ダブログ宣言!

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☆推理小説リスト

2006年07月31日 00時40分15秒 | 文学
鯨統一郎の「ミステリアス学園」を読んだあとに、いろいろと調べたりして読みたくなった推理小説のリスト。

泡坂妻夫「生者と死者」(新潮文庫) 袋とじ状態で短編、開いたら長編。でも絶版
西村京太郎「殺しの双曲線」(講談社文庫) 双子だから
赤川次郎「幽霊列車」(文春文庫) あっと驚くらしいから
カー「三つの棺」(早川文庫) 密室講義に興味がある
東野圭吾「名探偵の掟」(講談社文庫) 「ミステリアス学園」と似た感じだから

あと、「キャラ萌え」で有名らしい有栖川有栖の火村サイド。有栖川有栖には火村サイドと江神サイドがあるらしい。しかし、知らないひとには何のことだかさっぱりわからない言葉が横行しているなあ。
最近知った言葉に、「ツンデレ」と「メンヘラー」がある。
「ツンデレ」はウィキペディアに載っていたからすぐにわかったが、「メンヘラー」は項目がなかったのでなかなかわからなかった。一応探し出したのはここ

井上靖の「蒼き狼」を読んでいる。
鉄木真(テムジン)が主人公。鈴木真(スズキマコト)ではない。
大岡昇平との「蒼き狼論争」が気になって。

トラックバックは(もちろんコメントも)どんどんやって欲しいと思っているのだけれど、最近リンク先に行けないことが多い。どこかが制限をかけているのだろうか。困ったものだ。
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☆鯨統一郎「ミステリアス学園」で本格ミステリの勉強

2006年07月30日 12時48分29秒 | 文学
ミステリアス学園表紙に惹かれて鯨統一郎の「本格推理小説 ミステリアス学園」を買って読んだ。
ミステリはほとんど読まないしあまり興味もないけれど、最近は歴史には興味がある。この本ではミステリの歴史について学べる。
筒井康隆の「文学部唯野教授」風に小説の中に講義が入っている。
連作短編小説集で、大江健三郎の「「雨の木」を聴く女たち」と同じ方式で書かれている。「「雨の木」を聴く女たち」と同じ、と書いてもたぶんネタバレにはならないだろう。
最後は筒井康隆の「残像に口紅を」のような終わり方。
こういう終わり方をするとなんとなく、読んで損した気分になってしまうのは僕だけだろうか。
でも読んでいる間は確かに愉しかった。
物語としての興味は第二話までで終わり、あとはミステリの歴史に対する興味で読み続けたと思う。
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☆司馬遼太郎「燃えよ剣」感想

2006年07月29日 23時15分23秒 | 文学
燃えよ剣図書館で借りていた司馬遼太郎の「燃えよ剣」(文藝春秋)を読み終わった。
この本は第3刷だったけれど、誤植が多かった。少なくとも5ヶ所はあったと思う。こんなことは珍しい。気になる人は新潮文庫版で読んだほうがいいと思う。

鳥羽伏見の戦い以降はなんだかあまり興味がなくなって、いい加減に読んでしまった。
土方歳三が北海道に行って、榎本武揚といっしょに函館政府として官軍と戦ったことを知らなかった。
だいたい函館に政府が一時期できていたことも知らなかった。日本史がこんなに記憶に残っていないのは問題ではないだろうか。
まあ、生物の知識も理科の実験の方法も全く憶えていないので、問題ないのかもしれない。
一応は勉強してたのになあ。
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☆内田樹「子どもは判ってくれない」感想

2006年07月29日 12時46分10秒 | 文学
子どもは判ってくれない古本屋にはたまにとんでもなく新しい本が置いてあることがある。
内田樹の「子どもは判ってくれない」(文春文庫)も古本屋で買ったのだが、この本は先月の新刊だ。読んだのかなあ、と思うくらい綺麗だ。読んだらすぐに売る人がいるんだろうか。それとも買って帰ったら家族が同じ本を買っていたのだろうか。どうなっているのだろう。
その辺のところを「ブックオフのことなら何でも知ってる清水國明」に一度おうかがいしてみたいものだと思う。

僕は1974年生まれで現在三十代前半だけれど、これまで日本の思想家では、
小林秀雄(1902年~1983年)
吉本隆明(1924年~)
江藤淳(1932年~1999年)
岸田秀(1933年~)
竹田青嗣(1947年~)
加藤典洋(1948年~)
などを読んできた。そしていまは
内田樹(1950年~)
をたまに読んでいる。
いまだに同世代の日本の思想家の本を読んだことがない。
そういう人がいるとして、どんなものを書くのかも、読んでどんな気持ちになるのかもよく判らない。
内田樹の「子どもは判ってくれない」は前半とってもおもしろかったが(とくに「呪いのコミュニケーション」)、最後の章の政治問題について書いてあるところを読みながら、そういえば政治問題について友達と語ること、語ったことってないなあ、と思った。
それに政治的な意見を言えって言われても何も浮かばないなあ。だいたい知らないし。と思った。アメリカや自衛隊について何か言えって言われても、何も出てこないし、その情熱もない。
これが世代的なものか僕の個人的なものかよく判らないし、もしかしたらいつも政治問題について語り合っている僕と同世代の人間もいるのかもしれないけれど、うまく想像できない。
こういうのは年をとったら自然と語り始めるものなんだろうか。よく判らないなあ。
安保闘争を経験していないからだろうか。そうかもしれない。

同世代の思想家が登場したらその辺をどう語るのか、どうも語らないのか、すごく興味がある。
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☆「となりのトトロ」を久しぶりに見る

2006年07月29日 00時41分20秒 | 映画
となりのトトロテレビで宮崎駿監督の「となりのトトロ」がやっていたのでひさしぶりに見る。
「魔女の宅急便」は大好きでだいたいの場面を憶えているのだが、「となりのトトロ」はあまり好きではなく、むかし(二十年近く前か?)通して一度くらい見ただけだと思う。
ほとんど憶えていなかった。
そしておもしろかった。
宮崎駿はこのころからすでに、しきりと挨拶をする習慣を映画の中に描いていたんだなあ。「千と千尋の神隠し」で初めて気がつき説教臭いなあ、と思ったけれど。
トトロはかわいいが、のちにカオナシとなったのではなかろうか。
少女に対する愛情は並ではない。
少女との出会いが雨のシーンであるところも同じだ。(カオナシって雨に打たれてなかったっけ? ちがったかなあ。)

映画「ゲド戦記」はどうなのかなあ。
あまり評判がよろしくないけれど。この間、新聞にも結構な酷評が載っていた。
上映前に新聞で酷評されるなんてことあるんだろうか。
朝日新聞だからかなあ。読売新聞ではそんなことはないだろう。
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☆歴史小説に一本化

2006年07月28日 11時20分25秒 | 文学
読む範囲を広げすぎだ、と妻に諭される。このままいくと全部中途半端に終わる、と。
うーん、たしかにその通り。
別に僕の読書計画が中途半端に終わったところで誰かが迷惑をこうむるわけでもないが、確かにその通り。
だんだん読みたいものが増えていってしまう傾向にあるのはどうしようもない。
こういう悩みのある読書家の人は結構いるだろうなあ。
とりあえず「赤毛のアン」読破計画は凍結することに決める。ごめんなさい、マリラ。
みんな、ごめん。
いつか必ずゴールデンゴールズのように復活します。

これからは歴史小説のみとするつもりだが(今日のところは)、この歴史小説の範囲が広がりつつある。困ったものだ。
それにしても歴史小説は愉しい。
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☆森鴎外「歴史其儘と歴史離れ」

2006年07月27日 22時51分49秒 | 文学
森鴎外全集〈14〉「歴史其儘と歴史離れ」が読んでみたくなったので、ずっと前に買っていまだに読んでいないちくま文庫の「森鴎外全集」の第14巻を引っ張りだして読んでみた。ついでに、
「鴎外漁史とは誰ぞ」
「Resignationの説」
「夏目漱石論」
「サフラン」
も読んでみた。
「鴎外漁史とは誰ぞ」を読むと、鴎外が自分は四つほどしか小説を書いていないと言っていたので、ありゃりゃと思い年譜を見てみる。このエッセイが書かれた明治33年は鴎外は38歳なのだけれど、確かにまだ小説はあまり発表していない。鴎外が本格的に小説を発表し始めるのは雑誌「スバル」創刊後で、それは明治42年、鴎外47歳の時らしい。代表作はほとんどすべてこれ以降に書かれている。
全然知らなかったなあ。
鴎外ってわりと遅くから書き始めたんだなあ。印象が違った。
「舞姫」(明治23年、鴎外28歳)の印象で、そのまま書き続けてたんだろうと思っていたけれど違った。何年も空白期間がある。
しかし「鴎外漁史とは誰ぞ」って訊かれても、そりゃあんたのことでしょ、としか言えないが。
こんなに何も発表してないのに”漁史”とはおかしい。というところから始まります。
鴎外のことを漁史、荷風のことを散人と呼ぶのは文学史的に決まっているのだろうか。鴎外漁史、荷風散人以外に漁史や散人が使われるのを聞いたことがない。というよりも江藤淳以外に鴎外漁史や荷風散人という呼称を使っているのを見たことがないのであるが。江藤淳は偉大だなあ。
「Resignationの説」(明治42年、鴎外47歳)は流行とかそういうことあるけど、自分とは関係ないです。ひねくれて言っているわけじゃないです。というもの。
鴎外って結構偏屈な感じだなあ。なんか好きになりそう。
で、「歴史其儘と歴史離れ」(大正4年、鴎外53歳)は同じ月に発表された「山椒大夫」を自分で解説しているものです。「栗山大膳」(大正3年、鴎外52歳)を書いたときは素材をいじりたくなかったが、今回はいじった。しかしいじり方が足りなかった。
ただそれだけのことでした。
もっとなんかいろいろと書いてるのかと思ったが違った。歴史小説について何らかのヒントになるかと思って読んだのだけれど。
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☆司馬文学の脂身

2006年07月27日 03時09分23秒 | 文学
よく知らなかったけれど、司馬遼太郎の小説の登場人物はすべてが実在の人物ではないらしい。
「竜馬がゆく」のお田鶴さまも寝待の藤兵衛も「燃えよ剣」のお雪や七里研之助も架空の人物みたいだ。
全員実在の人物かと思ってたが、七里研之助あたりから、いや、竜馬の旅にはいつもついて来る寝待の藤兵衛あたりから、おかしいとは思っていた。しかしやっぱりそうなのかあ。ちょっと残念な気もする。
山田風太郎の明治ものとあまり変わらないんだなあ。
司馬遼太郎は正統で山田風太郎は異端であると、なんとなく思っていたけれど。

竜馬にしても歳三にしても恋愛対象が架空の人物であるというのはどういうことだろう。なんだか変な感じだ。
恋に恋して、というか、MajiでKoiする5秒前というか(広末涼子です)、なんだかそんなことを思わせる。
竜馬と歳三はぜんぜん違う人物なのになんとなく共通点があると思われるのはこんなところからなんだろう。司馬遼太郎にとって、こういう話が気持ちいい、という型があるんだろうなあ。
「燃えよ剣」の歳三はいまお雪と夫婦ごっこをして、これから(たぶん)別れるところ。しかし、ほんとうは居もしない人物とお別れするというのはなんだか不思議とセンチメンタルな、余りに文学的なものを感じさせる。
大林宣彦の「さびしんぼう」みたいな感じ。
ひどく心を閉ざしている感じもする。

司馬文学の架空の存在というのはなかなか研究の題材として興味深いテーマだと思う。
牛肉でいうと脂身(あぶらみ)みたいなものか。
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☆「翔ぶが如く」背表紙問題に迫る

2006年07月26日 00時59分26秒 | 文学
よく世間では「大事な大事なアタックチャンス!」と言うけれど、ほんとうはアタックチャンス後の問題が大事だ。そっちのほうが大事だ。カドをとる戦いよりも大事。
「燃えよ剣」は鳥羽伏見の戦いのところ。

本屋で司馬遼太郎の「翔ぶが如く(二)」を買った。
実を言うと週末に古本屋で「翔ぶが如く」の二巻を除く一巻から十巻までを見つけ、状態がいいものだったので購入したのだ。
で、抜けていた二巻を買ったので全十巻が揃った。
初めて司馬遼太郎の本を金を出して買った。

それはいいのだが、文春文庫の「翔ぶが如く」の背表紙はいろいろと異なる種類のものがあって困る。
古本屋で買った二巻以外の文庫の背表紙はすべて同じで、

翔ぶが如く新装版(一) 司馬遼太郎

というふうになっているのだが、本屋で見ると、

翔ぶが如く(一) 司馬遼太郎

と「新装版」が入っていないものがある。しかもこの「新装版」なしのものもタイトルが狭い範囲で書かれているものと、広い範囲で書かれているものがある。
こんなものは内容はいっしょなのだからどれでもいいと言ってしまえばそれまでだけれど、ほかの九冊が揃っているのに一冊だけ違うのは気になる。男らしくないが気になる。
しかし僕が見た本屋は「新装版」なしのものばかりで、他の巻は「新装版」ありのものもあったりするが二巻だけは「新装版」なしのものしかない。
何軒か店を廻ってやっと「新装版」ありのものを購入した。

いろいろ見て判ったのだが、文庫の字を大きくしていまの表紙の新装版にしたときに「新装版」をつけた背表紙のものが出回り、そのあと「新装版」の文字を外したタイトルが狭い範囲で書かれたもの(もともと「新装版」と書かれていた部分が空白のまま)が次に出回り、2006年になってからタイトルを広い範囲で書いて空白の部分をなくした最新のものが出回りつつあるのだと思う。
ちなみに「竜馬がゆく」と「坂の上の雲」はどこの店も全巻、「新装版」なしタイトル広い範囲バージョンになっている。これはもともと「新装版」ありが出回ったことがあったのかどうか確認が出来ない。しかし見たことがある気がする。
「竜馬がゆく」と「坂の上の雲」に比べ、「翔ぶが如く」があまり売れていない証拠だと思った。回転が遅い。
やっぱり全巻の背表紙は揃えたい。
現在背表紙が揃っていないのには他に「世に棲む日日」がある。
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☆江藤淳「荷風散策」感想

2006年07月25日 22時11分51秒 | 文学
荷風散策―紅茶のあとさき江藤淳の「荷風散策―紅茶のあとさき」を読み終わった。
通勤のときに読んでいただけなのでとんでもなく時間がかかった。
永井荷風の日記「断腸亭日乗」を読みながら、その当時荷風が書いていた小説もいっしょに読んでいくという感じの評論でした。
読むのに時間をかけすぎてしまったので、内容をもうほとんど憶えていないのだが、印象に残っているのは以下のようなところ。
「自分ばかりを愛してゐると思つてゐた君江の如きは、事もあらうに淫卑な安芸者と醜悪な老爺と、三人互に嬉戯して慚(はじ)る処を知らない。」(37ページ)
これは小説「つゆのあとさき」からの引用だけれど、「断腸亭日乗」を見ると荷風自身もそのような経験があったのではないかと思わせる、らしい。
あと、どこかの女は「閨中秘技絶妙」とか、「サツク」(つまり避妊具)の値段とか、そんなことがたくさん出てくるらしい。
「断腸亭日乗」にわりと興味を持つ。
こういう昔のリアルな性生活のことはなかなか判らない。知らない。調べようがない。
ジェームス三木の手帖に肉体関係を持った女性のランクがA、B、C等で表わされていたことがあって、結構批判されたけれど、こう考えてくるとあの手帖も文学的歴史的価値は「断腸亭日乗」並に高いものなのかもしれない。
いまからでも出版すべき、かもしれない。

しかし「断腸亭日乗」の岩波文庫版は上下巻なんだけれど全文ではない。どうも全文でないものを読む気はしないんだなあ。
「断腸亭日乗」だけでなく、永井荷風の小説もあんまり文庫では読めない。
ちくま文庫にでもならないかなあ、と思う。
永井荷風は1959年に死んでいるのでもう少しで死後五十年になる。そうなったら色々な出版社が文庫化するのだろうか。
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