ダブログ宣言!

ひとりでするのがブログなら、
ふたりでするのがダブログ。

他人の父親をゆっくり看取る

2017年04月29日 21時30分33秒 | 文学
小津安二郎がおもしろいので、なにか読もうと思ったが、やはり蓮實重彦『監督 小津安二郎』ではないかと思う。
たぶんむずかしいことがむずかしく、簡単なこともむずかしく、書いてあるのだろうけれども、一番有名な本だし、そうはいっても蓮實重彦は映画についてよくわかっているのだろうと思う。いい機会なので読んでみようかと本屋で少し立ち読みしたが、ちょうど『小早川家の秋』の場面の写真が載っていて、まだ『小早川家の秋』は見ていないなと思って購入を思い止まる。
『小早川家の秋』と、あと『お茶漬の味』あたりの戦後の作品は見てから本を読んでみようと思う。
そのうちNHK-BSでやるだろう。

『「シン・ゴジラ」をどう観るか』(河出書房新社)という本を図書館で借りてきて、たくさんのひとが書いているが、加藤典洋と春日太一のものだけ読む。
どちらも、庵野秀明が登場人物の家族や恋愛を描いていなくて、人間を描いていない。だから素晴らしいというような論旨だった。
春日太一が語る岡本喜八の映画に興味を持った。そんなに人間を描いていないのだろうか。興味深い。いつか『日本のいちばん長い日』を見たい。
岡本喜八の映画は『大誘拐』をむかーしテレビで見たことしかない。
兵隊役の寺田農がぶつぶつ言いながら走っていて、大谷直子とぶつかり音楽の流れる奇妙な映画の一場面(『肉弾』)をテレビで見て、こんなの見たくねぇなと思ったのだが、ほんとうに岡本喜八はおもしろいのだろうか。
同じようなことで、黒澤明の『どですかでん』も、どですかでんと言いながら電車ごっこしている奇妙な映画の印象で、見る気がしない。映画の一場面をテレビで見て、こんな映画見るもんかと思うことが結構ある気がする。
春日太一にも興味を持った。きちんと岡本喜八(だけでなくてもいいが)の本を書いて出して欲しい。

沢木耕太郎の『無名』を読んでいるが、これはジャンルで言うとなんだろう。ノンフィクションではなく、もはや私小説ではないかと思う。別にノンフィクション作家が私小説を書いてもいいし、そもそもジャンル分けなどどうでもいいことではあるが、これは私小説に見える。
とてもおもしろくて、沢木耕太郎の父親が病気で弱っていくのをじっくり隣で見ている感じでいる。自分の父親が死ぬときも、たぶんこんなふうにそばにいて寄り添うことはできないだろうなと思う。
沢木耕太郎がものすごく父親のことを尊敬していて愛している感じが滲み出ている。こんなふうに、父親を尊敬することが出来るものなのだな。私は出来ていない。ずっと出来ていない。
これから死ぬのだなと思うと、他人の父親ながら切なくなる。
高齢の親が病気のときに病院に連れて行くか、もう諦めて自宅に居させるかは、ものすごく難しい問題だ。沢木耕太郎の家族も病院に来たことを後悔する。長く入院していると体力が落ちるし、惚ける。
このような親の死を描く小説は、井上靖の『わが母の記』や水村美苗の『母の遺産』などあるが、結構どれも好きだ。
コメント

小津安二郎監督『麦秋』

2017年04月29日 01時52分06秒 | 映画
録画していた小津安二郎監督『麦秋』を見た。
四十代になってからどういうものか小津安二郎がおもしろくて仕方がない。見ていて退屈することがない。三十代のときに誰かがそんなことを言ってたら嘘だと思っただろう。
やはり娘の結婚は一大事だよなと思う。
1951年の作品で、まだまだ戦争の記憶がみんなにある。息子はひとりまだ戦争から還って来ていないが、母親はまだラジオを聞いて情報がないか期待している。父親はもう還って来ないんだと言っている。
それでも欲を言えばきりがないから、まあ幸せだと思っている。
息子がひとり死んで、それでもまあ欲を言えばきりがないから幸せだというようなことを、いまの世の中で聞くことがない気がする。もしかしたら言っている人もいるかもしれないが、公共の場で言っているのを聞いたことがない。
被害は忘れちゃいけないというような時代に、小津安二郎の映画を見るとほっとするというようなことがあるかもしれない。もうほとんどファンタジーの世界に近い。
原節子と淡島千景が学生時代の仲の良さをそのままに、おしゃべりして、軽快に動き回るのが見ていてたのしかった。
今回、下ネタ担当は原節子の上司の専務(佐野周二)だった。

とにかくいい映画だった。小津であればなんでもいい。
コメント

加藤典洋・高橋源一郎『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』

2017年04月26日 22時02分50秒 | 文学
加藤典洋・高橋源一郎『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』(岩波書店)を図書館で借りて読む。
吉本隆明が死んだあと、高橋源一郎と加藤典洋のそれぞれが行った講演とふたりの対談が載っている。

加藤典洋が講演で、
《さまざまな問題について、いまなお、多くの人が「日本」という枠で考えている。そのことで、私たちの前に差し出されている問題を受けとり損ねているのではないかと思うのです。》(63頁)
と言っていて心に残った。
なにかを考えるときに「日本人としての正しさ」を基準に考えていることが多くあるのではないかと思う。「日本人としての正しさ」ということはふつう意識されていないので、よく考えないといけないが、たぶん、結構ある。そういうのをとっぱらって考えることが大事だと感じた。(大事だと思いながら上手く書けない。再考したい。)
「浮かない感じ」の話も興味深かった。世間が正しいと言っているし、自分も正しいと感じる。しかし、なにか「浮かない感じ」がある。その場合に吉本隆明はそのことをはっきりと言った。
私もそういうとき「なんかやだ」と言う人間のままでいたい。最近、だいぶ言えなくなった気がする。
コメント

沢木耕太郎『凍』

2017年04月26日 21時07分17秒 | 文学
沢木耕太郎『凍』(新潮文庫)を読んだ。
山登りの話とか、億劫だなと思って読んだが、案外おもしろかった。
読んだ感じで言うと、ヘミングウェイの『老人と海』の感じに似ている。
山登りの頂上に到達したかどうかは、写真を撮っていなくても、本人が登ったと言えば一応みんな信用してあげて登ったことになる、という話があった。山野井は頂上に上がったときにカメラを持った奥さんと離れてしまっていたので写真を撮れなかったのだが、この本のおかげで頂上に到達したことの証明になっていると思う。沢木耕太郎にとってはそれの挑戦もあったのかもしれない。私の本は写真に勝る。
しかし案外到達したときのことはあっさりとした表現だった。
この本は、頂上に到達したときにも、下山して助かったときにも終わらず、日本に帰って凍傷となった手足の指を手術で切った、そのあとの日常も描く。
山登りを描く映画とか、本も、あるのだろうけれど(興味がないので読みも見もしてないが)、最後は登ったところか降りたところか、そのへんまでを描くものではないかと思う。
山は登るだけではなく、降りる必要がある、それがたいへん、までは描けるが、そのあとに日常が続く、というのはあまり描けないのではないかと思う。そこが沢木耕太郎らしいところかもしれないなと考える。
コメント

加藤典洋『日の沈む国から 政治・社会論集』

2017年04月25日 21時23分02秒 | 文学
加藤典洋『日の沈む国から 政治・社会論集』(岩波書店)を図書館で借りて読む。
加藤典洋は政治よりも文学について語ったもののほうがおもしろい。
この本では「ゴジラとアトム」について書いたものがおもしろかった。今度、このひとが『シン・ゴジラ』について書いたものを読みたいと思っている。戦後はいつまで続くのか。「戦後は続くよ、どこまでも」なのか。
そのあたりを考えたいので、加藤典洋の『敗戦後論』以降の本をまとめて再読するのはおもしろいかもしないなと考えている。

今度出る『敗者の想像力』も楽しみにしている。
コメント

武田徹『日本ノンフィクション史 ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』

2017年04月23日 21時42分33秒 | 文学
武田徹『日本ノンフィクション史 ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』(中公新書)を図書館で借りて読む。
最近、沢木耕太郎を読んだりしてノンフィクションに興味があり、他にもおもしろいものがないかなと思い、読書案内のようなものを期待して読んでみた。
しかしちょっと期待したものと違っていて、大宅壮一の話が非常に詳しく書かれて、その他の人々については、沢木耕太郎の『テロルの決算』については詳しかったが、ほかには読みたくなるような作品の紹介はなかった(もう途中から流し読みにしてしまったが)。
立花隆も猪瀬直樹も開高健も坂口安吾も梯久美子も最相葉月も、ほとんどあるいは全く触れられなかった。
「これ読みたいな」というような本の紹介をして欲しかったと思います。期待と違いました。
「はじめに」の「石井光太論争」のような話をたくさん綴っていってもおもしろかったかもしれない。「はじめに」の時点では少し期待した。
コメント

宮台真司『正義から享楽へ 映画は近代の幻を暴く』

2017年04月22日 23時10分23秒 | 文学
宮台真司『正義から享楽へ 映画は近代の幻を暴く』(垣内出版)を図書館で借りて、見たことのある映画の批評の部分だけとびとびで読む。
具体的には、『シン・ゴジラ』と『恋人たち』と『バケモノの子』と『日本のいちばん長い日』のところを読んだ。
橋口亮輔監督の『恋人たち』の映画批評で、
《救いがないと思うのは、望ましい秩序立った状態を期待しているからです。だから、期待が外れて打ちひしがれてしまう。その彼らが〈社会〉を通じて〈世界〉を見る。そして〈世界〉がそもそもデタラメであることを見通す。〈世界〉の中に在るというのはそういうことなんだ、と納得する。「オレは今まで、いったい何を期待していたんだ」という言い方が近いでしょうか。》(160頁)
と言っていて、こういうところがこの人の思想なんだろうなと思った。
納得できるような気もするし、ちょっと物足りない気もする。
『恋人たち』を見て「世界はデタラメ」ということを主人公たちといっしょに理解して、それで救われた、と言われると「そうかな?」という気がしないでもない。

ギリシャ神話とかソクラテスとかフロイトとか、そんなに名前を出さなくてもいいのではないかと思った。
もっとすっと書いてくれたらもっと読みやすいだろうなと思う。そして見ていない映画についても読んだだろう。
岩井俊二の『リップヴァンウィンクルの花嫁』にも興味があるので読もうかと思ったのだが、ちょっとめんどくさくなってやめた。見ていない映画についてまで読んでみようと思わせる気楽さがない。

もっと読みやすい映画批評はないものかとよく思う。
コメント

庵野秀明監督『シン・ゴジラ』

2017年04月22日 00時51分40秒 | 映画
庵野秀明監督『シン・ゴジラ』を見た。
この前橋口亮輔監督の『恋人たち』を見たのだが、そのとき光石研が怪しい男を演じていて、腕にマウスのコードとかストッキングとかを巻いて注射を何度も打つというよくわからないことをやっていた。今回光石研は東京都の知事だか副知事だかを演じていた。
あと、『恋人たち』で左腕のなかったひとが、今回は左腕のあるひとになっていた。あのひとはほんとうに左腕がない人なのかと思っていたが、あった。役者ではなくて素人を橋口亮輔が使ったのかと思っていたがそうではなかった。あまりにも普通の人が恥ずかしそうに普通にしゃべっているように思えたので役者と思わなかった(黒田大輔)。
『シン・ゴジラ』のエンドロールは出演者は五十音順に出てきて、「岡本喜八(写真)」などとありあれは岡本喜八だったのか、岡本喜八は『春と修羅』が好きだったのかな、などと思っていたが、最後に「野村萬斎」と特別扱いに出てきて「あやしい」と思って調べたらゴジラは野村萬斎が演じていたようだ。最初の、ちょっとかわいい顔して目のぱちくりしたゴジラ第一形態もやったのだろうか。
たくさんの出演者が出てきて楽しい映画だった。

さて。
ゴジラ映画を見るのは初めてて、当然馬鹿にしていて、最後まで見られるかどうか不安だったが、たいへんおもしろく見ることが出来た。まったく退屈しなかった。『男はつらいよ』シリーズと同じで食わず嫌いはよくない。しかし、過去の作品まで追って見るかというと、そこまではしない。(まだちょっと馬鹿にしているかも。)
政治家とか官僚がもっと揶揄されるのかと思ったが、それほどでもなく、基本的に好感が持てる。悪い人は出て来ない。アメリカが悪く描かれる、反米映画だった。
ほんとうの危機のときに日本人はこのように行動できるかな、できたらいいな、と思える良い映画だった。

音楽も良かった。
コメント

橋口亮輔監督『恋人たち』

2017年04月18日 02時34分53秒 | 映画
明日は会社が休みなので夜更かしして、橋口亮輔監督『恋人たち』を見た。
三人の人物が主人公で、平行に進行していく物語だった。
三人の人物の、誰に一番感情移入できたかと言えば、ゲイの弁護士でも妻を殺された男でもなく、平凡な主婦だった。ゲイの弁護士はそもそもなにをとっかかりにすればいいのか私にはよくわからなかった。性格が悪くても昔から好きだった男性に手を出さなかったとか、そんなところか。あまり共感できなかった。
妻を殺された男性については、妻を通り魔に殺されて、犯人をものすごく憎むということが、ちょっと私には想像できなくて(想像したくなくて)、ちょっと彼の気持ちに寄り添うことが出来なかった。そうなると、「妻を通り魔に殺される」という私にはちょっと理解しにくい設定をひとつの比喩として考えてみるのだが、何かとっても大切なものを失っているひとなのだな、と考えてみても、それにしては周囲に甘えてるんじゃないかと思えることが多かった。ちょっと離れて見てしまった。
平凡な主婦(どうしてもオアシズの大久保さんに見えてしまうのだが)は”雅子さま”に憧れていて、かつて”雅子さま”を見に行ったときのビデオを夜毎見ている。この夜毎昔のビデオを見ているという設定は『シックス・センス』になかっただろうかと思った。まあそれはどうでもいいことだが、この”雅子さま”に憧れる主婦が小説を書いていて、主人公はお姫様で下痢ばかりしているというのはどういうものだろうか。ここでいちばん笑ってしまった。

想像するに橋口亮輔にとって、妻を殺された男がもっとも自分のいまの気持ちを乗っけた人物なのだろうけれど、ちょっと対象との距離が近すぎて私には敬遠されたように思う。
いっしょにお母さんがテレビを見ようと言っていると伝える若い女子社員やお弁当を持ってやってくる片腕の同僚など、誰かに心配してもらうというのはひとつの救いなのだなと思った。
ずっと部屋が汚くて、「部屋が汚いのは何よりもよくない」と思っていたので最後は整理整頓し、妻の位牌の横に黄色いチューリップを飾ることが出来てよかった。

ゲイの弁護士は、意図せず依頼人の話に涙を流し、相手が喜ぶのを見て、なにかを得る(というふうに描かれる)。

さて、平凡な主婦は「私の夢は」のあとが語られなかったのだが、これは子供が欲しい、ということなのだろうか。ここがよくわからなかった。
最後に避妊をやめることで妊娠を匂わせるような形で終わらせることで希望を描こうとしたようにも思う。子供=希望みたいな形で話を終わらせるようなことはよくあるが、自分に子供が出来てみるとちょっと違和感がある。子供が希望でないわけではないが、それだけでもないというか、違和感を感じる。男性の描く女性像、女性の描く男性像、と同じように、子供のいない人間の描く子供像、というのも違和感があるのかもしれない。しかし大急ぎで言っておけば私は子供のいる人間の代表ではもちろんない。そう思わない人も多くいると思う。当たり前だけどね。

とっても印象に残る映画だった。
しかししばらくはこういうのはいいかなと思わせる。寅さんを五本くらい見て気分の安定を保ちたい。
コメント

沢木耕太郎『バーボン・ストリート』

2017年04月16日 21時06分12秒 | 文学
沢木耕太郎『バーボン・ストリート』(新潮文庫)を読んだ。
『流星ひとつ』のなかで藤圭子に、ある大会のマラソンランナーの先頭のひとはまわりの風景が見えていなかった、だから優勝したのだ、というような話をしていたが、その話が出てきた(「風が見えたら」)。
井上陽水に「ワカンナイ」という曲があるが、その創作のときの話が出てきて興味深かった。宮沢賢治について、いまちょっと興味があって『注文の多い料理店』を読みたいなと思っている。しかし、詩はむずかしいから読めないな。しかし詩が難しくて読めないような人は宮沢賢治を読む資格はないのかもしれないな、とも思っている。
その他、丸谷才一や高倉健などが登場するエッセイ集だった。

沢木耕太郎が終わったら、開高健か坂口安吾のノンフィクションでも読もうかなと思っている。
そのほかいま村上龍がどんな小説を書いているのかに興味がある。『歌うクジラ』などは一度も評価を読んだことがないがどうなのだろうか。退屈なのだろうか。しかしその前に『半島を出よ』から始めたほうがいいのだろうな。
コメント