![歌うクジラ(上) (講談社文庫)](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51TdVwcVWDL.jpg)
敬語が使えるということが非常に特殊なこととして扱われている。
語り手のアキラは敬語が使える。父親は老化現象を起こさせるテロメアだかなんだかを切られて一日に十五歳も年を取らされる。
出逢う人物は敬語を使えないばかりか、助詞の使い方がめちゃくちゃで、読むのに一苦労する。
助詞の間違った文章を読むのはほんとうに疲れるものだということがよくわかった。
しかし、それは人々の抵抗を表しているのだというようなことも言われる。
サブロウさんと二人でアキラが新出島から脱出したときに女性と出会うのだが、その女性を「アンと呼ばれる女」「アンという女」とアキラは呼ぶ。他に出会う人間も「サガラという人」「ヤガラという人」「コズミという人」などと語られる。
そして、
《アンという女が、あなたがアキラだけれど名前がアキラと呼んでいい? と聞いて、うなずくと、あなたをわたしのことはアンと呼んでもいいからね、と隣のシートに移ってきて坐った。》(128頁)
とあって、この後から「アンと呼ばれる女」でも「アンという女」でもなく、ただ「アン」と書かれる。
《どうしたの、とアンが聞いて、父親が死んだ、とぼくは言った。》(130頁)
敬語というのは他人との距離感を表すものなので、敬語が使えるというのは他人との距離感に慎重であるということを表しているのかもしれない。
呼んでいいよ、と言われたときだけに、相手の名前を直接呼ぶことが出来る。
話し言葉に対する敏感さは『トパーズ』を思い出させる。
サブロウさんとアンのみ「という人」が付けられないのかと思いながら読んでいたら、猿女のネギダールも仲間を殺す宗文も「という人」が付かない。どうでもいいと思われる人物「ヒサユキハカマデ」にも付かない。アンジョウに付かないのはなんとなく分かるが。
「という人」を付けるか付けないかはどうでもよくなってしまったのだろうか。
そう考えると僕にとってもこの小説がどうでもよくなってくる。
いったい村上龍が何をしたいのか、僕にはわからない。
![アリスのままで](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/61knK9w7tyL.jpg)
アメリカ映画を見るのは、描かれる悲劇とかそういう物語よりも、そこに描かれる彼らのライフスタイルを見て憧れるのもひとつの愉しみ方なのだろうと思う。
若年性アルツハイマーで、知性のある女性がいろいろなことをどんどん忘れていくのは悲しく、最後のほうの彼女の講演はものすごく感動するのだけれど、それよりも物語の前半でアメリカ的な家に住んで、アメリカ的な生活をしている姿に憧れた。
僕もアメリカの大学に勤めて、ジョギングをして汗をかきたいと思う。
思えば昔、シガニー・ウィーバー が出てた『コピーキャット』という映画が好きで何度も見たがそれも、彼らのライフスタイルに憧れていたからのような気がする。
知的な人の知的な生活にものすごく憧れる。
『アリスのままで』はすごくおもしろくて、何度でも観たい。
![満願 (新潮文庫)](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51QQtUanT7L.jpg)
以前から気になっていたミステリーで、文庫になったときに読もうかと思ったのだが、やめていた。
この前NHKでテレビドラマになり、ドラマは見なかったのだが、そのときに何となく気になって読むことにした。古本で購入。
「夜警」
とてもおもしろい。
ごまかそうとするひとっているよな、しかしここまではしないだろう、という気持ちで読み終える。
「死人宿」
こんなに熱心に遺書の文章を読み込めるってすごいな。佐和子には何のために逢いに来たんだろう。
反省しているつもりなのに、反省していないって言われるのってすごく嫌だけれど、この人は素直にさらに反省する。すごい、けど、違和感がある。こんな人はいないだろう。
温泉宿に行きたい。
「柘榴」
これはまたすごい違和感。
こんなことは、ないだろう。ミステリーは違和感のある登場人物が多い。
「万灯」
うーん、こんなこと、あるかねえ。
すべてが有り得ない。交通事故殺人も、第二の殺人も、コレラも。
第二の殺人が一番有り得ない。追いかけていって殺すって、リスクが高すぎる。
「関守」
最初、いままででいちばんつまんねえな、と思いながら読んでいたのだが、もっともおもしろい。
怖い。
やられた。
「満願」
表題作だが、僕にはどうもあまりおもしろくなかった。
そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないじゃないか、しかもなぜそれをいま気付くのだ。と思った。
![星に願いを、いつでも夢を](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51T7A7bLOmL.jpg)
村上龍のエッセイを続けて読む。
読んでいると、村上龍のことがものすごく好きになる。とてもやさしい。信頼できる感じがする。
どちらかと言えば、龍よりも春樹だったのだが、しばらく龍でもいいかもしれない。そう思って『歌うクジラ』を読み始める。村上龍の長編小説を久しぶりに読むが、あいかわらず暑苦しいし、息苦しい。このひとは括弧書きの会話がなぜだか昔から嫌いだった。ずっとカメラが主人公の顔しか映していない映画みたいな感じで、いま主人公と話している人間が誰かくらいの情報しか分からない。そういう小説なんだろう。というような感想を持つ。
『星に願いを、いつでも夢を』の最後に、ノーベル文学賞の話があり、村上春樹の受賞に備えてコメントを用意しているという話があった。
確かに村上春樹がノーベル文学賞を受賞したら、村上龍の話を聞きたい。内田樹も毎年コメントを用意しているらしいが、村上龍のほうが興味がある。
村上龍は村上春樹の小説を今でも読んでいるのか、読んでどう思っているのか、というようなことに興味がある。
思えば、エッセイを二冊読んだが、長距離走が嫌いとか、旅行が嫌いとか、ジョニー・ウォーカーがどうとか、飼い犬が死んだとか、村上春樹を意識したと思われる記述が多かったように思う。
![対談 ──戦後・文学・現在](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41fpsxvHFrL.jpg)
あまりおもしろい話はなかったが、吉本隆明の対談が懐かしい感じだった。といって、この対談を読んだことがあるわけではないと思うのだが、吉本隆明的な感じが懐かしく思った。
吉見俊哉との対談で、『占領の記憶/記憶の占領』という本が出てきて、興味を惹かれる。ちょうど文庫が出たばかりだったので買ってみた。
吉本隆明との対談で、加藤典洋が大江健三郎について、
《僕は昔からの大江さんの読者なんだけれども、ある時から、大江さんの小説の世界が死んでいる、と感じるようになって遠ざかったままいまにいたっています。具体的にいうと、大江さんの文学世界は、七六年の『ピンチランナー調書』あたり、あの谷間の村の話が定番になってから、変質したと思っている。その世界は、文体としても、小説としては、谷間の村が出てくると死ぬよ、とずっと思っているんです》(282頁)
と語っていて、そうだよな、僕もそう思います、と思った。谷間の村の話って退屈なんだよなあ。
吉本隆明が、ボランティアについて、
《そうすると、ボランティアとはなんだということになるけれど、僕は贈与だと思うんです。贈与の一つじゃないかと。
加藤さんのところには、あなたの本を点字に訳したいんだけど、承知してくれませんかとか言ってきませんか。僕のところへはよく来るんですけれど。そのときに、いいですよっていえばそれで済むんだけれど、つい言い方が気に食わないんですよ。要するに、自分も奉仕してるんだから、おまえも喜んで承知しますみたいなことを言うのがあたり前だみたいな文面なんですね。そりゃいいですけれど、ここらへんに残るんですよ。このばかっていうのが(笑)。》(360頁)
と語る。こういうのが吉本隆明らしい気がする。こういう言っちゃいけないことを言ってくれるひとって少なくなったんじゃないかなあ。
渡辺あや作のテレビドラマ『ワンダーウォール』を録画していたので見る。
京都の大学の学生寮を舞台に大学側との対立を描く。
もう私たちには戦うべき敵などどこにもいない、ということを描いているのだと思う。
いいドラマだった。
京都の大学の学生寮を舞台に大学側との対立を描く。
もう私たちには戦うべき敵などどこにもいない、ということを描いているのだと思う。
いいドラマだった。