ダブログ宣言!

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☆毒よさらば

2008年02月29日 03時26分22秒 | 音楽
今日はうたた寝していたのでプルースト休み。
しかしそのせいで眠れなくなってしまった。

アランの「プロポ1」を読んでいたらショパンとベートーヴェンについて書かれていて、どんなものかと思いベートーヴェンのピアノソナタを聴いている。「失われた時を求めて」のヴァントゥイユのモデルのひとりがベートーヴェンだったように思うし。
たいへん便利なことに、著作権の切れたクラシック音楽は無料でダウンロードできるようだ。(パブリックドメイン・クラシック
しかし、ベートーヴェンのピアノソナタだけで32もあるとは。
これを片っ端からダウンロードした。
じゃじゃじゃじゃーんのベートーヴェンしか知らないのだが、しばらく聴いてみる。
アランはいつものように、情念を克服するために音楽があるというようなことを言っていた。
映画について何か言っているのをまだ見たことがないのだが、何か書いているとしたらたぶん情念を克服するものだと言うのだろう。それとも情念を克服するものでないから映画について何も語らないのか。

しかし、本は古典しか読んでないし、最近テレビも見てないし、音楽もクラシックとなると、こんなお上品なことで良いのだろうかと不安になる。
基本的にトイレのあとで手を洗わないような、下品な人間なのだけれど。(うそ。洗います)
クラシック音楽にたいするこの心の疾しさはいったいなんだろうか。
多少不安になり、太宰治をちょっと読んでみる。
映画はおしるこだ、とか、小説はおんなこどもをだませばそれで大成功、とか良いことが書いてある。
そうですよね、芸術なんか糞くらえですよね。ありがとう太宰治。

それはさておきしばらく聴いてみる。
さて寝よう。
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☆「失われた時を求めて」メモ22(「花咲く乙女たちのかげに」終わり)

2008年02月28日 00時01分52秒 | 文学
失われた時を求めて〈4〉第二篇 花咲く乙女たちのかげに〈2〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)プルースト「失われた時を求めて」4巻読了。

・結局最後まで「わたくしたちは”花咲く乙女たち”でありますわよ」とは名乗らなかった。
アルベルチーヌ、ロズモンド、アンドレ、そしていま試験に行っているジゼールがその乙女たち。
・ジゼールからアルベルチーヌに手紙がきてこんな試験問題だったと報告するのだが、その試験問題がおもしろかった。
ソポクレスが地獄から、芝居の不成功を慰めるためにラシーヌに手紙を送りました。さてどんな手紙?
日本で言うと、
紫式部が芥川賞に落選して悲しんでいる太宰治に手紙を書きました。どんな手紙でしょう?
という雰囲気かなあ。
同封されたジゼールの解答もよくでいていて面白かった。
こういう文学オタクなプルーストが好きだ。
こんな問題がほんとうに出題されるのかなあ。
・アンドレは性格がいいように見せながら本当は悪いのではないかというところが見える。垣間見せるところがうまい、プルースト。
・アルベルチーヌはホテルの自分の部屋に語り手を誘う。初体験の前のドキドキ。しかし拒否される。
誘っといて何だ!
・オフシーズンになりバルベックからどんどん人がいなくなってしまう。
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☆歴史と知性 (メモ21)

2008年02月27日 00時00分12秒 | 文学
見に行くかどうかまではわからないけど、日本映画でその新作を期待してしまう監督は、山田洋次と岩井俊二と橋口亮輔だ。
ホラーと暴力とエログロとアングラにあまり興味がないので数がめちゃめちゃ少ない。
橋口亮輔の新作「ぐるりのこと。」には木村多江とリリー・フランキーが出るらしい。
リリー・フランキーかあ。
誰かほかにいなかったのかなあ。
素人が出てるな、って感じじゃなければいいけど。

しかし、僕が考える必要は全くないが、あえて考えてみると、”リリー・フランキーみたいな雰囲気の役者”と言われても誰も思い浮かばない。
主役を選ぶときに、クリーンな妻夫木聡がいやなら、ダークなオダギリジョー。もっと年を取ったのがよければ堤真一、そこまで美形じゃないのがよければ香川照之か大森南朋。しかしどちらも狂気に満ちてる。
なんとなく選択肢としてこのくらいしかなくてあとは俳優のスケジュールに応じて似たような俳優をあてがう感じなのかな。
ごく普通にくたびれた中年を探すのが難しい。
そもそもみんな役者を目指してやってきた人間であるわけだからそこには何かしら共通点があり(目のギラギラとか)、”役者になろうとも思わなかったような雰囲気の役者”というのは見つけられないのかもしれない。
ちょうど現代純文学が、フリーターか傷つきやすい女の子の鋭い感受性ばかりを描いているのと同じだろうな。普通のサラリーマンの鈍感な日常は純文学では決して描かれない。
年を取ると誰でもそうなのかもしれないけれど、フリーターか傷つきやすい女の子の鋭い感受性にあまり興味がなくなる。十年前なら決してそんなこと思わなかった。
いまは歴史と知性を感じられるものを読みたい。

プルースト「失われた時を求めて」4巻450ページまで。
・サン=ルーは語り手に対して言ったわけで、ブロックにもついでに社交辞令でまったく来てほしくもないのに「今度遊びにきて」と言うが、言われたブロックはすぐに行ってやらないといけないと思う。
・語り手は乙女たちの小集団と遊ぶばかりで、サン=ルーのところには行ってあげない。
次から次へと別の娘が気になる。
しかし、たぶん中の誰か何人かか、または全員がレズのようだ。
・ユダヤ人差別もいたるところに描かれる。
・エルスチールの絵を見ることで、それまで退屈な風景だと思えていたものが素晴らしいものに思えてくる。
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☆「失われた時を求めて」メモ20

2008年02月26日 00時46分23秒 | 文学
妻がドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読み終える。
僕もちょっと前に同じ本を読んだはずなのに、彼女の感想を聞いても内容をさっぱり思い出せない。
へえ、お父さんが死んで息子が裁判に……、なるほどなるほど、それで? (これは大袈裟だが、そんなに遠くない状態)
しかし話を聞くだけでもそうとう濃い話だなあ。何が言いたいんだろう。
僕は前回読んで、「なんとなくわかるかも」から「さっぱりわかりません」の状態へと一歩進んだので、次回読んだときはよく理解できるだろうと踏んでいる。前へ進むだけでは駄目で後ろへのステップもなければうまくは踊れない。
ドストエフスキーについてはいろいろなひとがいろいろなことを言い過ぎるので、よくわからなくなる。
まずは大江健三郎と埴谷雄高の言うことに耳を貸さないほうがいい。本が読めなくなって単なる確認作業になってしまう。
このあいだヒッチコックについての本のなかの、「裏窓」についての評論を読んでいたらそこに「『ロープ』(私はまだ見てない)」という記述を見つけ、とんでもなく感動した。
ヒッチコックの映画についての評論を書くのに、全作品を見てなくていいんだ、しかもそれを堂々と書いてる、と驚いた。すばらしい。
そのくらいの態度でいい。
読みたいものだけ読み、見たいものだけ見るという姿勢にだんだん変わりつつある。

上で言っていることとまったく矛盾するが、NHKの番組「知るを楽しむ」で、「カラマーゾフの兄弟」の翻訳者の亀山郁夫の話を聞く。
ドストエフスキーの父親は農奴に殺されたことを知る。

プルースト「失われた時を求めて」4巻366ページまで。
・乙女たちのなかの誰がアルベルチーヌであるかがわかる。
しかし、祖母と二人で海岸を歩いているのを見たのが、アルベルチーヌであるように思うが印象が一致しない。
そのとき彼女と一緒に歩いていた家庭教師風のひげの生えた女は、不気味な存在だ。
・絵を見て、これは何を描いている、これはあれだ、というふうに考えるのは知性の働きだが、知性が働く前の状態を絵に描くのが画家の仕事である、という話。
・エルスチールといっしょに歩いているときに乙女たちに遭遇。
語り手は紹介してもらえるものと思ってわざと素知らぬふりをしているがエルスチールは紹介せずそのまま乙女たちと別れてしまう。
自分が呼ばれると期待して、わざと知らん顔をする若い感じがよくわかる。
・エルスチールはかつてヴェルデュラン家でムッシュー・ビッシュと綽名されるつまらない人物であったことがわかる。
エルスチールは語り手に、
《その人がなんとか聡明な人物になり得たというのも、最終的にそうなりきる前に、滑稽な人間だったり厭うべき人間だったりしたというさまざまな段階を経てきたからこそなのです。》(361ページ)
と語る。
ここの長いエルスチールの台詞は感動的だ。
だいたいはつまらない人々のくだらない生活を描いているが――そしてそれが大変楽しいが――、このように感動的なことをプルーストはたまに言わせる。
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☆「失われた時を求めて」メモ19

2008年02月25日 00時49分21秒 | 文学
図書館で借りてきたアランの「プロポ1」(みすず書房、山崎庸一郎訳)を、プルーストに疲れた時に読んでいる。
それにしても最近、プルースト読んで、アラン読んで、ベルクソンを読んで、と、やりすぎているくらい二十世紀フランスにどっぷりとつかっている。(プルーストが終わったらしばらく司馬遼太郎しか読まない! ヘミングウェイ以上のむずかしい本は手に取らない! という気持ちも少しだけあるが、そうもいかないだろうなあ)
そんなに知っているわけじゃないが、ドイツ思想よりもフランス思想はしなやか、というか文学的というか、非論理的というか、感覚的というか、そういうところがあって魅力的だ。
なかでもアランはいつでもいいなと思える。
プロポは便箋二枚に書かれて新聞に連載されていたというから、朝日新聞の「天声人語」のようなものだったんだろうと思っている。「天声人語」は読んでませんが。
この本の解説によるとプロポは全体で約五千ほどあるらしいのだが、ちくま文庫か白水Uブックスかどこかが全訳を出さないかなあ。買って毎日読み続けるんだけど。(山崎庸一郎訳の本は抄訳で、138篇)
ちょうど「失われた時を求めて」のなかで、登場人物がサン=シモンの「回想録」やセヴィニェ夫人の日記を読み続けているようなことをやりたい。
ニーチェのことをアランはどう思っているのかなと気になっていたらちょうど出てきた。
プラトンの「ゴルギアス」について、
《そこには、ニーチェのなかに見られるものの要点と、良識の側からする反論とが見出されるはずである。》(「カリクレス」)
とあった。
弱者の道徳へのニーチェ的な批判をも理性はさらに越えていく、そういうものだ、という内容だった。
吉本隆明が、若い頃何か起きるとその出来事についてどう考えているか切実に知りたいと思った知識人がいた、だから自分はあらゆることに発言したい、という趣旨のことを言っているが、アランはまさしく僕にとってそのような存在である。どう考えるのかをすべて知りたい。

プルースト「失われた時を求めて」4巻290ページまで。

・シャルリュスは語り手にベルゴットの本をお貸しすると言ったり返せと言ったり、語り手の祖母のことを馬鹿にしたり情緒不安定なところが見える。
語り手の寝室についてくるところ、かなり恐怖だった。
・ブロック一家のところはかなり辛辣。
語り手とサン=ルーがブロックの家に招待される。
馬鹿な父親が賢そうにふるまい、そして家族中が彼のことを尊敬している姿が描かれる。微笑ましいといえば微笑ましいのだけれど。
ブロックの父親はケチなのに自分のことを金払いがいいと思っている。ちょうど息子のブロックが育ちが悪いのに自分のことをたいへん洒落てると思っているのと同じだ。人には自分に対して盲点みたいな部分がある。
・サン=ルーの恋人は下手な女優。
・語り手がレストラン”リヴベル”で酔っぱらう場面はちょっと退屈した。
・エルスチール登場。芸術家の登場は毎回わくわくする。
・「花咲く乙女たちのかげに」には四、五人の美しい乙女たちのグループが登場する。語り手は初め彼女たちの区別がつかず、その感じをまたうまいこと表現していた。
そのグループを「花咲く乙女たち」と呼ぶようだ。昔から変なタイトルとだと思っていたがそんなグループが登場するとは予想外だった。
まだ名乗ってないが、そのうち「わたくしたちのことは”花咲く乙女たち”って呼んでくださる?」とか言い出すのかなあ。笑いそう。
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☆「失われた時を求めて」メモ18

2008年02月24日 00時00分55秒 | 文学
プルースト「失われた時を求めて」4巻164ページまで。

・馬車に乗っているときに三本の木を見て、何かを思い出せそうになるが思い出せないまま通り過ぎて行ってしまう。
・ヴィルパリジ夫人はシャトーブリヤンやユゴー、バルザックに実際に会ったことがあり、その人物評価から作品も評価する。
知っている人の書いた作品はたいしたことないと考えてしまうというのはベルゴットのところでも出てきた。
どんなに彼の書いたものが素晴らしくても「最高だ」とは誉めず、「独特だ」と言う程度になる、と書いてあったように思う。
・語り手が祖母にたいへん頼っていることが示されて、祖母が死んだらどうしよう、みたいなことが言われる。
なるほど、そういうことか。
・ヴィルパリジ夫人の甥の、お洒落なサン=ルー=パン=ブレー侯爵が登場。
片眼鏡がはずれそうになる姿を、蝶のようにひらひらと飛んでいく片眼鏡を追いかけていく、というふうに表現するところがすごい。
・サン=ルーははじめ嫌なやつかと思ったがなかなかいいひとだ。
貴族なのに貧乏人に理解を示すインテリ。ニーチェやプルードンの本を読む。
いま流行っている思想だけが素晴らしいと思っている。父親が読んでいる本は古臭くて馬鹿馬鹿しいと感じている。
ラシーヌよりもユゴー。
・語り手の友人のブロックも登場。
サン=ルー侯爵と比べると家庭環境の与えるもの、教育の与えるものがこれほど重要かと思ってしまう。
結局、貴族にはかなわない。
金持ち喧嘩せず、だなあ。
言葉の言い間違いに気づくと「そんなこと重要なことじゃない。いっこうにかまわない。」と言うが本心では重要だと思っている。
《その別な解決、その方向に追いやられてもいっこうにかまわないという解決、それはときとして自殺なのである。》(113ページ)
とはどういう意味か。ブロックは自殺するのか。
前々から思っていたが、訳注というのも不思議な存在だ。
あとあと重要だと思われる部分に訳注がついていないとわざと黙っているのではないかと勘ぐってしまう。
ちょうど、すでに読んでいるミステリーの話を、現在読んでいる人と話していてそのひとに「犯人はひょっとしてこのひとかなあ」とか言われると不自然に黙ってしまうことがあるように。
・シャルリュス男爵も登場。
無言で語り手を食い入るように見つめる。
怖すぎる。

・ぐらいかなあ。ここはいろんなひとが出てきてたいへんおもしろい。プルーストは人物描写がうまい。
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☆ニーチェ「キリスト教は邪教です!」を読んだ

2008年02月23日 13時24分48秒 | 文学
キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』ニーチェの「キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』」(講談社、適菜収訳)を図書館で借りて読んだ。
読みやすくていい本だった。もっとゆっくり読むべきだなあと思いながら急いで読んでしまった。
タイトルや表紙から感じられるほど過激な本でもなく、穏当な本。
過激な本であるのかもしれないが、キリスト教のことをよく知らないし、それで育てられたわけでもないので、読んでいてムカムカするとか、背筋が寒くなるとか、読んでいるところを人に見られたらどうしよう、とかそういうことはなかった。
「儒教は邪教です!」とか「アンチ天皇」とかいうタイトルの本のほうがそういう気分になるだろう。
キリスト教の国の人にはそのくらいの衝撃があるんだろうなあと想像しながら読む。電車で、「天皇制は邪教です! アンチ天皇」と表紙に大きく書いてある本を私は読めない。

イエスのことをキリスト教と分けて考えているのが意外だった。イエスのことは評価している。
ちょうどプルーストが《実はプラトンがソクラテスの言葉を、また聖ヨハネがイエスの言葉を歪めたのにも劣らずに》(4巻26ページ)という比喩を使っているのを読んだところだったので不思議な感じだった。
マルクスの思想とマルクス主義は違うとか、よく言われる。
ニーチェは物語にして世界を見ることを本当に嫌ったのだな。

このような読みやすい翻訳はどんどん出てほしいものだと思う。批判されたり誉められたりする大親分のカントが読みたい。
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☆市川崑監督「犬神家の一族」(2006)感想

2008年02月23日 00時48分56秒 | 映画
犬神家の一族 通常版テレビで放送していた市川崑監督の、新しいほうの「犬神家の一族」を録画していたので見てみる。
市川崑の金田一シリーズを見るといつも眠くなって寝てしまうので、今回も最後まで見られるか不安だったのだが最後まで見ることが出来た。
深田恭子の足元のおぼつかない感じの台詞や、加藤武、大滝秀治の老人特有のごにょごにょの台詞の感じが、危なっかしくて寝ていられなかった。最後まで飽きさせないということではこの手は使える。
富司純子と草笛光子が光っていたなあ。
仲代達矢は「影武者」か「乱」みたいだった。
松坂慶子と岸部一徳の夫婦は「死の棘」と同じだ。

市川崑の独特の撮り方があるのだなと思った。

1976年版のほうも昔録画していたのでそれの最初のほうも見ていた。
同じことをやっていて可笑しかった。
2006年版で中村敦夫が演じていた弁護士は1976年版では小沢栄太郎だった(さすがに名前は知らず、いま調べた)。「マルサの女」でパチンコ屋の伊東四朗の税理士をやっていたひとだ。
あのひとのことをこれまでずっと、いとし・こいしのツッコミのほうだと思っていたのだが1976年版を見て似ているなと思い調べた。

映画というのは引用を確認する作業なのか!
もうそんなのは嫌だ!
しかしどうしてもやってしまう。
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☆「失われた時を求めて」メモ17

2008年02月22日 21時19分21秒 | 文学
プルースト「失われた時を求めて」4巻44ページまで。

・誰かをぼろくそに描写しているような楽しい部分であれば良いが、そうでない場合、読み始めの1、2ページは”捨てページ”のような状態になることがある。リズムがあるので、気分が乗ってきてから振り返って読むようなこともできない。”もったいない”(矢沢永吉)気もするが、仕方がない。
・昨日の書き忘れ。
バルベックで語り手が知人の姿をその土地の人に重ねる。人間の印象というのは無限にあるわけではなく、いくつかのバリエーションがあるだけ。(モームも同じようなことを言ってた。)
スワン夫人の姿を海岸の監視係の男に見るのが面白かった。スワン夫人が海岸で働いている。
このようなことは僕は多分ほかの人よりも多く、たとえば一青窈と室井佑月の姿をテレビで見るたびに姉を思いだす。
・語り手の祖母が知り合いのヴィルパリジ夫人とホテルでばったり再会する。
《モリエールの芝居のように》という比喩がおかしかった。
本人たちは意識せず、周りから見ると芝居のように見えてしまう面白さがよく出ている。
しかし、ヴィルパリジ夫人ははじめてそのとき祖母に気付いたわけでなく、前々から知っていたのに挨拶せずに知らぬ振りをしていたことがわかる。
このへんもよくわかるなあ。知らない振りをしてしまうことってある。
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☆理論と演習 (メモ16)

2008年02月22日 00時36分24秒 | 文学
「意識の流れ」とか「内的独白」とかと呼ばれるものは、たんなる一時期の文学手法上のブーム、インテリたちの衒い、改行なくつらつら書いて読みにくくしてやろうというだけのもの、いわゆるフォニイ、なのかと思っていた。
毎日読んでいると、それが語り手になりきるためのものであることがわかる。
電車に乗る前にはそのときの期待の気持ち、目的地に着いたら着いたときの失望の気持ちが書いてある。すべてが終わった時点から振り返ってあのときはこんなに期待していたな、と書いているわけじゃない。(そういうところもあるが)
3Dメガネをかけて映画を見ている感覚に近い。
テレビで、ジェットコースターに乗っている人の顔を見ているのではなく、乗った人に取り付けたカメラで撮った映像を見る感じ。
気分が乗ってくると、読んでいるのと自分が考えているのとの違いがなくなる。語り手が言っているのか自分が言っているのかどっちかなあ、ということになる。その差を意識しなくなる。
「まあ可哀想ねえ」じゃなく、「悲しい!」になる。
例えば、日本舞踊とかで、ある型を舞うことで、子供を喪った母親になりきり涙を流してしまうおっさんがいるとすれば、そんなようなことだ。(よく知らないことは投げやりな言い方になる。)

通勤のときに読む本は、短くて、簡単で、後腐れのないものにしたい。
しかし今うちにはすぐ読める本として、ルソーの「告白(中)」とゲーテの「詩と真実(第1部)」と夏目漱石の「文学評論(上)」しかなく、タイトルからもわかるとおり一冊では終わらない。なんでこんなことになってしまっているかというと、岩波文庫の復刊されたものはそのときに買っておかないとなくなるからだ。
ということでベルクソンの「道徳と宗教の二源泉」(岩波文庫)を読んでいる。
ぜんぜん短くはないけれど、ルソーやゲーテやプルーストほど長くはない。
ずっと繰り返し同じことを言い続けているので、案外わかりやすい。たまにびっくりするようなことを言う。頭のいい人だ。
つまりベルクソンが言いたいのは、

・テレビのお笑い界にダウンタウンの松本人志が登場し面白いと受け入れられたときに、
(松本人志) - (萩本欽一) = 120
のようなそれまでの笑いとの比較計算があったわけではない。
・そもそも上下関係があるわけではないので、そんなことできない。松本人志も萩本欽一も、どちらも「可笑しい」ということで言葉は同じだけれど、フィーリングは別のものである。
・松本人志のフィーリングに共感する人が多かった、ということだ。
・英雄とはそういうものだ。

というふうなことをお笑い界ではなく道徳界について言っている、のだと思う。新しいものを知性で判断しているわけではない。
ベルクソンの影響をプルーストが受けていると言われるが、確かに、ベルクソンが理論、プルーストがその演習、という形で読める。

失われた時を求めて〈3〉第二篇 花咲く乙女たちのかげに〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)プルースト「失われた時を求めて」3巻終わりました。
・バルベックのグランドホテル。
こんなホテル絶対に泊まりたくない。
祖母と語り手が夕食を食べてたら、「私の席で誰かが食事している。二度とこんなことはしないでくれ」とホテルの人間に大声で苦情を言っている。ステルマリア氏。
・威張った総支配人もいる。
・語り手がステルマリアの娘に惚れる。旅をするとマドンナが現れる。
・旅行に、一緒についてきた女中のフランソワーズがホテルの人間と仲良くなって、「用事があるから呼んでくれ」って祖母が言うのに、彼らに気を使って呼ばない。仲が良くなりすぎるのも良くない。
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