ダブログ宣言!

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☆「アメリカン・スウィートハート」はくだらん

2007年09月30日 18時31分06秒 | 映画
アメリカン・スウィートハート録画した映画「アメリカン・スウィートハート」を普通のラブコメを期待して見る。
ほんとうにくだらない。
脚本はまだ最後まで出来てなかったけど、俳優さんが集まっちゃったのでとりあえずカメラを回してみました。といった感じの映画だった。
はっきりと失敗作と言えると思う。
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☆暴発する橋本治

2007年09月30日 02時16分54秒 | 文学
これまでも橋本治の本はいくつか読んできて、いまのところ「宗教なんかこわくない!」と「いま私たちが考えるべきこと」が特におもしろかったのだが、いまは「源氏供養」(中央公論社)を図書館で借りてきて、「カラマーゾフの兄弟」のあいまに少しずつ読む、つもりだったのだが、おもしろいのでついつい優先的に読んでしまう。(「カラマーゾフの兄弟」はもうすぐイワンが「大審問官」を語る)
先行作品となんらかの関係のある作品のおもしろさを語る場合、「先行作品を知らなくても楽しめる。しかし知っていたらなお楽しめる。」というように言われる場合があり、それを聞くと、「そんなの嘘に決まってる。先行作品を知らずに楽しめるわけがない」といつも思っている。
たとえば、埴谷雄高の「死霊」はドストエフスキーの諸作品を読まずには楽しめない、のだろうと思う。(読んでも楽しめないかも)
また、映画「幸せのレシピ」は「マーサの幸せレシピ」を見ずには絶対に楽しめない、ってことはない、たぶん。これは例外。
まあ、それはいいとして。
橋本治のエッセイ「源氏供養」を読むには、「源氏物語」の話をだいたいは知らないと面白くないのだろうとは思うけれど、この本はそうとう面白い。
いつものことながらこれまでどこでも読んだことのないことを言ってくれる。誰も言わないことを言うひとはそれだけで価値がある。
もっとも強烈だったのはこんなところ。

《あまり公然とは言われないことかもしれませんが、自慰行為というのは、自分自身のセクシュアリティを育てる為に必要な行為、あるいはその時期なんじゃないでしょうか。》(p.170)
《平安時代と言いますか、近代以前の男の悲劇と言った方がいいのかもしれませんが、それは「自分自身の性欲を自分自身で把握する権利を奪われていたこと」だと思います。思春期に自慰の必要を認められないというのは、今という時代の観点から見ればそうしかならないと思います。だから、近代以後の男の悲劇は、「近代以前の男をそのように見ることが出来ないでいたこと」でしょう。》(p.171)
《昔、男というものは、女というものを使って自慰行為を演じた。それを近代以降は一人で演じるようになった。それを「貧しい」とか「寂しい」とか「いけない」とか言うのが近代以後の性に関する間違いで、これは「そういうもの」だと思います。》(p.175)

珍しく長々と引用してしまいました。
性については相当にその時代の感覚に支配されていて、その存在に気づかずにいるということがあると思うので、このようなことを言われるととても新鮮だ。
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☆三島由紀夫「黒蜥蜴」

2007年09月29日 13時46分25秒 | 文学
借りてきた「決定版 三島由紀夫全集23」に収録されていた戯曲「黒蜥蜴」をそれほど興味はなかったが、いい機会だから読んでみる。
実際に舞台を見たことはないのだが、やはり黒蜥蜴は美輪明宏に当てはめて読んでしまう。明智小五郎は天知茂。
ふたりのおっさんが華麗に演じる。
黒蜥蜴は最初若い娘に変装するのだが、これが美輪明宏で可能なのだろうかと心配になりつつ読んでいく。
そこだけ実際に見てみたい。
年とった女優が若い役を演じると、全く不自然にしか見えないのに周囲が褒め称えるということがあり、そのような悲しい雰囲気になっているのではないかなあ。
最後に登場する日本人男性のはく製はやはり三島由紀夫で想像してしまった。
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☆三島由紀夫「熊野」「弱法師」

2007年09月28日 01時03分27秒 | 文学
最近あまりにも本の話が多くて少し恥ずかしい感じなのだが、今日も本の話。
三島由紀夫「近代能楽集」の「熊野」と「弱法師」を読んだ。
「熊野」(「ゆや」と読みます)はお母さんが病気だからと実家に帰ろうとする女を男が花見に行こうと言って帰さない話だった。実は女が母親に嘘をつかせていたというオチ。
女は実家に帰りたいのに男が帰さない、というところで「源氏物語」の「桐壺」を思い出す。最近「源氏物語」について考えることが多い。
能の「熊野」も白洲正子の現代語訳で読んだはずなのにもう内容を忘れてしまった。同じような話だったのだろうか。熊野(ゆや)という名前の女が出てきたのは同じだと思うのだが。
「弱法師」(「よろぼし」と読みます)は、盲目の男の話で、彼が実の両親と育ての両親の間のどちらを選ぶかという話だった。どちらの両親も男の言いなりになるという、よくわからない話だった。しかし男の話す思想がなかなか面白かったように思う。こっちは能ではどんな話なのか知らない。

新潮社の全集版では旧仮名遣いで書かれていて、だんだんそれが好きになってきつつある。
ずっと読んでいると、日本語はこのままの、旧仮名遣いで書かれたままの読み方で読むのが正しくて気持ちいいのだな、と思えてくる。(たとえば「おもへて」は「おもえて」などとは読まずそのまま「おもへて」と発音するというように)
また、丸谷才一に一歩近づいてしまった。(「ルパン三世」の石川五ェ門の「また、つまらぬものを斬ってしまった」と似た気持ちです)
三島由紀夫の「近代能楽集」は戯曲で、そのせいかどうかわからないが、読みやすい。ひとつひとつが短いし。
台詞だけで、小説のようにながながとした描写がないせいかもしれない。
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☆三島由紀夫「源氏供養」「道成寺」

2007年09月26日 21時09分52秒 | 文学
決定版 三島由紀夫全集〈23〉戯曲(3)三島由紀夫の「近代能楽集」の新潮文庫版には
「邯鄲」
「綾の鼓」
「卒塔婆小町」
「葵上」
「班女」
「道成寺」
「熊野」
「弱法師」
の八つの作品が入っているのだが、
「源氏供養」
という作品が作者の考えによって収録されていないという話を聞き、それに興味を持って読んでみる。だいたい”幻の”とか”単行本未収録”という言葉にものすごく弱い。そう言われると、なんとしてでも読みたくなる。
図書館で「決定版三島由紀夫全集23」(新潮社)を借りてきて、噂の「源氏供養」と、このあいだテレビで舞台を見た「道成寺」を読んだ。
話を知らず新鮮だからかもしれないがふたつを比べたときに「源氏供養」のほうがおもしろいように思った。なんでこれを「近代能楽集」から外す必要があったのかよくわからない。
野添紫(のぞえむらさき)という、病気で死んだ女流作家の幽霊が登場し、彼女の書いた小説「春の潮(うしお)」の主人公、藤倉光を作中で自殺させたために成仏できないでいるという話だった。「安易に登場人物を救済しない。そんなことしたくない。」と幽霊が語っていておもしろい。あんまり聞いたことのない意見だ。
「道成寺」はテレビで見たそのまんまだった。台詞はまったく変えずに(逐一確認したわけではもちろんないが)芝居はするものなんだなと思った。

寂聴対談 十人十色「源氏」はおもしろいついでに瀬戸内寂聴の「十人十色「源氏」はおもしろい」(小学館)という対談・鼎談集も借りて、橋本治との対談、三島由紀夫と竹西寛子との鼎談、その他の人との対談は適当にぱらぱらと読んだ。
三島由紀夫が宇治十帖を好きと言っているのだけがこころに残った。
あと、この本は瀬戸内寂聴の「女人源氏物語」の付録から出来た本みたいなのだが、対談相手がみんな「女人源氏物語」を褒めるので、もしかしておもしろいんじゃないかと思ってしまう。簡単に暗示にかかる。
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☆ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟1」感想

2007年09月25日 02時05分13秒 | 文学
ホースを買ってきて窓掃除をする。
うちはそんなに広くはないのだが窓だけは大きい。引っ越して半年くらい経つが初めて窓掃除をする。汚い。
網戸を外したらはめることが出来なくなって苦労する。へとへとに疲れた。
しかしきれいになった。ホースの力は偉大だ。
ホースとともにあらんことを!

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」(光文社古典新訳文庫)の1巻目。
たしかに読みやすいと思うが、そんなにめちゃめちゃ売れるほどなのだろうか。
内容が難しいのに変わりはないと思うのだけれど。
最近テレビのニュース番組で街頭インタビューを受けている人が政治についてよく知っていることに驚くことが多い。僕はあまり政治家とか政策とかよく知らないし新聞も読んでいないのでわからないのだが、結構詳しい。
何年か前は、総理大臣の顔を知らないひともいたはずなのに。
どうなってるんだ。
番組製作者の意図が変わってきただけだろうなあ、とひねくれて見ている。そんなに世間のみんなが賢くなってきているはずがない。そんなわけがない。
同じようなことで、「カラマーゾフの兄弟」をそんなにたくさんの人が読んでいるということがにわかには信じがたい。少なくとも私のまわりでこの本を読んでいるひとはいない。読みそうな人もいない。

「カラマーゾフの兄弟」は宗教と無神論の話が中心なんだということを知った。
昔読んだときは、親父を殺したのはだれだ、という興味のみで読んでいたように思う。有名な「大審問官」もなんのことだかさっぱりわからなかった。
最近、橋本治の「宗教なんかこわくない!」を読んだりして宗教にもわりと興味があるので、そういう部分もおもしろい。
しかしみんなよくしゃべるなあ。
次は埴谷雄高の「死霊」を読もうかななどと考えてもいる。
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☆岡田斗司夫「「世界征服」は可能か?」感想

2007年09月24日 11時02分50秒 | 文学
「世界征服」は可能か?岡田斗司夫の「「世界征服」は可能か?」(ちくまプリマー新書)を図書館で借りて読んだ。
書店で少し立ち読みしておもしろかったので、全部読んでみた。
立ち読みした前半だけがおもしろくて、後半はあまりおもしろくはなかった。
岡田斗司夫ってまじめなひとなんだなという印象。
新書なのでそういう雰囲気になるのは仕方ないのだが、子供に語って聞かせる感じで、だんだん道徳の授業のような雰囲気になっていった。後半から何らかの結論に話を持っていかなければならないと思い始めたようで、そうなっていくのだがあまりおもしろいとは思えなかった。
マンガからの引用ですべて終わっても良かったのではないかと思う。僕としてはそのような本を期待していた。
この本一冊読んでも、読みたくなったマンガも見たくなったアニメもない。それが残念。
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☆白洲正子「お能の見方」

2007年09月24日 00時12分38秒 | 文学
お能の見方 (とんぼの本)白洲正子の「お能の見方」(新潮社)を図書館で借りて読んだ。
写真が多く載っていて、いまだ能楽を実際に見たことがないのでこんな感じなんだな、ということがよくわかった。そういう、海を見たことがない少年が海を想像しているような雰囲気がわりと好きだ。このまま実際の能を見なくてもいいかもしれない。おそらく退屈だろうし。
麻生太郎と谷垣禎一と福田康夫と安倍晋三の一文字ずつを並べて、何のためだか「麻垣康三」と呼ぶらしい。これを見るといつも「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」を並べた「大今水増(だいこんみずまし)」を思い出してしまう。
政治家の組み合わせで言葉を作ることがたまにあり(YKKとか)、どうでもいいことであるが最近、能の本を読むので、亀井静香と梶山静六で「二人静」というのもあればよかったのにな、と考えてしまう。ほんとにどうでもいいことだ。

「二人静」には興味がある。あと「井筒」「松風」、それとやはり「道成寺」がおもしろそうだ。
ふたりがひとりであったり、ひとりがふたりであったり、変身したり、そういうわかりやすいものを見るならばまず見てみたい。
「葵上」では葵は人物としては登場せず、舞台に置かれた着物で彼女を表現するらしい。確かに三島由紀夫の「近代能楽集」の「葵上」でも葵は大半ベッドで寝ているだけで最後にちょっと芝居するだけだった。ほんとうに眠ってしまうんじゃないかと心配するくらいだった。
居なくてもよいくらいだが、途中でうなされて、最後にがばと起きて死ななければならないのでやはり必要だ。着物ではその演技はできない。
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☆命、キス、カラマーゾフ

2007年09月23日 01時51分28秒 | 文学
テレビ番組「スマステーション」を見て、今時のファッションについて学ぶ。
音楽についてもファッションについても、知らなくて焦っているうちはまだまだで、そのうちに知らなくたって全く痛くも痒くもなくなってしまうから不思議だ。
最近、沢尻エリカをやっと認識できるようになってきた。映画「パッチギ!」のときとはまるで印象が違うから同一人物に思えない。
「スマステーション」の稲垣吾郎の映画コーナーでは、「HERO」よりも「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」に興味を持った。DVDで見てみたいと思う。
「HERO」は宣伝を見すぎて見る気を失う。(もともと見る気があったわけではなかったが。)
主人公が宣伝で叫ぶ「これは人の命の重さを知るための裁判なんです」という台詞は、公開当時何度も聞かされた「命を大切にしないやつなんて大嫌いだ」(「ゲド戦記」)を彷彿とさせて暗い気分になる。
命がどうこうと言い過ぎるのはもうやめてほしい。なんだかイライラする。
命のことはTIMのゴルゴ松本に任せておけばよい。

昼間に、録画していた舞台「近代能楽集」(三島由紀夫原作)の「葵上」を見た。
堤真一(若林光役)と佐藤オリエ(六条康子役)が何度もキスをして、すごい舞台だなあと思った。若い男とおばさんのキスシーンはなんだか見ちゃいけないものを見てしまった気にさせる。
最後に、電話で六条康子が実は生霊だったとわかるところがいい。怖い。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」(光文社古典新訳文庫)を読み始める。岩波文庫を読んだのはかなり昔(たしか大学一年の夏休み)のことで比べることはできないが、やはり噂どおり読みやすいように思う。
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☆白洲正子「魂の呼び声―能物語」

2007年09月22日 14時54分19秒 | 文学
能の物語「白洲正子全集」(新潮社)の第八巻で、「魂の呼び声―能物語」を読んだ。内容は、講談社文芸文庫の「能の物語」と同じ。
「井筒」「鵺」「頼政」「実盛」「二人静」「葵上」「藤戸」「熊野」「俊寛」「巴」「敦盛」「清経」「忠度」「大原御幸」「舟弁慶」「安宅」「竹生島」「阿漕」「桜川」「隅田川」「道成寺」の二十一篇が収録されている。
読み終わって、能の題材はほとんどが源平ものなんだなと思った。しかし、そのあと解説を読むと、白洲正子がそのような物語を集めただけということが書かれてあった。勘違いするところだった。
「井筒」「二人静」「葵上」「舟弁慶」「隅田川」がおもしろいと思った。
読んでいるとだいたい同じような話で、僧が旅の途中で出会った人物が死んだ平家の誰かの話をして、さらによく聞いてみるとその話をしている人物自身がその平家の誰かの幽霊であるということがわかる、という話が多かった。
多かったので、それに類する話はあまり印象に残らず、色合いの違う話のほうが印象に残りおもしろかった。
「葵上」は「源氏物語」そのままではなく、すこし違っていたように思う。
あの場面では光源氏も妻のそばにいたんではなかったっけ? 幽霊の正体もあそこではわからないままだったように思う。
など疑問に思ったが、「源氏物語」自体の話をかなり忘れてしまっているので、はっきり違うとは言い切れない。
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