ダブログ宣言!

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ピアノ発表会

2018年01月31日 23時12分31秒 | 育児
週末に娘(五歳)のピアノ発表会に行く。
ひとり一分くらいの発表で一時間くらいの発表を見る。
実はあまり期待していなかった(たぶん退屈するだろうと思っていた)のだが、とてもおもしろかった。自分の子どもの発表だけでなく、見知らぬ子どもの発表も良かった。
うちの娘はまだ一年目なのだが、二年目の子どもの発表(セカオワの「RAIN」やミスチルの「HANABI」を弾いている子がいた)を聴き、来年になるとあんなふうに自分で曲を選んで発表するのだなと思うと、楽しみになった。
うちの子はピアノ演奏で、エレクトーンの音というのはこれまで興味ないなと思っていたが、聴いていると、岩井俊二の映画を思い出した。岩井俊二の映画はエレクトーンを使っているのだろうか。特に『花とアリス』を思い出した。そしてエレクトーンもなかなかいいなと思った。
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山口果林『安部公房とわたし』

2018年01月29日 23時36分14秒 | 文学
山口果林『安部公房とわたし』(講談社)を図書館で借りて読んだ。
安部公房との不倫関係について”赤裸々に”綴られている。よく”赤裸々に”と言いながらぜんぜん”赤裸々に”じゃないこともあるのだが、ほんとうに”赤裸々に”だなあと思った。表紙をめくって山口果林の裸の写真があったのでびっくりした。山口果林はとっても可愛らしい。
子どもを堕胎したことや、安部公房の妻の安部真知の恐ろしい感じとか、いろいろ詳しく書かれていた。
加藤典洋の言う通り、安部公房(と周辺)はノーベル賞を獲ることを意識していて、そのために離婚できなかったというふうに書かれていた。
離婚がノーベル文学賞と何の関係があるのかといま考えれば思うのだが、当時はそのように考えられていたのだろう。
安部公房の作品で一番興味を惹かれたのは『飛ぶ男』(旧タイトル『スプーン曲げの少年』)なのだが、文庫になっていないし未完のようだ。
ほかには読みたくなったものはなかった。
安部公房の文学的な凄さはこの本を読んでもわからなかった。
ちょっと駄目な感じだなと思った。
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ほっといてくれよ、と安部公房は言った。

2018年01月23日 00時34分44秒 | 文学
ネットを見ていたら加藤典洋が雑誌「GQ」のサイトに村上春樹のノーベル文学賞候補のことについて書いていて、僕もまさしく同感と思った。
もういいよ。
ところで、読んでいると安部公房について最後のほうに書かれていて、この出典はなんだろうと思ったのと、そういえば安部公房についてまったく興味をきちんと持てたことがない。そしていまでも彼の小説を読む気になれない。それはカフカの小説に興味が持てないのと似ている。現実味がなくて暗いものは読む気がしない。しかしエッセイか評伝のようなものであれば読めるかもしれない。何年か前に「徹子の部屋」を見ていたときに、山口果林が安部公房についての本の宣伝をしていて、宣伝をしに来たにもかかわらず本の内容はぜんぜん語らなかったというのを憶えているので、それでも読んでみようかという気になった。
もしかすると加藤典洋もこの本を読んだのかもしれない。
図書館で借りて読むことにする。

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茂木健一郎『結果を出せる人になる!「すぐやる脳」のつくり方』

2018年01月21日 20時58分18秒 | 文学
茂木健一郎『結果を出せる人になる!「すぐやる脳」のつくり方』(学研パブリッシング)を図書館で借りて読んだ。
具体的に何かをやれば良いというような話はなかった気がするが、なんだかやる気になれた気がする。すばらしい。
ちょうどこういう本を求めていた。
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内村鑑三『代表的日本人』

2018年01月21日 01時25分06秒 | 文学
内村鑑三『代表的日本人』(岩波文庫)を読んだ。
西郷隆盛と上杉鷹山と二宮尊徳と中江藤樹と日蓮の五人の伝記を内村鑑三が英語で書いたものを日本語に翻訳している。
西郷隆盛の話は大河ドラマを見ているので一番興味深く読んだ。
どのひとも経済的なこととか科学的なこととかそんなことではなくて、自分の気持ちとか誠実さとかそういうことで生きていけているので羨ましくなった。
ほんとうにこの人たちが「代表的」であるならば、いまの日本にはこんなひとたちはどこにもいなくなってしまったなという気持ちになる。
二宮尊徳の、「お前の持っているものは不正に手に入れたものだからとりあえず全部捨てろ。そして一からやり直せ」というような助言は誰も聞かないだろうし、そんなことを言う人もいないだろう。

しかし話が五人分続くのでだんだんと印象が薄れて誰がどんな人だったのかわからなくなった。
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「いまさら観てないとは言えない映画。」

2018年01月21日 00時58分13秒 | 映画
タイトルに惹かれ、雑誌「BRUTUS」の「いまさら観てないとは言えない映画。」号を図書館で借りて読む。
「いまさら観てないとは言えない映画。」と言えば、『ゴッドファーザー』をパート1だけ見て続きを見ていない。
あとは、ブルース・リーの映画と『ロッキー』シリーズも見ていない。チャップリンもだいたい見ていない。
しかしこんな話はいくらでも出来るので、いまさら観てないとは「言えない」映画などはない。
どちらかと言えば、読んでないと言えない本のほうがある。それも言えないというほどではない。
雑誌はとてもおもしろく、見たい映画がかなり増えた。

以下は見たくなった映画。
『愛と哀しみの果て』
『スター・ウォーズ フォースの覚醒』
『幸せへのキセキ』
『ブエノスアイレス』
『ハドソン川の奇跡』
『キングスマン』
『マイ・インターン』
『イングロリアス・バスターズ』
『キャロル』
スター・ウォーズに再び興味を持つことになるとは思わなかった。
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クリント・イーストウッド監督『ヒア アフター』

2018年01月18日 23時16分12秒 | 映画
クリント・イーストウッド監督『ヒア アフター』がテレビで放送されていたので録画して見た。
公開当時映画館で見てとってもおもしろかったと思った記憶があるけれど、いま見るとどこがおもしろかったのかよく分からない。やはり途中でCMが入ると駄目なのか、吹き替えが駄目なのか、なぜなのかわからない。
料理教室の場面や、ディケンズの朗読など、意味不明で心に残るのだが、感動はしなかった。
イーストウッドの映画は(彼の映画に限らないのかもしれないが)、公開時にはすごく期待して、見るとおもしろいと思うのだが、何年か経って残っているものはひょっとしたら少ないのかな、とも思う。わりと熱心にイーストウッドの映画を見た時期もあったが、繰り返し見ているものはない。
良い機会なのでイーストウッドの映画をまとめて見て、いまでもおもしろいものがあるかどうか確認してみてもいい。
『許されざる者』と『パーフェクト・ワールド』と『マディソン郡の橋』と『グラン・トリノ』くらいは見返すべきだと思うが、こう書いてみると全部見るのは結構億劫だ。
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和田行男『だいじょうぶ認知症 家族が笑顔で介護するための基礎知識』

2018年01月15日 22時42分11秒 | 文学
和田行男『だいじょうぶ認知症 家族が笑顔で介護するための基礎知識』(朝日新書)を図書館で借りて読んだ。
この正月に実家で些細なことで父親が怒りだし、ちょっと異常な感じだった。
あとで、母親や姉、妻と話をすると、ちょっと認知症なのではないかという判断だった。
このところ(といって半年に一度くらいしか逢わないのだが)、だんだん短気になってくるなと思うことはあったのだが、認知症というふうには思っていなかった。
なかなか大変だなと思ったので「だいじょうぶ」と言う、この本を読んだ。ぜんぜん大丈夫ではないのだが、理解できることもあった。
この人(和田行男)の考え方として、認知症というものをその人の全人格を覆ってしまうものと考えないで、その人の一部に貼り付いてしまったものと考えようとしている。
それと、その人の身になってみればその人なりの理屈があるわけで目的もなく徘徊しているわけではないというようなことも言っていた。
あくまで相手を人間としてみようとすることが大切であるのだと思う。
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柳宗悦『柳宗悦コレクション3 こころ』

2018年01月14日 21時16分59秒 | 文学
柳宗悦『柳宗悦コレクション3 こころ』(ちくま学芸文庫)を読んだ。

「妹の死」
タイトルから勝手に幼い頃に死んだ妹を回想する話を思っていたが、そうではなくてもう成人し、子どもが六人いる妹が死ぬ時の話を描いていた。
自分が死ぬということを覚悟し、順番に身内のものに遺言を言っていく姿があまり見たことがない姿だなと思った。死のうとする人間のまわりの人間は、死ぬときまでその人が回復するということを信じているとしなければならないというような考えがいまはあって、まだ死んでもいないのにこれから死ぬという想定で遺言を言い始めるということはなかなか出来ない。しかし死んでしまったら遺言は自分の口で言えない。
もう死ぬと本人もまわりも分かっているのなら、死ぬという前提で話を進めるということもあっていいのではないかと思った。そのほうが無理がない。たぶん、宗教心が足りないからそういうことが出来なくなっているのだろうと思う。
妹が死んで二日後に彼女の息子が死ぬというのも不思議な話だなと思った。

「死とその悲みに就て」
死への旅は帰ることのできない旅ではなく、その旅が帰りの旅。

「私の念願」
《それで美しさを解する上に、私がとりたいと思うのは、概念から直観へ行く道ではなく、直観から概念に進む道、即ち分析を後にして綜合を先にする道をとりたい。》(66頁)

「美の浄土」
揚げ足を取らせてもらうと、美と醜がなくなるのだと言いながら、民衆ではなく天才が作ったものはあまりよくないと言っている。民衆が作ったもので美しいものを見つけてそれに感動しているだけのような気もする。
この人が褒めるものはほんとうに民衆が作ったのだろうかという気がしてくる。いま名前が残っていないだけでその時代の天才ではなかったのかと思う。

「民藝美の妙義」
同じような話が続き、柳宗悦の言いたいことが分かってくるが、不二とか二元論から去れというようなことを言う割には、凡人と天才の二元論から自分が逃れられていないように感じる(これはおそらく柳宗悦を批判的に読む人は誰でも感じることではないかと思う)。
彼の言う、凡人というのが具体的にどういう人を表すのか、名前のある具体的な人として考えられているのか疑わしい。ただ概念として凡人とか天才とか言っているだけのような感じがする。そんなにまっぷたつに人間を分けられるだろうか。
ただ、この茶碗は凡人が作ったのに素晴らしいとか、天才が作っているものは知識が邪魔して美しくないというような話を、実例をもとに話されると「そうじゃないものもあるんじゃないの?」と思うのだけれど、ただ自分のものの考え方として二元論を脱しなければ心の平和が訪れないというような話は納得がいく。

「安心について」
《つまり、「自分」を固守しなければよい。》(349頁)
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ジーン・ウェブスター『続あしながおじさん』

2018年01月12日 23時05分37秒 | 文学
ジーン・ウェブスター『続あしながおじさん』(新潮文庫)を読んだ。
『あしながおじさん』のほうがおもしろかった。あっちも最後のオチが見え見えだったのだが、最初ということもあり良いと思ったが、二度目となると「またか」という感じになる。
『ジェイン・エア』ってこんな話じゃなかったかな、とも思った。
読むのに時間がかかったのも良くなかった。小説は通勤のバスでちまちま読むべきではない。

今日の「あさイチ」はゲストが小澤征爾で、録画して見た。
村上春樹の話をしていた。
そして以前『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を読んだときに疑問に思ったのだが、小澤征爾は「ブルーズ」ではなく「ブルース」と言っていた。
ということは村上春樹は「ブルーズ」と言っていたのに、小澤征爾は「ブルース」と言って話していたのだろうか。
相手が「ブルース」と言っているのに、こちらが正しいと思って「ブルーズ」と言い続ける人(相手に、そろそろ間違いに気付けよと思っている人)は嫌な感じだし、村上春樹はそのような人ではないだろうから、その場ではふたりとも「ブルース」でしゃべって、文字にするときに村上春樹が「ブルーズ」にしたというのが事実なのではないかと思う。
しかし「ブルーズ」とは僕は言わないから「ブルース」でいいじゃんと思うが、相手が「アボガド」と言い続けても僕は絶対に「アボカド」と言い続けるだろうから、もしかすると村上春樹は「ブルーズ」と言い続けたのかもしれない。
どうでもいい話である。
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