ダブログ宣言!

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☆フッサール「厳密な学としての哲学」を読んだ

2008年04月30日 12時05分54秒 | 文学
ベルクソンの本で手軽に読めるものはあらかた読んでしまったので、次はフッサールを読もうと思い「厳密な学としての哲学」(『世界の名著 62』所収)を読んだ。この本は、ずっと昔、竹田青嗣や西研を読んでいたころに彼らがフッサールを薦めるので買ったのだが読んでいなかった。
どちらかと言えばベルクソンの方が読みやすいのだが、フッサールも同じような問題意識を持っている。少しずつフッサールを読んでいこう。
フッサールの、学問にこだわるところがドイツっぽいな、とそんなことを思った。
今後の見通しとしては、
フッサール(1859~1938)
ハイデッガー(1889~1976)
レヴィナス(1906~1995)
レヴィ=ストロース(1908~)
を読んでいこうかな、というのが大まかな計画です。
(調べてみてレヴィ=ストロースがご存命であることに驚いた。サリンジャーが生きてることと同じくらいの驚きだ。)
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☆旅行の友、カート・ヴォネガット・ジュニア「猫のゆりかご」感想

2008年04月29日 22時14分40秒 | 文学
二泊三日の旅行から帰ってくる。
やはり日本旅館と温泉と浴衣はいいなあ。今までの人生でもっとも風呂に入った日々だった。浴衣に下駄で街を歩くのも楽しい。
水族館にも行った。泳ぐセイウチのでかさと丸っこさに感動。
なんでもテレビで見て知ってる気になってるけど実際に見ると驚くことってあるな。

猫のゆりかご (ハヤカワ文庫)旅行中に、カート・ヴォネガット・ジュニアの「猫のゆりかご」(ハヤカワ文庫)を読んだ。
おもしろくないこともないんだけど、やっぱり苦手。
ぶつ切りの文章も苦手なんだけど、最後のドタバタもあまり好きになれない。登場人物も多すぎる。
真剣じゃないふりして結構真剣なのもなあ。
もともと僕自身が、正しいことが存在するなんて信じないことこそが正しい、というふうに考えているので、ボコノン教の思想にあまりなんというか感動みたいなものがなかった。
たぶんヴォネガットの影響を受けたひとたちから隔世遺伝のような形で僕がヴォネガットから影響を受けていたんだろう。
他の本も読んでもいいけど、しばらくはいいかな。
思想は好きなんだけど、文章の感じ、物語の作りがあまり好きじゃない。
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☆内田樹「下流志向」感想

2008年04月26日 17時03分31秒 | 文学
下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち内田樹の「下流志向」(講談社)を図書館で借りて読んだ。
最近読んだ内田樹の本のなかでいちばんまとまっていて読みやすい。特に教育問題やニートの問題に限らず、内田樹の思想を知るためには最も手っ取り早い本なのではないかと思う。
レヴィナスの思想に影響を受けているという話だけれど、ベルクソンの思想にも影響を受けているんだな、と思った。
これまで彼の言う「無時間モデル」がどういうものかよくわからなかったのだけれど、ベルクソンの言う等質的な空間ということなのかな。
《「もうニートになった人」については、その人権を守る方途を考え、「これからニートになりそうな人」には「やめた方がいいよ」と説得する。》(p.209)
こういうバランス感覚は忘れたくないなと思った。
この間、テレビ番組「アメトーーク!」を見ていたら、アニメの「エヴァンゲリオン」についての話をしていた。僕は見たことはないのだが、話を聞いていてなるほどと思ったのは、
・1番目と2番目を抜かして、3番目の敵から登場すること。
・いま「敵」と言ったが、敵かどうかも目的もわからない存在であるということ。
の2点だ。
この本を読んでいて内田樹が、ゲームはすでに始まっていて自分は遅れて参加するんだということを何度か言っていて、「エヴァンゲリオン」はそういう話なんだろうな、と思った。
生きていくというのは、すでに始まっていてルールもよくわからないゲームに、遅れて参加して、みんながやっているのを見てこういうことかな、と考えながら自分なりにやっていくことなんだ。
師弟関係の話も、何度も聞かされるうちにそういうもんかと思ってくる。
おもしろかった。

今日テレビを見ていたら、松平健が料理をする番組の最後に、彼の使っているのと同じフライパンを売っていた。テレビショッピングも兼ねた番組になっていた。
最近テレビ番組をハードディスクに録画してCMを早送りして見るから宣伝効果があまりないという話をよく聞くが、番組内で宣伝するという方法が今後さらに広まるかもしれないと思った。
ジム・キャリー主演の映画「トゥルーマン・ショー」は、主人公の生活が彼に内緒で世界にテレビ放送されているという話なのだがそのなかで、ココアかコーヒーかを主人公に飲ませる前に宣伝文句を言ってから飲ませるというシーンがあった。
「おはようからおやすみまで、暮らしを見つめるライオンの歯磨き粉で歯を磨いてきます」などど、くどい台詞の多発するテレビドラマがそのうち登場するのかもしれない。
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☆「逆立ち日本論」読みました

2008年04月26日 00時00分04秒 | 文学
逆立ち日本論 (新潮選書)なんにも考えずに読める気楽な本が読みたくて、養老孟司と内田樹の対談本「逆立ち日本論」(新潮選書)を図書館で借りて読んだ。
ふむふむ、ふーん、また同じこと言ってるな、といった感じで読み終える。
養老孟司は全共闘と姉歯とホリエモンとNHKの悪口を言い続ける。そこが可笑しい。
内容は予想通り、何にも考えず気楽に読める本でした。
だからあまり憶えてません。
内田樹は好きなんだけど、養老孟司の「結局どーでもいーんだよね」という感じもわりと好きだ。しかしやはり買って読もうとまでは思わない。読んでハッとするようなことがあまりない。

もうここ数年なんだけど、ことあるごとに糸井重里は最強なんじゃないかと感じる。糸井重里が誰かを嫌っているとか、誰かに嫌われているとか、喧嘩したとか聞いたことがない。まったく嫌な感じがしない。
言っていることが論理的に正しいかどうかよりもこんなひとになりたいかどうかでひとを判断するようにしている。そもそも論理的に正しいかどうかは僕にとってはどうでもいいことで、気持ちのいい散文であればそれでいいと思っている。
対談を読んでいて結局僕は、ゆるくていい加減で理屈なんかどうでもいいと思っていそうなひとが好きなんだなということを再認識した。
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☆ベルクソン「物質と記憶」感想

2008年04月25日 18時51分59秒 | 文学
物質と記憶 (ちくま学芸文庫)ベルクソンの「物質と記憶」(ちくま学芸文庫)を読んだ。
「時間と自由」と「道徳と宗教の二源泉」(どちらも岩波文庫)を読んだときはとってもおもしろかったのだが、その二作品の間に書かれた「物質と記憶」はちょっと難しかった。もしかしたら訳文に原因があるのかもしれない。ある訳語を書いてその直後に括弧書きでフランス語の単語を載せる書き方がいくつかあったが、そういうのを見るとこの本は大学院生向けなのかな、と感じてしまう。できるだけ横文字を使わないで訳して欲しいなあ、というのが希望です。なんとなく言い訳しているように見えてしまう。もっと自信を持ってどんと行け、そして、どんと来い、と思ってしまう。
横文字といえば、「テレビ」を「TV」と表記するのも好きではない。どう読んだらいいのかわからない。ティーヴィーか?
しかし「ティーシャツ」と「Tシャツ」はどっちがいいか迷う。「T字路」を「ティー字路」と書いたらどんな道かわからなくなるし。
まあいいんですが。
もともとが難しいのかもしれないが(たぶんそうなのだろう)、「物質と記憶」は難しかった。
パソコンがそれまでの家電製品(テレビとか炬燵とか)と明らかに違うと思われるのは、ものすごく手間がかかることと壊れやすいことだろう。そしてハードウェアとソフトウェアというものを意識させる。
たとえばテレビであれば、細かい仕組みはいまだに良くわからないが、アンテナから電波を受け取って画面に表示させるというように入力と出力だけが問題で、その媒体であるテレビを意識しなかった。
パソコンは、どういうソフトウェアが入っているかということ、そのソフトウェアの更新が行われるということ、など、媒体を意識させる。
ベルクソンが言っているのは、私たちが外から受け取る何らかの刺激(光とか色とか痛みとか音とか)は、純粋にそのままでは何にもならず、そこにそれまでの記憶を重ねることによってその純粋な刺激は何かになるのだ、というようなことなのだろう。純粋な知覚としてだけ考えれば、色の濃淡でしかない周りの景色を、石があったり山があったり空があったりと広がりのある世界として見るのはそれまでの記憶があるから。
そのようなことは理解できました。
ベルクソンの言ってることが何の役に立つのか、というようなことは人それぞれだと思うが、僕にはふたつくらい役に立つかなと思えることがある。
ひとつは、質と量の話で、あるものと別のあるものがあるときに、どっちがいいかという競争になるのだけれど、そうではなくそれは質が違うのだというのはよく考えておきたいことだ。競争になるのはそういう見方をしているだけだということ。
もうひとつは、ソフトウェアは更新されるということ。昨日の私と今日の私は違うということ。
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☆「失われた時を求めて」メモ43

2008年04月23日 22時44分08秒 | 文学
失われた時を求めて〈7〉第四篇 ソドムとゴモラ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)プルースト「失われた時を求めて」7巻読了。

・カンブルメール老夫人とカンブルメール若夫人に出会う。
嫁姑問題ってどこでもあるんだな。
カンブルメール老夫人はショパンの弟子。で、ショパンが得意。
・あとは、ソドム(ゲイ)とゴモラ(レズ)の話。
・ブロックの妹(プルーストは混同して従妹とも呼ぶ)がホテルの公衆の面前で女友達とベッドでするのと同様の行為を行っている。(ゴモラ)
・ブロックの大叔父のニシム・ベルナールは同じホテルの若い給仕を囲っている。(ソドム)
・アルベルチーヌはめちゃくちゃ怪しい。(限りなくゴモラ)
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☆個人的な文体の話

2008年04月22日 22時06分12秒 | 文学
たまに、「あの本を読んだときどう思ったんだっけ?」とか「この人について何か書いたことがあったっけ?」と思ったときに、このブログの過去のものから検索して読んでみることがあるのだが、やはり書き方の癖みたいなものが見られる。読みやすく書こう、ということくらいしか心掛けていないのだけれど。
自分のことで、あまり気づいてなかったのだが。
自分の体臭はよくわからないというようなものだろうか。
気にして読んでみて気づいたのは「……だなあ。」が多いということ。これは少しべたついた感じがするので「……だな。」に変えたほうがいいかと考えている。
それと、これは別に(僕には)悪い感じはしないのだが、なんだかわからんがフェミニンな文体だな、と思った。マッチョではない。(文体をフェミニンかマッチョかで分けるのは加藤典洋の「言語表現法講義」)

夏である。蝉が鳴いている。

というような司馬遼太郎の書きそうな文章がほとんどない。たまに見つけると引用だったりする。
もっと司馬遼太郎や北方謙三や志賀直哉(も、かな?)などのマッチョ文体を読んでもう少しマッチョにすべきではないかと思うのである。
文体って何のことだかずっとわからなかったのだが、こういうものなんだろうな。
敬体(です・ます)と常体(だ・である)の違いとかのことかなあ、とぼんやり思っていたのだが、そんなものではなくて、書き手の癖全体。吉本隆明の言うところの”体液”。液体であるのですぐに混ざったり染まったりする。
どうしようもなくこれまで読んできたものに影響されていることが(自分には)よくわかる。
(そういえば、括弧書きの多用というのも癖のひとつだな。)

なにゆえこのようなことを考えたかというと、少しずつヴォネガットの「猫のゆりかご」を読んでいるのだが、文体の影響ってあるな、と改めて考えたから。
僕の読んできた本からすると、当然ヴォネガットに行きつきそうなものなんだけど、これまでほとんど読んでいない。
村上春樹が影響を受けていると聞いてずっと前に一度読もうとしたことがあるはずだが、あまり記憶にない。確か「ジェイルバード」と「ガラパゴスの箱舟」を読んだんじゃなかったかと思うのだが、細切れで眠くなってわけわからん、というような印象しかなかった。
だいたい、ヴォネガットの影響が濃いといわれる、村上春樹の初期の長編っておもしろいと思ってないんだよね。高橋源一郎も面白いと思わないし。
村上春樹の長編小説で言えば、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」以降のものはおもしろいと思ってて、「羊をめぐる冒険」はまあ面白いところもある、でも結局は「ノルウェイの森」がいちばん面白い、というのがここ何年も変わらない評価です。
岩井俊二の映画では「Love Letter」じゃなくて「スワロウテイル」が好きだという人をどうも信頼できないと思ってしまうように、村上春樹の小説では初期の長編がもっとも良かったとか聞くと「えー! 嘘ついてない? 格好つけてない?」と思ってしまう。初期が良かったは、大江健三郎には許されるけど村上春樹には許されない評価だ、とも思ってしまう。
わりと偏狭なところがあります。
いまヴォネガットを読んでいてわりとおもしろいと思い始めていて、評価が変わるかもしれないので(たぶん変わらないけど)、ここではっきりといまの私の評価を書いておきます。
こういう好き嫌いははっきりと書き残しておかないと、ホリエモンのことはもともと嫌いだった、と言い始めてしまうようなもので、世間の評価が変わったときにそれに合わせて自分の評価を変えてそれを信じてしまうようなことがあるのできちんとしておきます。変わって悪いことはないけれど、変わったことは意識したほうがいいと思うので。
しかしまあ一生懸命言ってるけど、僕にしか意味のない話です。
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☆「失われた時を求めて」メモ42

2008年04月22日 00時10分25秒 | 文学
友人と「マリオカートWii」でネットワーク対戦。
自宅に居ながら集まらなくても遊べるのがよい。
レースの合間合間に会話を交わすことができる。会話と言っても定型文から選ぶだけなのだが。
「またねー!」とか「次はがんばる!」とかそんな感じの毒のない会話。
定型文からしか選べず、自分で入力できないのが不便なようでいて、逆にそれがいいように思った。たぶん入力してると喧嘩が始まってしまう場合がある。レースの後だし。
2ちゃんねるも、やってることはほとんど定型文の交換でしかないわけなのだが、それでも喧嘩が始まってしまうのは、毒のある定型文だからだろう。
あまり見ないので知らないのだが、代表的な2ちゃんねる用語で、「オマエモナー」が「お互い様です」、「逝ってよし」が「ごゆっくり」とかいう言葉だったとしたら、かなりの数の言い争いが解消されるのではないかと予想される。
喧嘩が始まるかどうかはわりと小さなこと、「○○さん」と言わずに「おまえ」と言ったりすることにきっかけがあるように思う。悪い言葉を使ってるとイライラしてくるしね。
これは普段の生活でも同じことなんだけど。

プルースト「失われた時を求めて」7巻440ページまで。
・バルベックでアルベルチーヌと会う。
語り手はアルベルチーヌが同性愛の行為を行っているんじゃないかと疑う。
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☆「マリオカートWii」購入

2008年04月21日 00時10分40秒 | ゲーム
マリオカートWii(「Wiiハンドル」×1同梱)「マリオカートWii」を購入。
ハンドル操作が難しすぎる。
数回やったが腹筋が痛くなる。力がものすごく入っているのだろう。
おもしろいかどうかはまだよくわからんが、とにかく難しい。

世界のひととも対戦できるようで、一度やったが惨敗だった。
しばらく練習だ。
無免許のちびっこたちにゴールド免許としては負けるわけにはいかんのだ。
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☆「失われた時を求めて」メモ41

2008年04月20日 13時25分57秒 | 文学
昨日、本屋で雑誌「考える人」を立ち読みする。
加藤典洋が青山南と豊崎由美とともに海外の長編小説について語っていた。
ちょうど「失われた時を求めて」の話になって、全部は読んでいないという豊崎由美に対して加藤典洋が、大学の時に読んだけど、読んだら死体になって浜辺に打ち上げられたような気分(だったかな?)といういつかどこかで読んだ比喩を使って説明していた。
しかも結末を少しばらしていた。がーん!
読まなきゃよかった、と思ったがもう遅い。
忘れよう。
加藤典洋のばか!

プルースト「失われた時を求めて」7巻392ページまで。
・「ソドムとゴモラ」のⅠ-Ⅱの第一章が終わる。
・「心の間歇」と題されたところは語り手が二度目のバルベック滞在で、死んだ祖母を思い出す。
・夢で祖母のことを思い出し、目が覚めるとそこにかつて隣の部屋の祖母と叩きあって知らせあった壁がある。わりと感動的に書いてる。
・語り手の母親は、祖母(つまり自分の母親)が死んだことで彼女に似てくる。
生きているうちは個性があったのだが、死んだことで対祖母の個性がなくなる。祖母に対することで形作られていた母親の個性が祖母がいなくなったので失われる。
個性とか無意識とかそういうものって意識すればその面が強くなるけど、別に実体としてあるものではないので、変わっていくものなのだ。
・語り手は泣いているのだが、フランソワーズに気づかれないようにする。読者にもあまり気づかれないようにしている。
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