ダブログ宣言!

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☆最近の読書

2008年07月30日 01時55分19秒 | 文学
ここ最近の読書。
ヘーゲルの「精神現象学」(作品社)を読んでいる。
「精神現象学」のなかではもっとも読みやすいとされる長谷川宏訳だが、やっぱり難しく(いまのところほぼ解読不能)、竹田青嗣と西研の「完全解読 ヘーゲル『精神現象学』」(講談社選書メチエ)を図書館で借りてきて読む。
教科書ガイドに手を出してしまったようで、妙な罪悪感。
しかし、竹田青嗣と西研の本は驚くほど読みやすい。ほんとうにヘーゲルと同じことを言っているのだろうか。すごい。
ヘーゲルの賢さにちょっとだけ触れられた気になる。
難しい本を読むと「このひと賢いっ!」ってたまに思えるところに喜びがあると思う。普段生活していて会話して、「このひと賢いっ!」って思えることってほとんどありません。ここ十年で一回くらいあったかな。
別に僕が賢いからじゃなくて、普段の会話で相手の賢さが引き出せることってほとんどないということだと思います。
そのような賢さを競うような、進学塾でのエリートみたいな会話をしたくないし。できないし。
自分の知っていることを言い続ける人もたまにいるけど、そういう人と会話して「このひと賢いっ!」と思うことはまずない。だいたい逆のことを思う。

「シェイクスピア物語」の下巻も通勤時に読んでいる。
こんなところです。
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☆テレビのビ(映画「ネバーランド」感想)

2008年07月27日 23時40分40秒 | 映画
ネバーランド録画していたマーク・フォースター監督の「ネバーランド」を見た。
「ピーター・パン」の作者ジェームズ・バリの話だった。
舞台を見る作者が描かれた映画にあまりハズレはないので――そもそも舞台を見る作者が描かれた映画があまりないのだが。「アマデウス」と「恋におちたシェイクスピア」くらいしか思い浮かばない。しかしどちらも名作。――、この映画もなかなか面白かった。
空想するということが生きていく上では必要、というような話なのかな。あまりそこのところはどうでもよくて、作った芝居がみんなに大受けする、それを作者といっしょに喜ぶところが好きです。「敬愛なるベートーヴェン」と同じです。
途中、ピーターという名前の、ピーター・パンのモデルになったひねくれた子供が突然怒り狂って「ママはほんとは風邪じゃないんだろう。パパの時と同じでまた死んじゃうんだろう。」っていうシーンがあったけれど、そんなに怒るかな? と思って違和感を感じた。
「ピーター・パン」の舞台の初日に、孤児院かどこかからチビッ子たちをたくさん連れてきて客席のあちらこちらに座らせて、その子たちが笑うことで大人の笑いも誘うのがすごいと思った。これは本当の話なのかな。
最近のテレビではこれをやりすぎていて、テレビのなかだけは大爆笑なんだけれど、こちらはどこがどうおもしろいのかわからず途方に暮れていることがよくある。今年の「FNS27時間テレビ」もそんな感じだった。どんどんテレビが見れなくなっている。
見(聴き)続けないと身体が慣れずに面白さがわからないというのは、映画でも音楽でもそうなので、特にテレビに限ったことではなくテレビには「テレビの美」というようなものが(「テレビのビ」って「らくごのご」みたいだな)あるのだろう。僕にわからないだけで。
そう思って、面白くないと思ったからといって悪口をあまり言い立てないようにしようと最近思っている。
ニーチェの「愛せない場合は通り過ぎよ」の心境だ。
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☆失われた「考える人」を求めて

2008年07月27日 10時26分06秒 | 文学
そういえばこの間雑誌「考える人」の「特集 海外の長篇小説ベスト100」に載っていた鼎談を立ち読みしたときに、加藤典洋が「失われた時を求めて」の結末を語っていて憤慨したのだが(参照)、その結末とは、サン=ルーとジルベルトが結婚しているのを語り手が知って、いまはもう失明してしまった語り手が……、というようなものだった(はず)。
確かに、サン=ルーとジルベルトは結婚したが、語り手は失明しなかった。これから頑張って小説を書きますよ、私は、ってところで終わった。
「おいおい、ばらすなよ」って思って急いで雑誌を閉じたので、僕の勘違いかもしれない。
加藤典洋が正しくはどう言ってたのかいまとなっては確認しようにもできない。(ほんとは図書館に行くとか注文して買うとか、方法はあるのだろうがそこまでの熱意はない。だいたいこの雑誌は値段が高すぎる。)
まあ加藤典洋も高校生だったか大学生だったかの夏休みに読んだって言ってたはずだから記憶も曖昧なのかもしれないな、と私自身が曖昧な記憶に基づいて書いている(ひどい)。
この雑誌のホームページに海外の長篇小説ベスト100の13位まで載っているが、
1位の「百年の孤独」、
7位の「白鯨」、
12位の「戦争と平和」
を除き読んでいる。正確に言うと、最後までページをめくったことがある。
なかなかいい割合なのだが、1位を読んでいないのが悔しい。なぜ読んでいないかというと、文庫になっていないからだ。
新潮社におかれましては、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」とミシェル・フーコーの「言葉と物」を早く文庫にしてくれと申し上げます。
「白鯨」と「戦争と平和」は近々読みたい。
プルーストを読み終えたら、いろいろ読もうと思っていたはずだが、いざ読み終わってみると何を読むか迷う。
まずは「デイヴィッド・コパフィールド」かなあ。読みやすそうだし。しかしちょっと長いかな。
司馬遼太郎のあれこれを読もうと思ってたけど、これも何にするか迷う。
NHKの大河ドラマ「篤姫」の影響で、また幕末に興味を持っているのでそのへんかなあ。
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☆「失われた時を求めて」メモ68 (「見出された時」読了)

2008年07月26日 00時13分28秒 | 文学
失われた時を求めて 13 第七篇 完訳版  (13) (集英社文庫 ヘリテージシリーズ)プルースト「失われた時を求めて」13巻読了。
・とうとう全部読み終わった。ああ、よかったよかった。やれやれ。
・ジルベルトの母親のオデットはゲルマント公爵と付き合っている。つまり不倫の関係。
若いころからの習慣だ。
もうどちらもかなりの老人なんだけど。
・サン=ルーとジルベルトの間の娘は、スワン家の方とゲルマントの方との融合。いろいろなひとがいろいろなことを思い出させる。
・確かにこれまで読んできて、「ああ、あのひとはこんなになったんだ」とか「あんなことあったよな」とか「まだあんなことやってるんだ」という思いはあり、それは長く読んできたからで、この小説においてある程度は長さは必要なのであろうが、しかし、やはり、あえて言うと、あまりに長すぎるんじゃないかとは思う。やっぱり。
気軽に読めないもの。
憶えていない部分もかなりあるだろうし。
・しかし他の小説では見たことも聞いたことも経験したこともないようなことがこの小説にはある。
思想もいちいち深いし、なにはともあれ傑作なんだろうな。
・再読? 無理です。いまは考えられません。
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☆将棋 (メモ67)

2008年07月24日 01時16分55秒 | 文学
NHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」の、将棋の名人戦の回を録画していたのでそれを昨日見て、将棋がしたくなった。
羽生善治が、勝てそうになると手が震えるのが可笑しかった。「あ、あれが出たからもうおしまいだ!」って感じの、アニメでよく見る、「キン肉マン」で言うと”火事場のクソ力”、「さすがの猿飛」で言うと”魔子ちゃん、いじめた”みたいな、そのようなものを思い出した。
羽生善治は話し方や声が映画監督の周防正行に似ている。賢い感じの、でもちょっとお坊ちゃんみたいな話し方というものがある。
話し方と言えば、今日バスに乗っていると夫婦らしき男女(おそらく三十歳代)が乗ってきて話していたのだが、旦那のほうが幼い感じの、オタクみたいな話し方(って言っても伝わる人には伝わるし、分からない人には全然分からないんだろうけど)だった。奥さんの方はお母さんみたいな話し方。
聞いていて、夫婦だけの時って僕も話し方が変わっているのかもしれないな、と思った。気をつけないと。

プルースト「失われた時を求めて」13巻158ページまで。
・もうすぐ終わると思うとなかなか感慨深い。
ここまで来るとこの小説が子供のママへの甘えとか青春の恋愛とかではなくて、老人(とまではいかないかな。もう若くない人)の回想を扱ってるんだということが分かる。
記憶とか、僕が僕であることの無根拠さ(尾崎豊っぽく言いました)が扱われている。
・ゲルマント大公夫人が死に、ヴェルデュラン夫人が今のゲルマント大公夫人になっている。まるで落語か梨園の世界だ。二代目ゲルマント大公夫人。
・ひとと出会ったときにそのひとの今から過去を考えるが、そのひとはずっと過去を引きずってきている存在である、というようなこと。
初対面のひとが眼鏡をかけていると、そのひとの眼鏡をかけた両親や眼鏡をかけた兄弟、眼鏡をかけた恋人、眼鏡をかけているように見える愛犬、少年時代の暗闇での読書、泣く泣く諦めたパイロットの夢、などなど、いろいろと想像するのだが、もしかしたら一週間前から眼鏡をかけ始めているだけかもしれない。
そのようなことはよくある。
痩せている人は昔から痩せているように思うし、太っている人は子供のころから太っていると思ってしまう。
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☆「失われた時を求めて」メモ66

2008年07月21日 21時14分42秒 | 文学
失われた時を求めて 12 第六篇 完訳版 (12) (集英社文庫 ヘリテージシリーズ)プルースト「失われた時を求めて」12巻読了。
・サン=ルーも死んだ。戦死。
・敷石でこけそうになってヴェネツィアを思い出し、スプーンが食器に当たった音でハンマーの叩く音を思い出し、ナプキンの糊の固さでバルベックのホテルのタオルを思い出す。
ここから文学論がずっと続く。なかなかおもしろい。
最近の映画館の設備はどんどん良くなり音もでっかくなり椅子もよくなるのだが、かつてビデオデッキでテレビ放送を録画して画質の落ちた映像で何度も見ていたアニメ映画(「幻魔大戦」とか「ルパン三世 カリオストロの城」とか)ほどの喜びがあるかというとそんなことはない。
数値で計れるような客観的な質の高さに応じて、見たひとの感動も高まるわけではない。
簡単に言ってしまうとこのような雰囲気のことじゃないかな。
知性ではなく印象こそ文学者が大事にすべきものだということが語られる。
・あと一冊。
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☆LOVE2008

2008年07月21日 02時01分00秒 | 勉強
連休中で本当はもっと試験勉強をしなくてはならないのだが、あまりしていない。
一日一時間くらいか。
勉強のできない身体になっていることを実感する。
まあ女子マラソンの選手のように試験当日にベストの状態に持っていくようにやりますよ私は。試験当日さえ上手くいけばいいのだから。
女子マラソン選手だけじゃなく他のスポーツ選手も試合当日に向けて調整はするのだろうが、そういう話を初めて聞いたのが女子マラソン選手についてだったのです。
お気に入りの曲をYouTubeで聴いて気分を盛り上げて、今後も勉強したい。
ちなみに、音楽を聴いて気分を盛り上げるというのも、女子マラソン選手から学んだ。女子マラソン選手から学べることはまだまだたくさんあるはずだと思う今日この頃。
最近の私のお気に入りの曲はhitomiの「LOVE2000」ではなくて、
映画「コーラス」を見て知った「夜」(YouTubeより

ケルティック・ウーマンの歌う「主よ、人の望みの喜びを」(YouTubeより
です。
どちらもキリスト教的なのが共通していて、最近の私の気分をなにかしらは表しているのだろう。
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☆宮崎駿監督「崖の上のポニョ」を見に行った。

2008年07月20日 11時07分14秒 | 映画
久しぶりに映画館に行き、宮崎駿の新作「崖の上のポニョ」(公式サイト)を見た。
わりとあっさりとした楽しい映画だった。
年取ったハウルのような顔をしたフジモト(声:所ジョージ)がもうちょっと屈折してたらな、と思うが、今回はそういう映画ではなかった。僕はここ最近の宮崎駿アニメはカオナシ、ハウルと続く引きこもり青年に注目し、共感(?)を持って見ているので、そういうところがなかったのが少し残念。
プロの声優ではなく役者やテレビタレントを使うことについて、これまで何とも思ったことはなかったのだが、今回の所ジョージに関して初めて「ん?」と思った。
目玉のついた魚のような波のようなものとか、グランマンマーレ(声:天海祐希)の登場とかわくわくさせるシーンはたくさんあるのだが、メッセージのようなものはあまりなく、あるとすれば、
・女性の年寄りにもっと元気になってほしい、または、女性は年取っても元気だ。
・すっぴんでも相手を愛せなければ結婚してはならない。
の二点くらいだったと思う。
見終わってよく考えたらなんでもない映画なのだが、見ている間は楽しい、そのような映画です。
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☆「失われた時を求めて」メモ65

2008年07月19日 14時21分22秒 | 文学
プルースト「失われた時を求めて」12巻304ページまで。
・試験勉強も始まったことだし、いい加減読み終わっておこう。
・シャルリュスがホテルでベッドに縛りつけられて鞭で打たれている姿を覗き見する。《岩に縛りつけられたプロメテウスのように》(259ページ)というSMと神話を結びつけた比喩が笑える。
しかし戦争中にこんなことをやっている人たちがいるのがすごい。
敵の飛行機から家の灯りが見えないようにするとか、そういったことは太平洋戦争のときの話で日本でもよく聞くが、ホテルに集まってSMプレイをやっていたという話は寡聞にして知らない。
谷崎潤一郎か永井荷風か川端康成あたりを読めば書いてあるのだろうか。
・向こうからはこちらの姿が見えない控室のようなところから、シャルリュスのゲイっぷりを覗き見する。
これはこの小説の始めの方に、ヴァントゥイユの娘とその女友達の行為を覗き見するところがあり、そこと似ている。
シャルリュスは逃げられたモレルに似た男を探している。
・最後にきて話がすごいことになってきた。もうやりたい放題。
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☆試験勉強をします

2008年07月19日 00時54分10秒 | 勉強
去年は途中で諦めてしまったが、今回は資格試験を受けることとする。
新しいカテゴリー「勉強」も追加し、試験勉強報告を書いていくこととしたい。
しかし、受けると決めてちらっと参考書を読んだだけなのにすでに平常心ではなくなっている。胸が苦しい。たすけてー。
なんでこんなに試験というだけでプレッシャーがすごいのだろうか。
大学受験の時のトラウマだ。
自動車教習所のPTSDだ。
大学受験の時はトイレがもの凄く近くなったし、自動車教習所は登校拒否になった。試験というものが本当に苦手だ。どちらも合格できてほんとに良かった。
小説だったらいくらでも読めるのに、参考書となるとたちまち読解力に支障をきたしてしまうのはどうしたわけだろう。由々しき問題だ。
小説を読むような気持ちで参考書を読むようにしたい。プルーストが誰かの真似をして書いた参考書もどきの文学書だと思い込もう。
今日は30分くらい参考書を読み、インターネットで受験申し込みをする。
コンビニにお金を支払ったら、覚悟を決めて勉強しなければならない。
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