ダブログ宣言!

ひとりでするのがブログなら、
ふたりでするのがダブログ。

近藤誠『近藤誠の家庭の医学』

2016年03月30日 23時16分13秒 | 文学
近藤誠『近藤誠の家庭の医学』(求龍堂)を図書館で借りて読む。
いつものお話。
そしていつもの結論。抗がん剤は受けないほうが良い。
とくに何か新しいことを語っている本ではない。

あとがきで、自分の父親が開業医で、なんでもよく薬を飲まされ、親子で近代医学を信じていたことが語られる。はじめて聞く話だった。
コメント

AKB48の「365日の紙飛行機」

2016年03月30日 21時31分48秒 | 音楽

幼稚園で聴いてきて、娘が最近よく朝ドラの主題歌、AKB48の「365日の紙飛行機」を歌うのでCDを借りてきた。
この歌はわりと良い曲だと思っていたが、三歳が歌うには難しいかなと思う。
きちんと聴くと、
〽︎どう飛んだか どこを飛んだのか
のあたりは良い歌詞だと思うが、
〽︎ああ 楽しくやろう
のあたりは疲れたのかなと思う。歌う人が多いからか、歌が長いのだと思う。
ついでに前好きだった「恋するフォーチュンクッキー」も借りてきた。
AKB48のCDは抱き合わせの曲によって、同じ曲でもタイプAとかタイプBとかタイプCとかタイプDとか何種類かのCDがある。
目についたものを借りる。
ちなみに「365日の紙飛行機」の入っている「唇にBe My Baby」はタイプAを、「恋するフォーチュンクッキー」はタイプBを借りた。
DVDもついていたので一応映像も見た。
コメント

司馬遼太郎没後20年番組、折口信夫対話集のことなど

2016年03月29日 23時40分47秒 | 文学
この前NHKでやっていたのを録画していた、司馬遼太郎の没後20年の特別番組(「TVシンポジウム「司馬遼太郎からの問いかけ~没後20年 菜の花忌シンポジウム~」」)を見ていたら、とってもおもしろかった。
パネリストは磯田道史と東出昌大と片山杜秀と辻原登だった。
東出昌大は司馬遼太郎のこととなると登場する。役割としては若者代表のイケメンで誠実な感じの俳優。
片山杜秀はマッドサイエンティストで、辻原登は間の抜けた小説家、といった役割だった。
ほんとうはここにいるはずの関川夏央は客席にいて、なんども映されていた。なんで関川夏央がパネリストでないかというと、磯田道史とキャラがかぶるからだと思う。話し方が似ている。
磯田道史は「100分de名著」の司馬遼太郎スペシャルにも出ていて、そのときはあまり注目していなかったが、今回はとても興味を惹かれた。
『坂の上の雲』の秋山兄弟のどっちかが日露戦争が終わってからちょっと変な宗教的な考えにはまってしまって、でもそれを司馬は書いていない。司馬遼太郎の書かなかったことについても考える時期にきている、というような話をしていて「すごい」と感心した。
遠藤周作の没後20年を振り返っている身としては、司馬遼太郎の没後20年は不倶戴天の敵であるわけだが、やはり司馬遼太郎に興味を惹かれる。どちらも読んだことのない人にはやはり司馬を薦めてしまうだろう。

『折口信夫対話集』(講談社文芸文庫)を読んでいる。
「細雪をめぐって」(谷崎潤一郎、川端康成)では、またまた『細雪』が読みたくなった。谷崎が固有名詞が出なくて「あなたのナニを拝見いたしました」とか「ナニは完成されたんですか」とか言っていて、それに川端も折口もきちんと答えている。日常では確かにあることだが、文章で読むと不思議だ。
「日本詩歌の諸問題」では当時(昭和二十四年)すでに詩が駄目になったと言われていた状況がわかる。脚韻は日本の伝統にないから、十年か二十年かがんばって定着させようというような発言もあり、そこまでして西洋の詩の影響を受けなければならない気持ちがもうわからない。
「古典をめぐりて」(小林秀雄)はこの前読んだので二度目(もっと前にも読んではいるが)。ここで小林は平安時代と現代では人間の評価の仕方が変わっていることを指摘する。枕草子について、
《清少納言の文章の面白さは僕らにもすぐわかるが、行成の字の美しさはもうわれわれからは遠い処にある。若し行成という人の全人格は字で表現されているという事であれば、もうそれはわれわれには大変難しい問題になります。》(114頁)
また、
《やっぱり男が偉かったのでしょうが、あの頃の男の偉さということが今は分からなくなって了ったのじゃないかと思います。女の偉さというものは、今の人から見ても分かりやすいというに過ぎないのではないかと思います。》(125頁)
とも語る。このことについてよく考えてみる必要がある。
「燈下清談」(小林秀雄)では堀辰雄について語られる。このころ(昭和二十五年)堀辰雄は一度危篤になり、回復したらしい。遠藤周作の師匠である堀辰雄について少し読んでみるつもり。
コメント

遠藤周作・佐藤泰正『人生の同伴者』

2016年03月28日 23時52分22秒 | 文学
遠藤周作・佐藤泰正『人生の同伴者』(講談社文芸文庫)を読んだ。
遠藤周作の作品について遠藤周作自身が佐藤泰正に語るというもの。

佐藤泰正が夏目漱石、芥川龍之介、堀辰雄の系譜に遠藤周作を置いていて、夏目漱石から遠藤周作が僕のなかでは全くつながらなくて戸惑った。遠藤周作はそんなにすごい作家なのだろうか。そして堀辰雄もそんなにすごい作家なのだろうか。
芥川龍之介の『歯車』を僕は読んだことがないのだが、興味を惹かれた。
《しかし、たとえばメリメを読んでも、最後は神の問題が出てくる。アナトール・フランスを読んでも、最後は神の問題が出てくる。そこから自分は弾き出される。弾き出されておれの場所はどこかというと、もう自分はいつかこの日本的な精神風土というもののなかで、どこにも居場所のない、一種の根無し草になってしまった。》(47頁)
佐藤の発言だが、そのような思いを芥川が持っていたというのなら読んでみたいと思う。芥川龍之介は高校生のとき以来まともに読んでいない。
堀辰雄は『菜穂子』を読む予定。こちらは遠藤の発言。
《極端な言い方をするなら、彼が下敷きにした『テレーズ・デスケルー』と『菜穂子』とを比較することで、いわゆるキリスト教の本格的な作家と、キリスト教でない日本人の作家が同じテーマを取り上げると、このようにうすっぺらに変容もしくは屈折するんだということを知ることができればよかった。》(94頁)

遠藤作品の戸田について、
《自分のなかでピンチになる、追い込んでいくような、それは偽悪でも疑いでも負の部分でもいいですが、そういうような危険な存在にはどうしてか戸田とつけちゃいますね。》(165頁)
と語っていて以降気をつけようと思う。

遠藤周作ではなにが代表作かがよくわかる本だった。
『侍』と『死海のほとり』と『沈黙』は今後読む予定。『スキャンダル』は手に入りにくいし読む必要もないかもしれない。遠藤周作の描く〈悪〉というものにあまり興味を抱けない。私小説風に書いたという導入部には興味があるが、それだけ。
コメント

小林秀雄『直観を磨くもの 小林秀雄対話集』

2016年03月27日 21時17分27秒 | 文学
引き続き、
「人間の進歩について」(湯川秀樹)
「文学と人生」(三好達治)
「古典をめぐりて」(折口信夫)
「芝居問答」(福田恆存)
「美術を語る」(梅原龍三郎)
「文学の四十年」(大岡昇平)
「芸について」(永井龍男)
「音楽談義」(五味康祐)
「交友対談」(今日出海)
を読み、小林秀雄『直観を磨くもの 小林秀雄対話集』(新潮文庫)読了。

湯川秀樹との長い対談は、大半何を言っているのかよくわからなくて退屈するが、途中小林秀雄が作家の生活と作品について語るところがあり興味深く読む。
《両方は呑気に考えるほど連続しているものじゃない。よく考えてみると、溝があって、その人の生活をどんなに調べても表現に達することはできない。何か飛び越しています。》(93頁)
また、「モオツァルト」について、
《ぼくがあれでいちばん書きたかったことは自由という問題だった。》(96頁)
と語る。坂口安吾との対談「伝統と反逆」でも似たようなことを語っていた。「モオツァルト」を次に読むときには「自由」がテーマであることを気にすること。

梅原龍三郎との対談は案外おもしろかった。
これは梅原の発言だが、
《何か自然という対象があると、それが一つのブレーキになってね、思い切ったこともできるし、そう踏み外すこともないんじゃないかと思う。》
絵の話だが、小説のことを思った。遠藤周作の『深い河』よりも『イエスの生涯』のほうがおもしろいのは、そこに歴史の事実(この場合は福音書という既存の書物)があることでブレーキがかかっているからだと思う。そういうものがあるほうが良いのだと思う。遠藤周作の場合。

永井龍男との対談では、骨董について、
《そう、向うから語りかけてくるんですよ。壷がそう言うんですよ。こっちから、私が意味を付けるわけではない。向うから何か教えてくれるんだよ。》(379頁)
こういう感覚が私にいちばん欠けているものだと思いながら読む。

これで小林秀雄の対談はだいぶ読んだ。
コメント

遠藤周作『深い河』

2016年03月26日 21時55分13秒 | 文学
佐藤優が『聖書を読む』で、ドストエフスキーはほんとうにキリスト教徒なんだろうかと語っているのを読んで衝撃を受けた。
これまで誰からも言われなかった話を聞くと印象に残る。
小林秀雄も大江健三郎もミハイル・バフチンもドストエフスキーとキリスト教の関係には疑問を抱かなかった。
なので、他にも佐藤優がこのことについて語っていないか知りたくて調べてみたが、あんまり語っていない。そもそも文学について語っていない。政治とか東京拘置所について語ったものが多いようだ(読んでいないので知らない)。
『修羅場の極意』(中公新書ラクレ)という本があり、このなかでドストエフスキーについて語っていたので本屋で立ち読みする。
ドストエフスキーが皇帝暗殺の容疑で死刑になり恩赦によって刑を免れた(という国家による芝居)ことにより、そのあと国家に歯向かうのが怖くなり、信じてもいないキリストを信じたふりをしたという考えらしい。
なかで本当に信じていたにしては過剰に神の話をしすぎるというような話があり、であれば遠藤周作はどうなんだ! と私などは思った。佐藤自身もよく神の話をしていると思う。が、ひょっとするとロシア正教なのに、ということだったのかもしれない。立ち読みなので私の思い違いかもしれない。日本のカトリックは神について語り過ぎても問題ないのかもしれない。
で、そのようにドストエフスキーが自分を偽って国家に従順な姿を見せるためにキリスト教徒を演じていたのだとしたら、すごいことだと思う。ドストエフスキーの影響をもろに受けた日本の戦後文学は何だったんだろうと思う。興味深い。

遠藤周作の『深い河(ディープ・リバー)』(講談社文庫)を読んだ。
昔宇多田ヒカルのアルバム『Deep River』が出たときに、彼女が遠藤周作のこの本の影響でタイトルをつけたと知り、興味もって読んで興味を失った記憶がある。
今回もあんまりおもしろいところはなかった。
読みやすくはあるが、あんまり何か残るようなものはない。誰が出てきて何を語っても、後ろにいる遠藤周作が見えすぎる気がする。
最後に暴動が起こって誰かが死ぬ、という話は大江健三郎にもよくあるが、これはふとドリフの「8時だョ!全員集合」の影響かなあと思った。コントが終わるとセットが崩れて音楽が鳴り撤収、そして山口百恵登場、みたいな感じを思い出した。大江健三郎や遠藤周作はドリフのファンだったのだろうか。もちろん、本気で信じているわけではない。
私にはおもしろさの分からぬ本です。
コメント

安岡章太郎『文士の友情 吉行淳之介の事など』

2016年03月23日 00時49分58秒 | 文学
安岡章太郎『文士の友情 吉行淳之介の事など』(新潮文庫)読了。
単行本を図書館で借りて読んだことがあるのだが、文庫を購入して読んだ。小林秀雄との対談「人間と文学」が載っているのと、遠藤周作、井上洋治との座談会「僕たちの信仰」が載っているのが理由。
吉行淳之介については、この本の単行本を読んで興味を持ったのだが、実際に吉行の本を読んでもあまり心を動かされることはなかったので今回はそんなに感心もしなかった。

小林秀雄と安岡章太郎の対談「人間と文学」では、文士の器用ということについて語られる。
概念を上手に語る人は増えたが、職人のように手仕事として作品を作る人は少なくなった、とそのようなことを小林秀雄が語る。
小林秀雄が誰のことを想定して、このように最近の作家は駄目だみたいなことを言っているのか気になる。安岡章太郎のことは『流離譚』を褒めているので買っているのだろう。具体例がないのでよくわからないことではある。大江健三郎や丸谷才一はこのころ何を発表していたろう、と考える。
また、安岡章太郎の『流離譚』が読みたくなる。(何度もこの小説について書いている気がするが、なかなか読むに至らない。)

遠藤周作と井上洋治と安岡章太郎の座談会「僕たちの信仰」では遠藤周作の『深い河』が取り上げられる。もちろん褒められる。
いま読んでいるが、どうしても心の底からおもしろいという気持ちでは読めない。ある程度限定つきで、例えば「日本におけるキリスト教文学のなかでは」とか「遠藤周作の現代小説のなかでは」とか「なにかに目をつむれば比較的」とか、そういう言葉なしでおもしろい、とは言えない。
人物の造形に無理を感じることが多い。
歴史小説でなければ、遠藤周作は読めないのかもしれない。それは例えて言うと、アニメで「サザエさん」は見れるが、実写ドラマになった途端に堪えられないものになってしまうのに似ている。
《だから、この中で大津には、イエスの生涯を投影した。イエスの生涯になぞらえて挫折と失敗を重ねて、しかも最後に、あなたは無力だと女性の美津子にいわれる。無力とは何かという問題、そこのところを書きたいと思ったんだけれども……。》(284頁)
と遠藤は『深い河』について語る。
コメント

遠藤周作『キリストの誕生』

2016年03月21日 00時13分02秒 | 文学
遠藤周作『キリストの誕生』(新潮文庫)を読んだ。
多く描かれているからだろうが、ポーロ(パウロ)に興味を持った。
佐藤優と中村うさぎの本ではパウロはあまり好意的に描かれていなかったが、僕には気になる存在だった。俺だけが知っているんだ、と思って懸命に走り抜く人って大切な存在です。そういうひとがいるから組織は維持できる。
非常に苦しんだんだろうなと思い、パウロの書簡を読んでみたくなった。使徒行伝などよりも興味を持った。
《まずポーロの心には律法にたいする絶望感があった。律法を守ることは自力で救われることの自信に他ならぬ。だが彼は律法の限界と、律法にとらわれるゆえに、かえって罪の泥沼に陥ちていく人間の業を徹底的に知っていた。人間が自力では救われぬという絶望感も持っていた。》(164頁)
遠藤周作は意図して、だろうが親鸞のようにポーロを描くので興味を惹かれる。

また、
《人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向き合うならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。》(250頁)
このように書く遠藤周作に興味がある。
『イエスの生涯』と『キリストの誕生』で、イエスの物語のあらすじはだいたい分かったが、僕にとってはまともにどうこう考えられるようなものではない。人物名もだれがヨハネだったか、ヨセフだったか、ヤコブだったか、すぐに忘れてしまいそうだ。同じ名前の人物が多い。
ただ、そのような物語を信じることが、信じざるを得ないことが、どういうことをひとの気持ちにもたらすものなのかに非常に興味がある。それは特にキリスト教的な神である必要はなくて、いわゆる超越を感じるということに興味を持っている。

シリーズ”遠藤周作でたどる聖書”のこれまで。
プロローグ「遠藤周作でたどる聖書
第一回「橋爪大三郎・ 大澤真幸『ふしぎなキリスト教』
間奏「遠藤周作は没後20年なのにみんな沈黙ですか。
第二回「遠藤周作『イエスの生涯』
第三回「佐藤優・中村うさぎ『聖書を語る』
第四回「コルム・トビーン『マリアが語り遺したこと』
第五回「佐藤優・中村うさぎ『聖書を読む』
第六回「若松英輔『生きる哲学』

いつのまにか今回は第七回だったのです。
このシリーズのゴールは山本七平『聖書の常識』なのだが、なかなか辿り着きそうにない。そもそも遠藤周作をまだ二冊しか読んでいない。
コメント

若松英輔『生きる哲学』

2016年03月18日 22時42分02秒 | 文学
図書館で借りて、若松英輔『生きる哲学』(文春新書)を読む。
さまざまな人の言葉が取り上げられる。
もっとも興味を持ったのは須賀敦子で、前々から興味は持っているのだが読んでいない。
イタリア文学の翻訳家という印象で、イタリア版澁澤龍彦なんだろうな、それともイタリア版竹内好か、どっちにしてもな、と思い躊躇するのだが、
《没後十六年を経てもなお、須賀はエッセイストだったとされているが、彼女は、「小説ぶった」ものでなければ小説だと認めない、とする世の中の動きを逆手にとって、読者を創造的に「欺く」ように、次々と彼女が信じる「小説」を書いていった》(24頁)
と書かれると非常に興味を惹かれる。小説ぶらない小説には非常に興味がある。司馬遼太郎とか。
遠藤周作のあとは須賀敦子にしようかと考える。
和辻哲郎の『古寺巡礼』もおもしろそうだと思った。

舟越保武は彫刻家で、「ああ、あのひとか」と思ったが違っていた。僕が思い浮かんだのは、大江健三郎の本の表紙とか、それこそ須賀敦子とか、天童荒太とかの本の表紙に使われるあの彫刻家かと思ったのだが、あれは舟越桂だった。舟越保武はその父らしい。
《彫刻家である彼にとってイエスの姿を彫り得るか否かは、ほとんど自らの信仰の根源を問い質す営みだったと考えてよい。それは、書き手がイエス伝を書くことに似ている。》(42頁)
と書く若松は自分のことを語っているのだろう。

霊性について多く語る、というかずっと霊性について語っていたように思う。
《霊性とは、超越を希求する人間の態度を指す。》(181頁)
《このときフランクルもまた、石牟礼と同じくコトバの通路になっている。》(213頁)
自分自身で考えて自分の言葉を綴るという感覚ではなく、多くの無名の人たちの悲しみを語るために「コトバの通路」になるという感覚に惹かれる。

最後に、《必死に書くとは、これが最後の一文だと思って書くことにほかならない》(265頁)とあって、だからちょっと読んでいて疲れるんだなと思った。
コメント

佐藤優・中村うさぎ『聖書を読む』

2016年03月16日 00時10分08秒 | 文学
図書館で借りて佐藤優・中村うさぎ『聖書を読む』(文藝春秋)を読む。
前作の『聖書を語る』よりもきちんと聖書について語っている。それだけに読むのが少ししんどい。
「創世記を読む」「使徒言行録を読む」「ヨハネの黙示録を読む」の三つに分かれていて、その間に岡崎京子の漫画『ヘルタースケルター』と村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読む。

「創世記を読む」のなかで佐藤優がドストエフスキーとトルストイについて語るところがあり、とても興味深く読んだ。
《ドストエフスキーは神様を信じてないと思うんですよ。というのは、信仰の話とか、それが過剰だから。僕は、あの人は革命家だと思う。若い頃から秘めていた皇帝暗殺計画、それが二重、三重、四重に彩色をほどこされて作品のなかにあると思う。》(210頁)
《いちばんの問題は主人公に共感できないこと。というよりは、主人公が誰かわからないから、読者は主人公に同化できないんですね。どうしてそうなるかといえば、彼が作品に込めた狙いは、革命と大混乱だからですよ。結局、神様を全く信じてない人だと思う、ドストエフスキーという人は。》
《トルストイはもっと単純で、素朴に神様を信じているけれども、その神様はすごく世俗化された神様で、神様の意に沿って清い心を持ち、精進すれば、理想的な世の中がやってきますよと。》
ドストエフスキーには狂信者のイメージがあるので、神様を信じていないと言われて驚いた。
固定されたイメージで他人を見るのはよくない。イメージを確認するために読むということに陥る。
彼が作品に込めたのが「革命と大混乱」という視点が新しい。だれもそんなふうに語ってこなかった。ただ、太宰治は『斜陽』で「恋と革命」について語らなかったかしら。

「使徒言行録を読む」と「ヨハネの黙示録を読む」には惹かれるところはなかった。「使徒言行録」はまだしも、「ヨハネの黙示録」のおもしろみがまったくわからない。荒唐無稽というほかない。
しかし聖書というのはそんなに二千年もかけて読むべき本なのだろうか。私にはいまだに理解できない。

「『ヘルタースケルター』を読む」で中村うさぎが自身の整形について語るのがおもしろかった。
整形することによって、自分の顔の美醜に責任がなくなった。美しいと言われてもそうでないと言われてもそれは施術した医者の責任だ、それで楽になった、という話だった。

「『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読む」では佐藤優の読みに感心した。ここまでこの小説をきちんと論じたものを私は知らない。佐藤優の小説の読み方をもっと知りたいと思う。
中村うさぎもきちんと読んでいる。しかし佐藤優のほうが興味深い。
コメント