020年02月29日 20時37分36秒 | 文学
大江健三郎・柄谷行人『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』(講談社)を図書館で借りて読んだ。大江健三郎が1994年にノーベル賞をもらう前後の三つの対談。
最初の中野重治の話は私には興味が持てず理解できなかった。
真ん中に収録されているものがもっともおもしろかった。
大江健三郎はいつも江藤淳の悪口を言うなあ、という印象。
柄谷行人の『坂口安吾と中上健次』に興味を持った。それから柄谷行人の他の文学批評にも。
(だんだん文章の書き方が大江健三郎の影響を受けてきている気がする。)
柄谷行人の『定本柄谷行人集』は岩波現代文庫にはまだならないのだろうか。なったら買うのだが。
大江健三郎は『ガルシア=マルケス全小説』が発売されるときにさんざん宣伝していたように思うが、この本を読むとガルシア=マルケスについて、「今度の邦訳の出たものまで、どんどん衰弱している。『百年の孤独』もすでに衰弱している。その前の『落葉』が一番いい。」(128頁)とか言ってる。1996年の時点でどんどん衰弱しているということは、最初だけ良くてあとはずっと駄目ってことじゃないの、と思う。
でもこのように書かれると、読む予定のなかった『落葉』も読んでみようかと思う。
また村上龍について、「たとえば、村上龍なら村上龍という実力のある作家が、今度の作品を一週間で書いた、というようなことをインタビューでいっています。どんなに偉大な作家でも、一週間でいい作品を書くことはできない」(130頁)と言っていた。この話を知らないが、村上龍なら言いそうだなと思う。作品は何だろう。時期的には『KYOKO』とかか。読んでいない。
ロレンスの『虹』がおもしろそうに思った。
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川上未映子・村上春樹『みみずくは黄昏に飛びたつ』

2020年02月29日 00時35分39秒 | 文学
川上未映子・村上春樹『みみずくは黄昏に飛びたつ 川上未映子 訊く/村上春樹 語る 』(新潮文庫)を読んだ。
川上未映子が村上春樹にインタビューする本で、はじめは村上春樹のいつものはぐらかしに少し腹の立つ感じだったが、読んでいるとおもしろくなった。楽しい本だった。
マイルズ・デイヴィスが昔の自分の演奏を聴いて誰の演奏だか分からないと言った話に、「またこいつ嘘ついてるよなと思った(笑)。いい加減なこと言って格好つけやがって、忘れるわけないだろ」・「嘘つけ、ほんとにもう、とかあきれていたけど(笑)」と村上春樹が語るのだが(359頁)、お前もだよ、と思ってしまう。
少なくとも、プラトンを読んだことない、というのは明らかな嘘だろう。ヘーゲルやベルグソンの名前は『海辺のカフカ』かどこかに出てきたように思う。プラトンもどこかに出るんじゃないかな。

全体的におもしろいかけ合いだったと思うが、とくに印象的だった場面が二カ所あり、フェミニズムの話のあたりで、村上春樹作品に出てくる女性の扱い方についてのところと、最後のほうの批評についてのあたり。
どちらも緊張感のあるところだった。川上未映子がきちんと村上春樹を”責める”ことができていた。
どちらも村上春樹のほうが分が悪いように思えたが、結局は村上春樹の「僕は僕だから」みたいな理論で押し通される。
批評については、村上春樹のやっていることと批評家のやっていることの何が違うのか分からないのだが(つまり村上春樹のやるように批評をやっている批評家もいるのだろうが)、そこは認められず、「僕のやっていることは違う」という話になってしまう。
批評家への恨みの深さを感じた。

村上春樹の新作は連作短篇で、
《どこが虚で、どこが実か。最近書いている短編連作「一人称単数」は、本当にあったことみたいに読めるけど、もちろん小説だから本当にあった話じゃないわけだし、そのへんの芸というか、それはこれまでとは少し違うものだと僕自身は思ってるんだけど。》(447頁)
と語る。
これは大江健三郎なのではなかろうか。楽しみだ。
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大江健三郎『僕が本当に若かった頃』

2020年02月28日 00時46分24秒 | 文学
大江健三郎の『僕が本当に若かった頃』(1992年)の収録作品(「治療塔」を除く)を読んだ。(講談社『大江健三郎全小説6』所収)

「ベラックヮの十年」
おもしろい。
妻が出掛けた隙にイタリア語の個人教師と性的な雰囲気になるのが、わりとわくわくしておもしろい。
『神曲』からの引用もほどほど。

「夢の師匠」
いつもの一人称に続いて、わりと乱暴に戯曲のようなものが始まる。
少年が占いをやるというような話は『懐かしい年への手紙』にも出てきたように思う。ギー兄さんが白い顔をして占いをするのではなかったかと思う。
平田篤胤の「仙童寅吉」は最近書店で見かけることがある。流行っているのだろう。
戯曲らしきものはおもしろかった。この連載(1988年)があって、『治療塔』(1990年)の話になったのだろう。夢として語られる話が『治療塔』の話だった。
チェーホフの『ワーニャ伯父さん』はいろいろとよく出てくる。

「宇宙大の「雨の木」」
ずいぶん昔に読んで内容を明確に憶えていないが『「雨の木」を聴く女たち』は好きだった。再読したい。
三島由紀夫と、それからガルシア=マルケスの思い出話が語られる。
《三島由紀夫が友好的な雰囲気を壊さぬままにこちらに認めさせようとしているのは、確かに安部公房の小説は良いものだが、さらに上位に自分の小説群がある、ということ。なかなかその評価にくみせぬ頑固な僕を説得するために、三島由紀夫はなお続く上機嫌をよそおって、得意な身ぶり入りのたとえ話に移るのだ。
 ——安部は戦車を建造するんだよ、ありとあらゆるガラクタに最新式の機材をかき集めてさ。苦労をかさねて、ついに立派な戦車ができあがる。動くぞ、動くぞ、と大騒ぎする。そこまでで二百九十九ページだね。戦車は動き始める、つづいてガクリと停車する。三百ページで、小説は終る!》(402頁)
三島由紀夫、うまいなと思った。
ガルシア=マルケスは、
《結局それは、いかに語るかで、語り口を発見しさえすれば、まだ、なにを書くかはわからないまま出発しても、心をいため不安に思うことはない…… 物語ること、ケンザブロ、きみが新しい長篇を書き出せないでずっと苦しんでいるとすれば、それは物語るナラティフが見出せないでいるということだけだ……》(403頁)
と語る。
ペーニーとアガーテの、ほんとうにいたのかどうだか分からない人物の話もそれなりに興味深いのだが、実際に大江健三郎が聞いた・見たことのほうが印象に残った。

「火をめぐらす鳥」
詩を読まないので伊東静雄という詩人も知らない。江藤淳の本に出てきたことがある。
詩の解釈を間違っていたこと。それと、幼い息子の鳥の声を聞き分ける能力について語る。
オチだけはきちんと落ちたような印象を残すが、よく理解できない。

「「涙を流す人」の楡」
なにか良いことがあって、明るい気分になったということは分かるのだが、何を誤解していて、それが誤解と分かり父親と和解できたのかはっきりわからない。たぶん朝鮮人の遺体を別の場所に移動させていたと思っていたら、自分の土地に埋葬していた、というようなことだと思うが、分かりにくく書くので何のことだかわからない。

「僕が本当に若かった頃」
語り手の家庭教師としての教え方の「方法」というのが興味深かった。数学でも何でも、文章にさせる。
最初の若い頃の家庭教師の話はなかなかリアリティがあって、おもしろい。だんだんと話が嘘くさく(というと誤解があって、嘘くさくというほど嘘くさくはないのだが)、まあ大江健三郎的な虚構が入ってくると、いつものアレだなと思えてくる。こんな感じでこんなふうに書くひとを他に知らないのでたまに読むとすごいと思うのだが、最近こればっかり読んでいるので新鮮な驚きはない。
「アレ」と言えば、『取り替え子』(2000年)シリーズで何度も出てくる言葉だが、この短篇でも登場する。
今回の「アレ」は、自殺行為というようなことだろうか。

「マルゴ公妃のかくしつきスカート」
おもしろかった。
何が言いたいのかさっぱり分からないが、とても印象に残る。
渡辺一夫先生の本の、マルゴ公妃の話から、東南アジアの女性に結ぶ。

「茱萸の木の教え・序」
血はつながっていないが伯父の家に住んでいたタカチャンが死んで、その追悼の本を出すことになり、その本のタイトルが『茱萸の木の教え』でその序文を書いた、という体のもの。もちろん、そのような本はないし、タカチャンもいないのだろう。
すごく手が込んでいる。
タカチャンは『河馬に嚙まれる』(1985年)の「四万年前のタチアオイ」に登場するようだ。
タカチャンがファンの映画女優Y・Sさんというのは白血病の芸者を演じたということなので吉永小百合なのだろう。
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大江健三郎『いかに木を殺すか』

2020年02月25日 00時22分26秒 | 文学
大江健三郎の『いかに木を殺すか』(1984年)の収録作品を読んだ。(講談社『大江健三郎全小説6』所収)
この短篇集はほんとうに読みにくい。「揚げソーセージの食べ方」だけが唯一読みやすい。

「揚げソーセージの食べ方」
「『芽むしり仔撃ち』裁判」と較べると驚くべき読みやすさ。
兵衛伯父さん、は何とお読みすればよろしいのでしょうか。「べえおじさん」? 「ひょうえおじさん」?
祖母と呼びながら祖母じゃない、伯父と呼びながら伯父じゃない、という話は『治療塔』にも登場した。
『二百年の子供』に登場したムー小父さんも性的いたずらみたいな噂がもとで教師を辞めたはずだが、兵衛伯父さんも牝山羊への性行為を噂されて代用教員を辞める。
『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』が引用される。
揚げソーセージを食べる兵衛伯父さんの姿を引用し、どこかで吉本隆明が絶賛していた記憶があるが、それを読んだときも思ったが何がすごいのかわからない。浮浪者に聖人の姿を見るところ?

「グルート島のレントゲン画法」
《昨年ブッカー・リトル賞をもらうことになった僕と同い年のシドニーの作家》(159頁)とあり、トマス・キニーリーが『シンドラーのリスト』で1982年にブッカー賞を受賞しているが、「ブッカー・リトル賞」とは間違いだろうか。
《Aさんはもともと理科系の頭脳の持主で、俗事に超然としているが、その小説に登場するひと癖もふた癖もある私立探偵同様、思いがけぬ情報通でもある。》(162頁)とあり、Aさんとは安部公房のことだろうと読んでいたけれど、私立探偵の出てくる小説を書いているのだろうか。知らない。
あまりおもしろくなかった。
この短篇集は、現在の出来事から過去を思い返す短篇を集めた、ということなのだろうか。オーストラリアに若い頃に行った話。

「見せるだけの拷問」
蓮實重彦と柄谷行人がH氏、K氏というアルファベットで語られる。
『忠臣蔵』には猪を撃つ場面があるのかな。
ザッハリッヒとは「即物的」。
「酔って・笑いながら・昂奮して」というタイトルは『わたしが・棄てた・女』を思い出させる(読んでいないが)。
おもしろさがわかりません。

「メヒコの大抜け穴」
私にはこの短篇のおもしろさがわからない。意図も分からない。
映画監督のO氏が大島渚なのだろうとはわかり、そこからホモ・セクシュアルの話になり、そのあと「『雨の木』の首吊り男」に登場するのだろうカルロス・ネルヴォの話になり、『同時代ゲーム』の廃棄した草稿からの引用になる。
壊す人って言われると、私には関係ないなと思ってしまう。きちんと読む気がしなくなる。

「もうひとりの和泉式部が生れた日」
和泉式部の歌の一部を「歌のカケハシ」として記憶していて、それを女先生と校長に殴られながら責められる。
そして女先生は裸で走る。
ほんとうに意味不明。

「その山羊を野に」
エドマンド・リーチによれば、供犠の動物と贖罪山羊の役割のちがいは、殺されるか殺されないかの違い、ということ。
それで言えば、蜜枝アネサマは贖罪山羊なのだろう。
退屈で読むのが苦痛だった。

「「罪のゆるし」のあお草」
これは途中の、『同時代ゲーム』などからの引用や、壊す人や千里眼の話は必要かなあ?
そんなものを省いて、イーヨーじゃなくなったヒカリが四国に祖母に会いに行った、そして帰ってきたというだけの話にすればいいんじゃないかな。そうすればただの感動話になってわかりやすいけれど。
大江健三郎はそうしたくないのだろうけれど、大江健三郎のこれまでの作品に興味がない人にはまったくもって意味不明で、最後まで読めないだろう。

「いかに木を殺すか」
もう読めなくて途中から飛ばし読み。
壊す人に対して僕には拒絶反応がある。壊す人と書かれていると、読む気が80%くらい失せる。
「このあと壊す人が登場します。お気をつけ下さい。」とでも書いておいて欲しい。
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A.A.ミルン文・E.H.シェパード絵『プー あそびをはつめいする』

2020年02月24日 22時44分21秒 | 文学
A.A.ミルン文・E.H.シェパード絵『プー あそびをはつめいする』(岩波書店)を図書館で借りて読んだ。
イーヨーが川で浮かんでいて、そこにプーが助けようとして大きい石を落とすところは可笑しかったが、いったいこの話はなんなのかよくわからなかった。
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A.A.ミルン文・E.H.シェパード絵『イーヨーのあたらしいうち』

2020年02月24日 22時22分41秒 | 文学
A.A.ミルン文・E.H.シェパード絵『イーヨーのあたらしいうち』(岩波書店)を読んだ。
わかりにくいが、私の娘はこの話を理解できるのだろうか。彼女が読み終わったら聞いてみよう。
前作と違って、クリストファー・ロビンの父親が語るという格好になっていなくて、プーさんがいて、コブタがいて、ロバのイーヨーがいて、クリストファー・ロビンもいる。
イーヨーに家を建ててあげようと、プーさんとコブタがイーヨーの家をそれと知らずに壊して、別の場所にイーヨーの家を建ててあげる。
大江健三郎はなぜ長男をイーヨーという名前で呼ぶようになったのだっけ。なにかで読んだような気もするが忘れてしまった。
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『いかに木を殺すか』読書中

2020年02月22日 00時19分58秒 | 文学
いまは大江健三郎の『いかに木を殺すか』に収録された短篇を読んでいるがとっても難しい。
このあと大江健三郎では、
・『僕が本当に若かった頃』の短篇
・『河馬に噛まれる』
・『「雨の木」を聴く女たち』
・『静かな生活』
は読むつもり。しかし『いかに木を殺すか』を読む限りでは挫けそうにもなる。
『同時代ゲーム』に苦手意識があり、壊す人とか「在」とか言われると、もう嫌になってくる。
長篇まではいけないかな。

SFは、
・ジョージ・オーウェル『一九八四年』(既読)
・ケン・リュウの短篇集(既読)
・大江健三郎『治療塔』(既読)
・大江健三郎『治療塔惑星』(既読)
・テッド・チャン『あなたの人生の物語』(既読)
・オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(既読)
・メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』(既読)
・ストルガツキー兄弟『ストーカー』(既読)
・オースン・スコット・カード『無伴奏ソナタ』(既読)
・アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』 ←いまここ
・レイ・ブラッドベリ『華氏451度』
・マーガレット・アトウッド『侍女の物語』
・ザミャーチン『われら』
・スタニスワフ・レム『ソラリス』
となっている。だいぶ読んだ。
ケン・リュウが結局いちばんおもしろい気がする。

ついにガルシア=マルケスの『百年の孤独』を購入。
南米的なものを読みはじめたら、ただちに『百年の孤独』を読む。ちょっと様子を見ようと思って、短いから、などとボルヘスなどには手を出さぬこと。それでいつも失敗する。
『百年の孤独』だけ読めば良いと思って、読む。
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オースン・スコット・カード『無伴奏ソナタ〔新訳版〕』

2020年02月21日 19時22分16秒 | 文学
オースン・スコット・カード『無伴奏ソナタ〔新訳版〕』(ハヤカワ文庫SF)を読んだ。

「エンダーのゲーム」
スポ根ものをSF風味で書いた小説だなと思い、あまりおもしろくなかった。
こりゃ僕にはあわないなと感じた。他の小説もそうならば、表題作だけ読んで終わりにするか、と思った。

「王の食肉」
これがすごかった。
〈羊飼い〉が殺さずに人間の肉体を取り、王の食事にする話。

「深呼吸」
人々の呼吸が合い始めると、危険という話。
おもしろい。

「タイムリッド」
おもしろかった。
過去に行って死を体験してくる人たちの話。それに翻弄される過去の人。
オチがわかりにくい。

「ブルーな遺伝子を身につけて」
地球に帰還したら地球人は地下に暮らして、体も小さくなっていた。ロシア人と闘っているつもりだったが、すでにロシア人はいなかった。
生き残るために子孫の形態をバクテリアのようなものに変えてしまっていた。
というすごい話だった。

「四階共用トイレの悪夢」
赤ん坊の怪物が気色悪すぎる。
強烈。

「死すべき神々」
不死のエイリアンの話。

「解放の時」
行ったり来たりでよくわからない。
家の書斎に棺があるというのがすごい風景だと思った。
結局子供はいるのかいないのか。いたということなんだろうな。

「アグネスとヘクトルたちの物語」
SFは初めルールがわからなくて、ルールがわかったら終わりみたいな話があるが、そんな話。
長いが、あまり好きな話ではない。

「磁器のサラマンダー」
磁器のサラマンダーには心がなくて、呪いを解くために最後は壊される。
短いが、好きな話ではあった。

「無伴奏ソナタ」
この短篇が目当てでこの本を読んでいたのだが、予想とは違う話だった。
もっとピアノ演奏をする話かと思っていた。
近未来ディストピアの話だった。
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大江健三郎「身がわり山羊の反撃」「『芽むしり仔撃ち』裁判」

2020年02月19日 22時54分26秒 | 文学
大江健三郎の「身がわり山羊の反撃」と「『芽むしり仔撃ち』裁判」(いずれも講談社『大江健三郎全小説6』所収)を図書館で借りて読む。短篇集『現代伝奇集』(1980年)のうちの二篇で、文庫になっていない。

「身がわり山羊の反撃」
プロフェソール、と何度も何度も語りかけるところが『同時代ゲーム』(1979年)を思わせる。
このころの大江健三郎は南米の話が多い。
四国の小さな村からメキシコにやってきた医師が語り手で、大江健三郎自身を思わせるプロフェソールと彼が呼びかける相手に語る。
何が言いたいのか、どうしたいのかわからず、読むのをやめようかとも思うが、最後まで読ませる。最後まで読んでもよくわからないが、なにかドスンと腹に溜まる感じ。
相手に対する語りかけの熱量?
タイトルの「身がわり山羊」というのは、この語り手が四国の村でちょっと差別された場所に住んでいて洪水で近隣の人と家族が流されひとりだけ生き残り、そもそも自分たちは何かがあったときの犠牲にするために村に存在していたのだと思うところから。

「『芽むしり仔撃ち』裁判」
『芽むしり仔撃ち』はずいぶん昔に読んだが憶えていない。この短篇を読む前に読むべきなのだろうが面倒なので読まない。
それにそれを言うなら、大江健三郎の小説はすべてを年代順に読まなければいけなくなってしまいそうだ。
ヴィエトナム戦争で体の半分を負傷した車椅子の日本人が登場し、「反・弟」と呼ばれる。彼はたぶん『芽むしり仔撃ち』に登場し、そこで「弟」と呼ばれていたということなのだろう。(読んでいないので分からない。)
川に流されて死んだ。そしてそう思っていたら死んでいなくて占領軍と一緒に帰ってきて村人を訴えた、という話になっている。
「反・弟」は話すことが出来なくて、介添人に手で書く文字を通訳して話してもらう。介添人の女性は、「反・弟」の言いたいことも話し、たまに自分の言いたいことも話し、語り手も話し、不思議な会話になっていた。おもしろい。
そのうちに「反・弟」は川で死んだ「弟」ではなくて「兄」のほうだと語り手は気づく。「弟」はやっぱり川で死んでいた。
最後に語り手は自分が『芽むしり仔撃ち』を「兄」の視点で書いた兄を持つ弟であると語る。(何と複雑な。)
大江健三郎の文章が独特で、すごい。
「身がわり山羊の反撃」はプロフェソール、で語りかけるが、こっちは、兄さん、で語りかける。
しかしやはり『芽むしり仔撃ち』を読んでから読むべきものだなと感じた。新潮文庫の『芽むしり仔撃ち』には付録に「『芽むしり仔撃ち』裁判」を付けて欲しい。
トーマス・マンの『マリオと魔術師』について言及され、ファシズムの雰囲気が分かりそうなので読んでみたい。
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A.A.ミルン文・E.H.シェパード絵『プーのはちみつとり』

2020年02月17日 00時21分36秒 | 文学
A.A.ミルン文・E.H.シェパード絵『プーのはちみつとり』(岩波書店)を読んだ。
娘(七歳)のために図書館で毎週本を借りるのだが、僕が自分で読むことはない。
プーさんの話は大江健三郎を読んでいるとたまに出てくるので読むことにした。この前も『治療塔惑星』に、行き止まりだったか、立ち入り禁止だったかの看板の絵が登場し、それがプーさんで使われていたものということだった。宇宙の端っこにそんな看板があるのではないか、というような話だったと思う。他の作品でも、息子の名前をイーヨーにしていて、それがプーさんに出てくるロバか何かの名前らしいので読んでおくことにする。この本ではイーヨーは登場しなかった。

『プーのはちみつとり』は、語り手はある父親で、その息子はクリストファー・ロビンという名前。息子の持っている熊の人形がプーさんということだった。
父親が息子に、プーさんの登場するお話を聞かせるという体裁の絵本だった。この息子がちょっといじっぱりで、自分がわからないんじゃなくて、プーさんがわからないだろうから説明を求めているんだ、という言い方をする。そこが、ちょっと分かりにくいんじゃないかと思った。
うちの娘はこの話を分かって読んだのだろうか。
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