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ディケンズ『大いなる遺産(上)』

2020年06月29日 20時42分40秒 | 文学
ディケンズ『大いなる遺産(上)』(新潮文庫)を読んだ。
最初のほうに主人公のピップが墓地で脱獄囚に出会うのだが、そこで墓石に「トウキョウクノコ」と書いてある、とありその意味がどうにもとれなかった。
ちょうど『女帝 小池百合子』を読んでいるか読んだばかりだったかで、「東京区の子?」と思った。しかし東京区という言葉はないだろうし、ディケンズだし違うだろう。
たぶん「当教区の子」かあるいは「当教区の故」ということなのだろう。

『大いなる遺産』はずっと昔に読んだことがあり、そのときディケンズの長篇小説を読むのは初めてだったのだが、あまりおもしろくなかった。
そのあと『デイヴィッド・コパフィールド』や『オリヴァー・ツイスト』を読んでおもしろいものもあるなと思っているのだが、やはり今回読んでもあまり熱心には読めていない。どういうふうに読んだらいいのか上巻を読み終わってもまだわからない。遺産をくれたのは誰だ? という興味だけで読み進んでいくものなのだろうか。
ジョーにしてもミス・ハヴィシャムにしてもエステラにしてもジャガーズにしてもそんなに惹かれない。

新潮文庫の翻訳といえば、バーネットの小説は『秘密の花園』も『小公女』もおもしろいので『小公子』の新訳が出たらぜひ読もうと思っていて、今月新潮文庫で出るのを期待していたが川端康成訳でがっかりだった。小野不由美の『十二国記』のキャンペーンのひとつのようだ。
光文社古典新訳文庫に期待する。
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セネカ『生の短さについて 他二篇』

2020年06月27日 22時56分49秒 | 文学
セネカ『生の短さについて 他二篇』(岩波文庫)。

「生の短さについて」
ついこの間他の人の翻訳で読んだが、やはりあまり印象に残らない。
他人に関わってばかりで自分の人生を生きていない。昔の人の書いた本を読め。というようなことが語られるが、「そうですよねー」と棒読みの感想しか抱けない。
僕にとってこの問題が切実でないのかもしれない。

「心の平静について」
セレーヌスの悩みに答えるという形なのだが、この悩みがはっきりしないのであまり興味を惹かれないままに読んでしまう。たぶん、漠然とした不安をかかえているというようなことなのだろう。
読むのは二度目だが、あまり理解できなかった。話はいろいろなところに飛ぶ。

「幸福な生について」
やはり話がいろいろなところに飛び、なかなかつかまえるのが難しいのであるが、この文庫に入っているなかでは最も興味を惹かれた。光文社古典新訳文庫とこの話だけかぶっていないのだが、買って読んで良かった。
それとこの後デカルトとエリザベトの書簡を読むつもりなのだが、そこに取り上げられているようなので読んでみた。
幸福に生きるためには他人の後を付いて行っていてはダメだ、というようなことが言われる。自分で判断しないといけない、と。
また、徳と快楽の話が興味深かった。徳は快楽を与えてくれるが、それは副次的なものである。快楽が徳であるわけではない。
偉大な哲学者たちが語っていたのは、《自分がどう生きているかという問題ではなく、自分がどう生きるべきかという問題だった》(169頁)ので、彼らの言っていることとやっていることに不一致があっても難癖をつけるのは間違っている、というところも良い。
それと哲学者が裕福になって何が悪いんだ、という話も興味深かった。徳を求めているからといって、富を否定しているわけではない。
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セネカ『怒りについて 他二篇』

2020年06月24日 21時24分52秒 | 文学
セネカ『怒りについて 他二篇』(岩波文庫)。

「摂理について」
なぜ善き者に悪いことが起きるのか? という疑問。
答えとしては、善き者を鍛えるため。
《善き者たちが強健になるよう打ち据えられることに、なぜ驚くのか。樹木は、風に頻繁にあたらなければ、頑強にも強健にもならない。》(30頁)
すんなり納得できるものではないが、そのように考えることが生きていくうえでは良いのだろうとは思う。
訳注には『倫理書簡集』が頻繁に登場するので、『倫理書簡集』を岩波文庫に入れるべきだ。一般の人には入手できない本を参照させすぎだ。

「賢者の恒心について」
《不正とは何らかの悪をこうむることである。しかるに、賢者はいかなる悪もこうむらない。それゆえ、不正は賢者に関わらない。》(51頁)
ほんとかなあ。

「怒りについて」
わりと怒りっぽいほうなので興味深く読んだ。
この文庫に収められたもののなかでは最も長いもので、メモを取りながら読んでいると時間がかかった。
毎日少しの筋トレをしていて、めんどくさくなると早く終わらせたいと思うのだが、速くやったら意味がないことに気づいてゆっくりやるようにしている。本も早く読んだら良いわけではなくて、ゆっくり読んだほうが良いように思うこともある。(まだ確信は持てない。)
《怒りに対する最良の対処法は、遅延である。》(174頁)
とあった。
子どもをついつい叱ってしまうことがあるのだが、叱り始めると習慣になってよく叱ってしまう気がする。
気をつけようと最近思っている。必要なのは遅延だ。叱る前に止まる。
《すべてを目にし、すべてを耳にするのは当を得たことではない。多くの不正は、われわれを通り過ぎるに任せよう。たいていの場合、気づかない人には不正にならないものだ。あなたは怒りっぽくなりたくはないだろう。》(210頁)
ネットで調べて、意見を読み、NHKのニュースでそれが報道されていないことに怒る、というようなことを続けるのは身体に悪い。どこまで知るべきか、そのへんのバランスが私には未だによく分からない。
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セネカ『人生の短さについて 他2篇』

2020年06月20日 18時20分01秒 | 文学
セネカ『人生の短さについて 他2篇』(光文社古典新訳文庫)。

「人生の短さについて」
初めて読むセネカ。
読みやすい。わかりやすい。
人生は短いわけではなくて、他人のこととか日々の雑事とかそんなあれやこれやばっかりやっているから短いだけだ。もっと本質的なことをやるべきだ、というような話なのだと思う。
しかし結局は何をやれば良いのかというのがよくわからなかった。多忙なのはいけないと言いたいということはわかった。

「母ヘルウィアへのなぐさめ」
自分が流刑になったのでそれを悲しんでいるであろう母親に送る手紙。
《学問は、あなたになぐさめを与えてくれることでしょう。学問は、あなたに喜びを与えてくれることでしょう。もし、学問があなたの心にほんとうにしみ込んだなら、悲しみは、二度と入り込みはしないでしょう。心配は、二度と入り込みはしないでしょう。》(158頁)
学問への信頼のすごさに驚くが、それと母親に学問をすすめるというのも、ちょっと自分のこととしては考えられない。

「心の安定について」
不幸な目に遭ったとき、
《正しいふるまい方は、自然に沸き起こる悲しみを表出することであって、そうするものだからといって悲しむことではない。じっさい、多くのひとが涙を流すのは、だれかに見せるためだ。》(247頁)
のあたりなど気になることがたくさん書かれていた。
しかしもっとも肝に銘ずべきだと思ったのは、
《書物の山は、学ぶ者を押しつぶすだけで、なにも教えてはくれない。多数の作家によって道に迷うより、少数の作家に身をまかせたほうが、はるかによい。》(219頁)
だった。

モンテーニュを読むための予備知識のような気持ちで読み始めたが、なかなかセネカも素晴らしい。
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私の計画

2020年06月18日 00時10分53秒 | 文学
今朝の新聞に『昨日も22時に寝たので僕の人生は無敵です』(井上皓史著)という本が紹介されていた。
タイトルを見ただけで早寝早起きしたい気持ちにさせる。
今度本屋に行ったら立ち読みして、タイトル以上の内容がある本なのかどうかを確認したい。

トルストイの『戦争と平和』を読んだので、もう私には読書における大きな計画のようなものがなくなってしまっていたのだが、良い計画を思いついた。
まず文房具屋でしっかりとしたノートを買い、モンテーニュの『エセー』(宮下志朗訳)全七冊を少しずつ読んで気に入ったところを万年筆でノートに書き写すことをしたい。
そして一章読むごとにここに感想を書いていく。
そのようなことをしばらく続けたいと思っている。

計画のための「しっかりとしたノート」はまだ買っていない。
モンテーニュの『エセー』は十年くらい前に買った一巻目が手許にあるだけだ。まだ読んでいない。いいかげんに白水Uブックスになればいいのに、なる様子がないので単行本で買い集めることにする。

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フレデリック・ルノワール『哲学のやさしく正しい使い方 叡智への道』

2020年06月17日 22時34分24秒 | 文学
フレデリック・ルノワール『哲学のやさしく正しい使い方 叡智への道』(中央公論新社)を読んだ。
立ち読みして気になり、買って読んだ。

哲学の本を読むことを竹田青嗣や西研の本を読むことから始めたのだが、哲学の難問というと主観と客観が一致しないという話で、そういうものを読んでいくのも楽しいのだが、しかしふと考えてみるとそれが私の人生の何に役に立つのだろうかと思うこともある。
知的なゲーム以上の何かがあるのだろうか、と。
何もないとは思わないし、役に立っている部分もあると思うのだが、もうすこしなんというか、ささやかだけれど、役にたつことが哲学にあってもいいのではないかと思う。
フランスにはアランの『幸福論』もあり、哲学を実際の人生にどのように活かすか考えるという伝統があるように思う。
この本を読んで、セネカとモンテーニュとエピクテトスを読もうと思った。
フレデリック・ルノワールにはスピノザについての著書もあり、スピノザについても何度も言及された。しかしスピノザは難しいと大江健三郎が言っていたのであまり印象が良くない。まずはフレデリック・ルノワールの本を読んでみるか、と思う。

叡智というのは、以下のような考えをわたしたちにもたらす。
《わたしたちにできることをしましょう。自分の健康と安楽を守り、倫理的、精神的に向上し、より良い世界の樹立に参加するために行動しましょう。しかし何もできないとき、私たちには対処できない外部の力に直面したときは、否定と抑圧の態度を取ったり、怨恨や怒りや絶望や不満に陥ったりするよりも、今あるものを陽気に受け入れたほうがいいのです。苦痛はなくならないとはいえ、そうすれば、わたしたちの心と精神は安らかでいられるでしょう。》(51頁)
最近は批判されることもある糸井重里を、僕は昔からわりと注目しているのだが、このような文章を読むと糸井重里には叡智があるのだろうなと思う。彼はそのように行動しているのだと思う。
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デカルト『省察』

2020年06月16日 18時55分09秒 | 文学
デカルト『省察』(中公クラシックス『省察・情念論』所収)を読んだ。
この本は、神があることと、精神が身体とは別のものであることを証明するために書いたということらしい。
デカルトの神の存在証明の話を読んでいると、なんでそんなことを証明しなければいけないのかなと思い、どうしても興味をなくしてしまう。完全な概念を不完全な私が考えることができるのだから完全な神がいるのは間違いないというような話なのだけれど、その前提が納得できないんだよ、と思ってしまう。

《判断をくだすにあたって、悟性によって明晰判明に示されるものだけにしかおよばぬように、意志を制限しさえするなら、私が誤るということはまったく起こりえないのである。》(92頁)
というところはなるほどと思った。判断が間違うのはよく分かってもいないのに決めてしまおうというところに問題があるので、はっきりと分かることしか判断しない、というのは正しい。しかし、このように書いてみると、そんなふうに優柔不断(そう僕には見えるだろう)な態度は僕は嫌いだろうな。他人を見ていて、間違ってもいいから決めてしまえ、と思う場面が人生で何度もあった。
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デカルト『方法序説』

2020年06月15日 22時08分55秒 | 文学
デカルト『方法序説』(岩波文庫)を読んだ。
読むのはおそらく三度目くらいだと思う。
何度読んでも素晴らしい、と言いたいところだが実際は、何度読んでも難しい。
最初のほうに言っていることはそんなに難しいことでもなくて、むしろ分かりやすいように思うのだが、心臓の動きについて書かれているあたりや『世界論』を出版しない言い訳のようなところになるともうどうでもよくなってしまって、最初の方に良いことを言っていたような記憶がなくなってしまう。短いものなので最初から最後まで読むべきだと思ってしまうのだが、第三部まで読んでやめるのが良いのかもしれない。
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世界は林遣都で出来ている

2020年06月15日 00時01分41秒 | テレビ
林遣都が一人三役で三つ子を演じるテレビドラマ『世界は3で出来ている』を録画していたので観たがおもしろかった。
林遣都は『おっさんずラブ』以来注目しているが、映画ではいまのところあまり良い役に巡り逢えていない気がする。(私は知らない。)
すごくいい役者だと思うので、そろそろすごく良い映画監督と出会って、良い映画に出て代表作を作って欲しい。
とくに何もいらない。見ているだけで退屈しない役者。
高倉健並みに何もしなくても良い映画になると思う。
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小林秀雄「常識について」、ベルクソン「クロード・ベルナールの哲学」

2020年06月14日 17時31分41秒 | 文学
小林秀雄の「常識について」(新潮社『小林秀雄全作品25』所収)と、そのなかに出てきたベルクソンの「クロード・ベルナールの哲学」(岩波文庫『思想と動くもの』所収)を読んだ。
小林秀雄のほうは、最初はふむふむと読むがだんだん話が複雑になり、最後の孔子の中庸の話のあたりはよくわからなくなる。以前読んだときもそのように思ったのだと思う。デカルトの『方法序説』を読むための予習として読んだ。
ベルクソンのほうは、クロード・ベルナールについての話なのだが、このクロード・ベルナールが何者なのかまったく分からない。哲学者ではなくて医学関係者なのだろうか。
実験を重ねることによって結論を得るわけではなく、はじめに直観としての仮説があり、それが正しいことを証明するために実験を重ねるのだという話だったのだと思う。そしてそもそもそこで得られた結論も、最終的に正しいというものではないので(最終的に正しいかどうかは人間には分からない)、その後の経験によって柔軟に考えを変えていく必要がある、というようなことなのだろう。
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