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中島岳志『自民党 価値とリスクのマトリクス』

2020年03月29日 21時48分54秒 | 文学
中島岳志『自民党 価値とリスクのマトリクス』(スタンド・ブックス)を図書館で借りて読んだ。
自民党の九人の政治家(安倍晋三、石破茂、菅義偉、野田聖子、河野太郎、岸田文雄、加藤勝信、小渕優子、小泉進次郎)について、彼らの書いたものや発言から「リベラル」か「パターナル」か、「リスクの社会化」か「リスクの個人化」かで判断し、どういう人物かをわかりやすく解説する。
安倍晋三は右派というよりは、とにかくリベラルが嫌い、アンチ・リベラルである。それと、結果責任をとることで免罪されると考えているのでその場しのぎのごまかしや不誠実さが目立つ。というようなところが印象に残った。
また、岸田文雄は「とにかく、当たり障りのないことを言う天才」と書かれていて笑ってしまった。そのような人は、政治家なのだろうか。まあ政治家か。
期待できるのは石破茂と野田聖子くらいかな、と思った。
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大江健三郎『万延元年のフットボール』

2020年03月29日 02時58分53秒 | 文学
大江健三郎の『万延元年のフットボール』(1967年)を読んだ。(講談社『大江健三郎全小説7』所収)

『日常生活の冒険』が詰まらなかったので長篇小説を読むのはやめようかと思ったが、こちらはとってもおもしろい。惹き付けられる。
何がおもしろいというわけではないが、おそらく文体のせいだろう。
と、はじめはだいぶ期待した。
しかし最後のほうは期待外れだった。
曾祖父とその弟、語り手の長兄と次兄のS次、そして語り手の蜜三郎と鷹四のそれぞれのペアが重なるように描かれる。
鷹四が蜜三郎の妻の菜採子と関係を持ち、そのあとかつて鷹四が妹と関係を持って妊娠させて中絶後に妹が自殺してしまったという告白があり、それから鷹四が自殺する。
このあたりがちょっと話が詰め込み過ぎ・めちゃくちゃな印象がありついていけなくなる。
その前の、なんだか唐突に蜜三郎が怒り始めて雪が降って都会に帰れないので倉屋敷に閉じこもり、鷹四が谷間の村の若者と作ったフットボールチームと対立し、彼らが”スーパー・マーケットの天皇”の経営するスーパーに対して暴動を起こす、というあたりから違和感は充分にあった。
曾祖父の弟は谷間から逃げて横浜に行ったと思っていたら、倉屋敷の地下で本を読んでいたということがわかるという展開も、まったく興味が持てない。曾祖父の弟の話に興味が持てないので、彼がどのように余生を過ごしていたのかにも興味を惹かれない。どうせ嘘だし。
フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』が死んでたと思ってたひとが生きてた、という話であるという噂を聞いたことがある。ひょっとするとそこらへんの影響があるのかもしれない。
しかしやはりちょっとこのころの大江健三郎は苦手かもしれない。
『洪水はわが魂に及び』だけは読もうと思うが、それ以降はわからない。

他で気になったことをメモしておく。
・語り手の蜜三郎の妻の菜採子は、大江健三郎の娘と同じ名前なのであろう。
・《それはイギリスの動物採集家が少年時の日々をエーゲ海で過した愉快な思い出を語った本で、もともと死んだ友人が発見してきて、愛読していたものである。》(100頁)
と語られる蜜三郎が翻訳している本はジェラルド・ダレルの『虫とけものと家族たち』のことだろうか。
・フットボールというのは足で蹴っているようだからサッカーのことだろう。アメリカンフットボールのことではないのだろう。
・隠遁者ギーは何のためにだか登場する。
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ザミャーチン『われら』

2020年03月24日 22時44分47秒 | 文学
ザミャーチン『われら』(光文社古典新訳文庫)を読んだ。
まったく理解できなかった。
共感できる・できないという話ではなく、あらすじすらわからない。何が行われているのか理解できない。
ここまで理解できない本は珍しい。
「……」が多く、何を省略しているのかわからない。
なんなんだろう、これは。
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ウディ・アレン監督『女と男の観覧車』

2020年03月21日 22時29分36秒 | 映画
今日は小豆を茹でてあんこを作り、餅米を炊いておはぎを作った。
信じられないくらいの砂糖を入れる。
素朴でおいしかったが作りすぎてしまってもうしばらくおはぎはいいやと思ってしまう。
次回は半分の量でやりたい。足りなくて、もっと欲しいと思うくらいがちょうどいい。
娘(七歳)は「いつか私が主人公をやりたい」と言っていた。”主人公”というのはおはぎ作りのリーダーというくらいの意味だろう。
今回の主人公は僕だった。

ウディ・アレン監督の『女と男の観覧車』を観た。
ケイト・ウィンスレットがジャスティン・ティンバーレイクと不倫し、そこに入ってきた義理の娘が邪魔なので敢えて救わずに殺してしまう話だった。
ケイト・ウィンスレットがウディ・アレンらしくしゃべりまくる。
息子役の子供が火をつけるのが好きで、いろいろな場所で放火を行う。
子供が火をつけるところと、ジャスティン・ティンバーレイクが登場人物でもあり語り手でもあってカメラに向かって語りかけるのが印象に残った。
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大江健三郎『日常生活の冒険』

2020年03月21日 01時13分51秒 | 文学
大江健三郎の『日常生活の冒険』(1964年)を読んだ。(講談社『大江健三郎全小説14』所収)

金泰(キムタイ)というボクサーが登場する。
ボクサーが登場すると古くさく感じる。
三島由紀夫の『鏡子の家』をなかなか読めないのは、ボクサーが登場するということが原因のひとつかもしれない。他に思い出せるのは向田邦子の『阿修羅のごとく』(ドラマを見た)にもボクサーが登場したと思う。
時代だろう。
いまボクサーが登場する小説を書くのは沢木耕太郎くらいのものだろう。

斎木犀吉が伊丹十三をモデルにしているというのがこの小説を読むときの基本事項のようなのだが、それを知ったところでおもしろくないことに変わりはない。
何がおもしろいのかぜんぜんわからなかった。長いし退屈。

《おまえの小説が悪いのは空想しか書いていないことだ。おまえは観察していない。それで、あれはつまらないものになっておる。》(45頁)と語り手の祖父が言うのだが、その通りだなと思った。

《ところが、その数ヶ月前に、ぼくが書いた政治的な残酷物語が様々な他人たちの頭に、怒りのキノコを繁殖させたのであった。僕は夜も昼も、脅迫の電話やら手紙やらの棘だらけのスコールを頭から存分にあびはじめた。ぼくは孤独になり一種のヒポコンデリアにかかり、小説もエッセエも書かなくなった。》(46頁)
とあり当時の苦しみのことがわかる。
このように書かれると、読むつもりのなかった「政治少年死す」も読んでおくべきかなと思う。
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ジョージ・キューカー監督『マイ・フェア・レディ』

2020年03月16日 22時44分29秒 | 映画
ジョージ・キューカー監督『マイ・フェア・レディ』を観た。
おもしろいとは思いながら、しかし何度も細切れで観た。長い映画を一度で観られなくなっている。
花売りの娘を、賭け事の勝負から貴婦人に育てる。
言葉遣いで階級が分かれるということが感覚としていまいちよく分からない。
イライザ(オードリー・ヘプバーン)はフレディ(ジェレミー・ブレット)と結婚するのかと思ったが、結局ヒギンズ(レックス・ハリソン)のところに戻ってくる。年齢が合わないのではないかとすぐに思ってしまうが、洋画ではなぜだかこういうこと(女性が若く、相手の男性が非常に老けている)はよくある。
フレディ役のジェレミー・ブレットは非常にハンサムなのだが、シャーロック・ホームズのあの人とは思わなかった。

観ていて愉しくなる、いい映画だと思う。
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千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版』

2020年03月14日 20時22分28秒 | 文学
千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版』(文春文庫)を読んだ。
単行本が書店に並んでいるときも気になっていたけれど、文庫になっているのを見て買って読んだ。
結構売れていた本だと思うけれど、みんなおもしろかったんだろうか。
僕にはぜんぜんおもしろくなかった。
ちょっと何か勉強したいなと感じていて、何かそのきっかけになるかなと思って買ったがぜんぜんそんなふうな感じのものではなかった。最初のほうは良くて、ちょっとわくわくするのだけれど、最終的にはパソコンのアプリの使い方のような話になってしまう。
もうちょっと何か、鼓舞してくれるようなものがあれば良かった。
たぶんこの著者のものはもう読まない。それくらいの失望感だった。
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大江健三郎『キルプの軍団』

2020年03月13日 22時43分05秒 | 文学
大江健三郎の『キルプの軍団』(1988年)を読んだ。(講談社『大江健三郎全小説11』所収)
僕にもこんなふうにディケンズの小説を原書で一緒に読んでくれるような刑事の叔父さんがいたら良かっただろうなと思う。英語の勉強になっただろう。仕方が無いからいまからでも英語の勉強でもひとりで(高校生とおじさんのひとり二役で)してみようかとも思った。
もうちょっとおもしろいものかと期待していたけれど、読みやすいがそんなにおもしろくはなかった。再読だが昔読んだときと大きく印象は変わらない。大江健三郎の子供が語り手ということなら『静かな生活』のほうが好きだ。『二百年の子供』のほうが好きかもしれない。
ディケンズの『骨董屋』とドストエフスキーの『虐げられた人びと』について語られ、ネルとネリーというそれぞれの小説の登場人物について詳しく語られる。研究書についても言及される。そんなことが必要かなと思う。
百恵さんにも惹かれなかった。彼女がネルあるいはネリーなのだろうけれど。「キルプの軍団」というのは村上春樹の「リトル・ピープル」みたいなものだろうか。
大江健三郎がこの時期ディケンズを読んでいて、その成果に少しお話を付け加えました。そしてお話のオチはいつものテロ騒ぎです、というようにしか読めなかった。
最後に「卒業」という曲(大江光作曲)の楽譜が載っていて、ピアノを習っている娘(七歳)に弾いてもらったが歌い方がわからない。
語り手のオーちゃんが《僕はピアノの音ひとつひとつに言葉をつけて行きました》(669頁)と書いているけれど、文字数がぜんぜん足りない。
あえて歌い方を書けば以下のような感じだが、おそらくこんな歌ではないだろう。お経にしか聴こえない。

きょ(→)お(↑)で(↑)お(↓)わ(↓)り(↑)と(↓)ゆ(↓)う(↑)こ(↓)と(↓)
ふ(→)し(↑)ぎ(↑)な(↓)き(↓)が(↑)す(↓)る(↓)ね(↑)え(↓)え(↓)

《兄のメロディーにあわせて僕の書いた言葉を家族みんなが歌ったのでしたが、やはり自然な作られ方の歌、という感じじゃないのです。それでも、兄が正確な音程の小さな声で歌うと、澄みわたって清すがしい気持プラス悲しみが浮かびあがるようでした。》(672頁)
と書かれるがそんな気持ちにはならない。上手く歌えないので悲しい気はするが。
やはりここは大江健三郎お得意のグロテスク・リアリズムなのだろう。
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大江健三郎・古井由吉『文学の淵を渡る』

2020年03月13日 18時25分36秒 | 文学
大江健三郎・古井由吉『文学の淵を渡る』(新潮文庫)を読んだ。
古井由吉についてこれまであまり興味を持ってこなかったし、大江健三郎についてはいま全集をずっと読んでいるので、自然に大江健三郎の言葉のほうに惹かれる。

《『僕が本当に若かった頃』という短篇で、若いころ家庭教師をやっていたときの話を書きました。そのとき僕は、化学の実験も数学の問題の解き方も生徒に全部言葉で説明してやろうと思った。なぜならば、人間の認識は言葉で行われるからだと、そのとき本当に信じていたからです。》(55頁)
この短篇を読んだときに自分の経験談があるのだろうなと確かに思った。

《とくに知的障害を持った子供が生まれて、かれと一緒に生きていくほかない、それはそのこと自体を小説に書くことだと覚悟したのが転機で、私小説でいいじゃないか、それを方法的に工夫しよう、と開き直った。》(175頁)
そのような覚悟があったという話を聞いたことがなかった。

《僕自身、『源氏物語』の新しい翻訳が出ると常に買っていました。》(217頁)
最近『源氏物語』をもう一度読んだほうがいいのではないかと思っている。この対談では評判の悪い谷崎訳で僕は読んだ。

《こんな自然発生的な文章ではダメだ、職業作家として生き続けることはできないという強迫観念に捉えられた。そして、自分の文章が持ってた自然な形を壊して、とにかく複雑な文体に作り替えた。『万延元年のフットボール』からです。》(240頁)
ほんとうを言えば『万延元年のフットボール』以前から大江健三郎の文章は不自然で読みにくいと思う。
さらに読みにくくしたということなのだろう。
読みにくくしてしまった後悔については以前もどこかで読んだことがある。

《それで僕は、いつも僕と家内の生活の中心にいる障害児として生まれた自分の息子を小説の中心に置くことにしたんです。それまで「私小説」というものを敵だと考えていたのに。それが自分の子供の、普通文学の言葉とはならない、書き手にも他者の言葉である、その障害のある子供の言葉をとり入れよう、と考えました。》(242頁)
大江健三郎が障害児の父親でありそれを書いていることについて、自分自身が父親になってみるとそれまでと違った感じを持つ。大変なことだなと思う。

文庫版では最後に漱石の話が追加されている。
最近村上春樹が『こころ』を好きではないという話をしているのを二度続けて読んだが、ここでは『こころ』が中心に語られる。
僕としては夏目漱石の『こころ』はやはり素晴らしいと思う。
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レイ・ブラッドベリ『華氏451度〔新訳版〕』

2020年03月12日 20時28分42秒 | 文学
レイ・ブラッドベリ『華氏451度〔新訳版〕』(ハヤカワ文庫SF)を読んだ。
ベイティーを焼き殺して逃げるところは少しおもしろかったのだが、全体的にはおもしろくなかった。
最初から最後までよくわからない感じだったが、とくに最後がわからない。
レイ・ブラッドベリを読むのは初めてだが、しばらく読まないだろう。
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