ダブログ宣言!

ひとりでするのがブログなら、
ふたりでするのがダブログ。

☆池田清彦の「環境問題のウソ」をもう一回

2008年03月31日 22時37分53秒 | 文学
池田清彦の「環境問題のウソ」(ちくまプリマー新書)を取り上げたとき(ここ)に、よく意味を取りかねるコメントを書き込んでいただいた。(そういうつもりじゃないのに慇懃無礼な感じの文章になってしまうなあ。)
これはやはり池田清彦批判なのだろう。
僕はきちんと、というか、さっぱりこの本は読めてなくて、ページを急いでめくっただけだったのだが、興味を持って今度はちゃんと読んでみた。
僕は、批判をされていれば読まず、褒められていたら読む、というような素直な性格はしてないのです。(もちろん信頼できる人の勧めた本は読みますけど。)

きちんと読んでなかなかおもしろい本だったけれど、やはり数字の部分は読み飛ばしてしまった。環境問題というのはノストラダムスや2000年問題の側面があるのだと思った。世の中が悪くなるという思想にははまりやすい。
この著者の、必ずお金目当ての悪人を背後に見てしまうところがちょっとどうかと思った。
正義というのは麻薬だとあとがきにあったが、反正義も正義になってしまうので気をつけないといけないとも思った。
こういう種類の本はたまにならいいが、ずっと読み続けると世の中はすべて不正に満ちていて、官僚は悪人で、マスコミはバカで、政治家は間抜け、というふうに考えてしまう(僕はすぐなる)。で、そういう悪い所ばかりを探し求めてしまう。
いまちょっと、あまりそういう、世間の悪事を見つけることに興味がないので、池田清彦の本はやはりしばらくは読まないだろうな。
コメント

☆漱石とサイード

2008年03月30日 00時23分34秒 | テレビ
NHK-BShiで放送していた「今夜決定!?世界のダンディ30人」をほぼ最初から最後まで見てしまった。3時間。
くだらん番組を見てしまった。
奥田瑛二が司会で、高橋源一郎らがいろいろな分野のダンディなひとを決めていくという番組だったのだがついつい見てしまった。途中でやめておけばよかった。
無駄に過ごしたなあ。
最終的に決定した世界一のダンディは、エドワード・サイードだった。
少しだけサイードに興味が持てたことと、姜尚中の発言で夏目漱石の「こころ」のなかに真面目という話が出てくることを知ったのが、まあ救いだ。
「虞美人草」で真面目になれと語るということもNHKの番組で知ったし、NHKを見ていると漱石がわかる。
おそらく漱石は「真面目になれ」ということをずっと言い続けているのだろうと思う。いつか確認したい。
サイードについては、最近の大江健三郎の発言、エッセイ等をきちんと追いかけているわけではないのだけれど、たまたま新聞やNHKでみるとそこに必ず「友人のサイード」として登場していて気にはなっていた。(一時期の山口昌男のような感じ)
で、あんまり言いすぎるので嫌な感じがしてなんとなく避けていたのだが、今度本屋でぱらぱらめくってみよう。
Amazonの評価も見たが、評価が高すぎて当てにならない。
難しい本は評価が高くなる傾向にある。
最近で言うと、コーエン兄弟の映画「ノーカントリー」は評論家の評価は軒並み高い。おそらく難しい映画なんだろうなと思って、見るのを躊躇している。
コメント

☆養老孟司と池田清彦の新書

2008年03月29日 19時02分34秒 | 文学
養老孟司と池田清彦の対談「ほんとうの環境問題」(新潮社)に多少興味を持ったが買うほどではないので、この二人の著者の本を図書館で借りる。
バカの壁 (新潮新書)環境問題のウソ (ちくまプリマー新書)
養老孟司は「バカの壁」(新潮新書)を読んだ。知らない人の本を読むときはど真ん中の代表作を読むべきだと思っているので。
わりと難しい内容だと思ったけれど、なんでこの本があんなにたくさん売れたのかよくわからない。たぶんタイトルに惹かれたんだろう。
思いつくままに語った本だった。
養老孟司の本は、自分で買ってまで読もうとは思わないし、図書館で借りて読もうともあまり思わないが、どこかの待合室でたまたま読んだ雑誌に載っていたら読んでもいいかな。読んで嫌な気持ちになるような種類の本ではない。

池田清彦は「環境問題のウソ」(ちくまプリマー新書)を借りた。
この本は読めなかった。わりと本は読む方だが、あらゆる種類の本が読めるわけではない。
数字のたくさん書いてある本で、何かを証明しようとしている本はほんとうに読めない。車の走行距離とかパソコンの容量とか数字に関することにまったく興味がない。たぶん僕にはなにか欠陥があるのだ。それと証明なんかどうとでもできるのだろうと思っているので読めない。
たぶんきちんと読んだところで、「環境問題はウソなんだな」ということくらいしか僕にはわからないだろう。タイトルを読んだ以上のことは何もつかめない。
しかしまあ、環境問題はウソかもしれないな、くらいの気持ちは持っておいた方がよいように思う。
大学生になってひとり暮らしを始めたときに、みんながきちんとゴミを分別して捨てているかを厳しくチェックしていた近所のおばさんがいて、環境問題をあまりに真剣に考えすぎるとあのようになってしまうのだと思う。
正義のためには人を傷つけてもいい、という感覚にどうしても行ってしまう。

どちらも著者の本も僕にとっていま緊急に読まないといけないものではないかな。
コメント (1)

☆徒然ピークス

2008年03月29日 00時18分41秒 | 文学
朝日新聞の連載小説「徒然王子」(島田雅彦著)はいまだに毎朝読んでいる。
はっきり言うとつまらないのだけれど。(言っちゃった。言うとますますつまらなく感じそうであまり言いたくなかった。)
山林地主ムラカミの家のレイコって、村上春樹の「ノルウェイの森」のレイコさんなのかなあ。
ビールやオーディオ機器とかが出てきたように思うが、ムラカミ=村上春樹であるのかがまだはっきりしないんだなあ。
ギターを弾くとか、「そこはシワよ」と言うとか、もっと分かりやすい場面が出てくることを期待する。
くだらないと思い始めると読解力が一気に落ちて、たまに妻に確認するとまったく自分がこの小説を読めていないことが分かる。そして簡単なあらすじさえ誤解していることもあるのだが、いまは勝手にここは村上春樹批判につながるのだろうと期待して、それだけが楽しみで読んでいる。(わたしはもちろん村上春樹が好きなのですけれど、しかしそれとこれとは話が別です。党派性では読書は語れません。)
石原慎太郎を思わせる都知事が登場したり、モデル小説部分だけがこの小説の読みどころだ。

デヴィッド・リンチが監督したテレビドラマ「ツイン・ピークス」のパイロット版(つまり一番最初)を見た。
大学生のころに見たときに、最後の方でペンダントを埋めるシーンを見て「なんでペンダントを埋めているんだろう」と思ったことを今日強く思い出したのだが、そんなこともわからないようでは何も見れてないじゃんと情けなく思った。それでは最後まで見れるはずがない。
そのシーン以外で思い出したシーンは全くないのでまっさらな状態で見ていこうと思う。
コメント

☆雑感、メモ34

2008年03月28日 00時53分13秒 | 文学
革命か反抗か―カミュ=サルトル論争 (新潮文庫)「革命か反抗か カミュ=サルトル論争」(新潮文庫)は最後のフランシス・ジャンソンの批評の途中で興味を失い、読むのをやめる。
以下は途中まで読んだ感想。
夫婦喧嘩でも、親が子供を叱る場合でも同じように思うが、やったこと(言ったこと)に対する理論的で直球の反論よりも、そこに付随する相手の言い方だったり、ニュアンスだったり、言わなかったけれど相手がそれまでずっと思っていたことだったり、に言われたほうは傷つき蝕まれて元気がなくなるのではないかと思う。
サルトルがカミュに言う以下のようなことは僕だったらわりと傷つくことだ。たぶん多少は当たっていることだから。
・君の文章はいつも文飾が過ぎる。
・君はいつも原典に当たらない。
・わたしの本(「存在と無」)は難しくて読めないだろうし。
・で、難しくて読めなかったくせに、読めなかったのは読む価値がないからだって言うんだろうし。
くっそー、サルトルのくせにー! きーっ!

伊丹十三の映画「マルサの女2」で、益岡徹が「ぼくの学校では」と言って東大卒を無意識に自慢してしまい宮本信子に罵倒される場面があるが、高学歴だけではなく低学歴も、言われ続けると嫌になるなあ、ということをインターネットを見ていて思った。あと、病気、貧乏も。
「わたしは○○ですが」や「わたしの家は○○ですが」で始まる意見(○○には大卒、中卒、金持ち、子持ち、貧乏、病気、貴族などが入る)を聞いて、どうも身構えてしまうのは、「お前のみみっちいコンプレックスになんで付き合わなきゃいけないんだい。そんなことは家で済ませてから来い。少なくとも外に出すな。お尻はトイレで拭け。拭かないまでもズボンくらい履け。」と思うからだろう。
しかしそう言ってしまって即座に反省すると、このブログに書いてあることも検討すれば僕のみみっちいコンプレックスを現しているのかもしれんなあ、そうに違いない、と思う。

録画していたNHKの番組「ピアノの詩人ショパンのミステリー」を見た。
ピアノの音はたたいた瞬間から減衰する。ヴァイオリンのように広がらない。というところになるほどと思った。
散文には散文の制約、漫画には漫画の制約、映画には映画の制約がそれぞれあり、ピアノにもピアノの制約があるんだなあということに妙に感動した。
それと、ピアノ曲の楽譜にはどの指で弾くかを指定してあることも知った。(ショパンだけ?)
それぞれの指には強さの個性がありそれをショパンは考えたらしい。
知らない話はすべてが驚きだ。

プルースト「失われた時を求めて」6巻348ページまで。
・ゲルマント公爵夫人のサロンの場面が長すぎる。早くシャルリュス出て来い。
・ゲルマント公爵夫人が右と言ったら右。
彼女の趣味は気分次第であることがわかる。
コメント

☆カミュ=”「現代」編集長”論争

2008年03月26日 23時36分39秒 | 文学
ベルクソンの「時間と自由」が終わって、そのまま引き続き「物質と記憶」に行く前に、「革命か反抗か カミュ=サルトル論争」(新潮文庫)を通勤時に読む。
この本はカミュの「反抗的人間」に対するフランシス・ジャンソンの批判から始まる。
調べてみるとフランシス・ジャンソンというのはゴダールの「中国女」でアンヌ・ヴィアゼムスキーと列車で語り合う人らしい。あの映画で覚えているのは、アンヌがおもちゃの機関銃を持って「タカタック、タカタック」と銃声を真似ている場面と、「マオマオ」と歌う毛沢東ダンス、そして列車で語り合う場面だけなのだが、列車の場面は不思議と強く印象に残っている。
しかし、おもしろそうな映画だと思い興味を持たれる方がいるかもしれないのでここではっきりと言っておきますと、「中国女」はまったく面白くない映画です。少なくとも大学時代の僕にとっては。
大怪我しました。

話を元に戻すと、カミュの「反抗的人間」に対するフランシス・ジャンソンの批判は、予想通り「反抗的人間」を読んでいないのであまりよくわからない。図書館で借りて読もうかとも思ったが、古い本だし、長そうだし、やめた。なぜ「反抗的人間」が読めない状況なのに、「反抗的人間」に対する批評が文庫になっているのだろうか。そのうち文庫になったときにでも読もう。
ジャンソンの批判の後、カミュの反論を読んだ時点で、なんでこれが「カミュ=サルトル論争」と呼ばれるのかわからず、「ジャンソン=カミュ論争」じゃないかと思っていた。なぜならカミュの反論は、ジャンソンとジャンソンの評論の掲載された雑誌「現代」の編集長に対して行われたものだからだ。
なんのことかわからぬままそれに続くサルトルの評論を読んで、サルトルが「現代」の編集長であったことを知り、謎が解けた。
カミュの文章を読むときは「ジャンソンは馬鹿だ」と思い、サルトルを読むときは「カミュ失敗したなあ」と思う。語っている内容の細かいことはよくわからんが、相手をうまくおとしめているなということだけは感じられる。
コメント (1)

☆ベルクソン「時間と自由」感想

2008年03月25日 21時12分23秒 | 文学
時間と自由 (岩波文庫)ベルクソンの「時間と自由」(岩波文庫)を読み終えた。
たとえば、「愛と恋はちがう。愛はこういうもので、恋はこういうもの。あなたの言っているのは愛じゃない。」というような台詞を聞いてなんだか感じる馬鹿らしさというか、よくわからなさは、それが感情を言っているわけではなく、言葉の定義を一生懸命議論しているからだろう。
ある感情を愛と言ったり恋と言ったりするが、それは便宜的にそう呼んでいるだけで、もともと愛という感情が人間に備わっていてそれを感じているわけではない。
と、いうようなことを読んで思ったけれど、こういうことはとても説明しにくいなあ。

ベルクソンの言う「持続」というのは、言いたいことはわかるんだけれど、いったいどんなものかお前は知っているのか、と言われると大変心許ない。
わたしたちが素朴に感じている時間概念は、空間概念を応用していて、過去とか現在、未来というような線状のものを想像しているが、ほんとうに直接的に感じているのはそんなものではなく、それが「持続」なのだ。とは言うのだが、それがどんなものだが、想像してみるしかない。なんとなく、わかるような気もするのだが。
いまでも子供なのだが、僕の甥がもっと子供だった時に、「明日」と言うべきところを「昨日」と言っていて間違ってたいへん恥ずかしがっていたのだが、たぶん彼にはまだ時間の概念に空間の概念をうまく応用できていなかったのだろう。
ベルクソンの本、次は「物質と記憶」を読むつもり。
ベルクソンがたいへん賢いということは読めばよくわかる。
コメント

☆センバツ、篤姫、メモ33

2008年03月25日 01時09分43秒 | 文学
去年の夏の大会から甲子園を見始めたので、センバツは初めて見る。
夏とひどく違うのかと思っていたらそんなに変わらない。おもしろい。
これまでの人生で野球を熱心に見たことがないので野球用語を知らず、知らない言葉は妻に訊いている。
「失策」(エラー)と「死のロード」を知る。
「死のロード」は内田樹がたまに使うのだが、野球用語だとは知らなかった。
エラーを失策と呼ぶことも知らなかったのだが、エラーかどうかが誰かの判断によるということも知らなかった。
昨日の試合で、9回に本塁打2本を打って同点になり延長になった試合を8回くらいからたまたま見ていたがとてもおもしろかった。
エラーで試合は終わったが、身動きのできないほどの大きな悲しみというものを見た。悲しみというのは抽象的なものではなく誰かの身体を使って具体的に表現されるものなのだ。
あんなになってしまうんだということにひどく感動した。
試合の終わりごろにユニフォームの胸の辺りをしきりと触っている姿にも感動してしまう。
すごいなー甲子園は。

そのあと「篤姫」を見る。(NHKってすばらしい)
この前「のだめカンタービレ」のドラマの最終回(だけ)を見たときに、瑛太ってこんなに大きな声が出せるんだ、と驚いたのだが、やはりぜんぜん別人のようだ。
うーん、そんなことほんとにあるかな、ドラマだな、と思うところも多々あるのだが、とても愉しんで見ている。

プルースト「失われた時を求めて」6巻272ページまで。
・ゲルマント公爵家でいろいろなひとに紹介される。
語り手がエルスチールの絵を見ていて食事が遅れるが、語り手が現れてすぐに食事が始まると彼のせいで遅れていたことになってしまうのでゲルマント公爵はすぐには食事の支度をさせない。
貴族って優雅で上品。
コメント

☆「失われた時を求めて」メモ32

2008年03月24日 00時39分12秒 | 文学
プルースト「失われた時を求めて」6巻236ページまで。

・ステルマリア夫人ともブーローニュの森で一緒に食事、の予定だったがドタキャンされる。
断られるとそこから考えを切り替えることができない。
・サン=ルーとレストランに行くが、語り手が先に入りサン=ルーを待っていると店の主人にぞんざいに扱われる。
サン=ルーがやってくると店の主人はころっと態度が変わりそれまでも丁寧に扱っていたかのように語り手に思わせようとする。
貴族の力は偉大だ。
・サン=ルーの貴族らしい高貴さは身体の動きのひとつひとつに表れている。
サン=ルーの描写を読むと「のだめカンタービレ」の千秋を想像するようになってしまっている。いかんなあ、影響を受けすぎている。
・サン=ルーとフォワ大公、それとあとふたりの美男を合わせて、四人のジゴロと呼ばれているらしい。彼らは同性愛者と言われている。
ということはサン=ルーもそうなのかなあ。ここのところは曖昧に、どちらともとれるように書かれている。そのうちはっきりするだろう。
・ゲルマント公爵夫人のサロンに行った帰りにシャルリュスのところに行くことをサン=ルーに約束させられてしまう。
・ゲルマント公爵家でとうとうエルスチールの絵を拝見。
コメント

☆イザベル・コイシェ監督「あなたになら言える秘密のこと」感想 (メモ31)

2008年03月23日 19時25分38秒 | 映画
あなたになら言える秘密のこと映画「パリ、ジュテーム」のなかで、別れようと思っていた妻が病気になって、看病しているうちに本当に大切な存在になるという話があり、なかなかおもしろい映画だなあと思い同じ監督(イザベル・コイシェ)の「あなたになら言える秘密のこと」を借りてきて見る。
パッケージの印象で、ソフィア・コッポラ程度の、女の子の孤独な感情をおしゃれに描いた映画を期待していたが、そういう面も多少はあるのだが、予想外に重たい映画だった。
ティム・ロビンスがらみの映画に軽い映画はないということを肝に銘じる。
いい映画なんだろうなあとは思うのだが、いまあまりこのような雰囲気のものを求めていなかったのでそこまで面白くはなかった。
コーエン兄弟のコメディにするかどうしようか迷って借りたくらいなので。
最近「ツイン・ピークス」に興味がある。いまなら見れるかなあ。

プルースト「失われた時を求めて」6巻180ページまで。
・バルベックでいっしょに遊んでいたアルベルチーヌといい関係になる。
しかし、”いい関係”というのがどこまでの関係なのかがよくわからない。ぼかして書いてあるのでキスまでなのか肉体関係なのかよくわからない。
・ステルマリア夫人ともブーローニュの森で一緒に食事。
・ゲルマント公爵夫人にサロンに誘われる。
いろいろなひとに誘われてモテモテの語り手だがものすごく憧れていた時期を過ぎているのでわりと冷淡。
コメント (2)