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西岡文彦『ピカソは本当に偉いのか?』

2012年10月31日 21時52分47秒 | 文学
西岡文彦『ピカソは本当に偉いのか?』(新潮新書)を読んだ。
美術館に入っているものを美だというふうに考えるようになり、美が実用性とは無縁のものになっていったというような(正確な引用ではありません)あたりがとても納得できた。
ピカソは本当に偉いのか? どうかはわからなかった。
ピカソが本当に上手いということは書かれていた。しかしそれはそうだろう。
もっとピカソに対して批判的に書かれているのかと思ったがそうでもなかった。
近代美術の歴史を簡単に知りたければよい本だと思う。
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小林秀雄づくし

2012年10月24日 22時14分40秒 | 文学
ふと思いついてしばらくまえから小林秀雄の「考えるヒント」(『小林秀雄全作品 23』では上巻所収)を読んでいる。何がきっかけだったかよく思い出せないが、大岡昇平が小林秀雄入門には「考えるヒント」が最適というようなことをどこかで言っていて、ちょっと再読してみようかと思ったように思う。
半分読んだ。
たまたま小林秀雄の講演CDも手に入ったので聴いている。小林秀雄づくしである。
講演では本居宣長についての話が多く、おもしろいのだがいま僕が興味を持っている小林秀雄は本居宣長好きの小林秀雄ではない。文芸評論から距離を置いて、骨董をやったり音楽をやったり美術をやったりという小林秀雄に興味がある。

《作家が、芸術というものについて、ロマンチックな夢を抱いているから、作家の仕事に、何か特権意識が伴う。何故、そんなものから離脱して、社会の他の様々な職業のうちの作家業をやっているに過ぎないという自覚に立ち戻らないのだろう。それが根底的な事だ、と彼は言いたいのである。》(「「菊池寛文学全集」解説」)

菊池寛のことを語りながら自分の意見を言っているのだが、文学を特別なものではないと考えようとする小林秀雄に興味がある。
以前『小林秀雄全作品』を読んでいたときも、小林秀雄が匿名批評に興味を持ち、小説というものはおもしろいおもしろくないというような一般人の単純な評価にさらされるべきだというようなことをどこかで語っているのを読んで、「へえ」と思い、そこにもっとも感心した。
小林秀雄嫌いで有名な丸谷才一にいま興味を持つのも、彼が私小説が嫌いで、小説の主人公の職業が作家ではないところだ。
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幸田文「みそっかす」

2012年10月21日 22時04分37秒 | 文学
幸田文の「みそっかす」(『幸田文 ちくま日本文学 5』所収)を読んだ。
最初あんまりおもしろくなかったが、だんだんおもしろくなった。
語っている幸田文にだんだんと愛情がわいてきて、ともに悲しんだり喜んだりできる。
厳しい父親や継母や弟やあまり親しみを感じられない父方の祖母や叔母、生母のおばなどが出てきて、自分の子供のころに感じたことなどを思い出しながら読める。
どのような感じかを「みそっかす」を読んだことのない人に伝えようとすると、暗めのさくらももこのエッセイと言ったら伝わるかもしれない。(伝わらないかもしれない。)

小林秀雄の講演CDを図書館で借りて聴いている。
とてもおもしろい。
小林秀雄はいつも同じようなことしか語らないのだが、聴くたびに「ああ、なるほどな」と思わせる。
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幸田文『父・こんなこと』

2012年10月18日 19時01分28秒 | 文学
幸田文『父・こんなこと』(新潮文庫)読了。
「父」については読んだときに感想を書いた。
もうひとつの「こんなこと」は、あまり印象に残らなかった。
文は露伴が三十七歳のときの子供で、そこが私と同じなのだが、しかし私は娘にとってこのような父親であるだろうかと考えると、こんな父親では絶対になく甘い父親になるだろうと思う。

いまは引き続き幸田文で、『みそっかす』を読んでいる。
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丸谷才一逝去

2012年10月15日 23時03分18秒 | 文学
丸谷才一逝去のニュースを聞いて丸谷才一について少し調べた。で、読みたくなった。
ほんの少し前にも『笹まくら』が読みたくなったことがあった。吉村昭を読んでいたときに『遠い日の戦争』を読もうとして、そういえば丸谷才一の『笹まくら』も似たような話だったので続けて読んだらおもしろいかも、と思ったのがきっかけだった。
吉村昭の『遠い日の戦争』の文庫の文字が小さかったことと(字が大きいか小さいかがその本を読むかどうかの重要な分かれ目になる)、どうせ丸谷才一を読むなら未読の小説もまとめて読もうと思ったのに『裏声で歌へ君が代』が知らないうちに絶版になっていたことが原因で読むのはやめた。
この機会に『裏声で歌へ君が代』が復刊するかもしれないのでそうなったらまとめて読むかもしれない。
丸谷才一の長編小説は『女ざかり』と『輝く日の宮』を読んでいる。
『女ざかり』は大林宣彦の映画も見た。あまり覚えていないが、料理がおいしそうでわりと好きな映画だった。
書店に本が並んだら、読んでいない『笹まくら』と『たった一人の反乱』(間違えてはいけない。「たた一人の反乱」ではない。このころはまだ歴史的仮名遣いはしていない)と『裏声で歌へ君が代』を順番に読もうと思う。

最初に丸谷才一の名前に出会ったのが、江藤淳の『自由と禁忌』か蓮實重彦の『小説から遠く離れて』だったので印象がよくない。特に『自由と禁忌』で描かれる丸谷才一像はひどい。
しかし考えてみれば自分でせっかく書いた小説なんだからコネクションを使ってプロモーション活動をするというのはそんなに責められたものかという疑問もある。作品の質のみで勝負するべきだというのは、もしかするとあまりに文学的な息苦しい考えなのかもしれない。
日本の純文学の暗くて深刻ぶるところが嫌いで、小林秀雄が嫌いという稀な存在で、読むならそのへんを考えたい。
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幸田文「父―その死―」

2012年10月14日 02時05分00秒 | 文学
幸田文の「父―その死―」(『父・こんなこと』所収)を読んだ。
村上春樹の『ノルウェイの森』で、いちばん好き、といってもいいくらいの場面に、緑が父親の看病について語る場面がある。
お見舞いにやってきた人は食事をきちんと摂る彼女に対して「よく食べられるわね。わたしはとても食べられない」と言うのだが、そんな感傷的な気持ちで看病などできない、というようなことを語る。
そんな感じのことが「父―その死―」にも出てきて、幸田露伴を見舞う人たちが好意からその場の思い付きを語るのだが、それによって幸田文が右往左往させられる。その恨みがたいへん率直に語られる。
会社の仕事でもそのようなことはよくあって、その場の思い付きで「あれやったら?」みたいなことを言う人はいるのだが、だいたいそんなことを言う人は自分で何かをやる人ではない。自分がやるわけではないから、いままで自分でやったこともなく聞きかじっただけのその「あれ」を、「あれやったら?」などと言えるのだろう、無責任に、と私などは思っている。
まあそんなことはよくある。
「父―その死―」には父への恨みみたいなものもたいへん率直に書かれていて、幸田文は頑固な父親をただただ敬い奉っていたのかと思っていたのだが、そんなことはなかった。
父と娘のたんに憎悪だけでもなく、愛情だけでもない、複雑な、というかそれが実はあたりまえの、関係が上手に書かれている。すばらしい。
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井伏鱒二『駅前旅館』

2012年10月12日 23時49分56秒 | 文学
井伏鱒二『駅前旅館』(新潮文庫)読了。
この小説のおもしろさがよく理解できなかった。
気楽に読めるものかと思っていたのだが、そうでもなく、スジを追うのがやっとといった感じだった。
そんなに難しい話でもないのだが、ところどころわからない単語が挟み込まれるせいかもしれない。
語り手の話し方が気になった。基本的に丁寧にしゃべるのだが、結構頻繁に江戸弁のような口調になる。その江戸弁的なしゃべりかたが、鶴見俊輔みたいだった。昭和三十年代のしゃべり方なのかもしれない。いま読むと違和感がある。
おもしろければ引き続き井伏鱒二を読もうかと思ったが、彼のユーモアが理解できないのであまり深追いしないことにする。『荻窪風土記』は興味があるのでそれだけは読んでおこう。それでも引っかかるものがなければ、ご縁がなかったということだろう。
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注目作家について

2012年10月10日 00時06分00秒 | 文学
山本周五郎の『寝ぼけ署長』を読むときに、どうでもいい作家のどうでもいい小説を読みたいと思って読み始めたのだが、どうでもいい感じでよかった。
たまにそういうものが読みたくなる。
どうでもいい作家のどうでもいい小説というのは何か。
たぶんそれは古い言葉で言うと、大衆作家の大衆小説というのに近い。
トルストイの『復活』などは、どうでもよくない作家のどうでもよくない小説の代表。
松本清張の『日本の黒い霧』などがどうでもいい作家のどうでもよくない小説だと思う。読んでないけれど。
太宰治の『富嶽百景』を読んでいたら井伏鱒二氏が放屁なされていて、珍しい昆虫でも見つけたような気分になる。こんなところにどうでもいい作家がいた。
しかも最近、旅館で温泉に入るものが読みたいと思っているので、井伏鱒二の『駅前旅館』を読んでみることにする。
井伏鱒二については猪瀬直樹の『ピカレスク』を読んで印象が悪くなっていたのだが、だいぶ内容も忘れ、悪い印象も薄れてしまったので、読むことにする。ほとんど読んだことがなく、僕にとっては太宰治の師という認識でしかない、どうでもいい作家だ。

ほかにはおそらく昭和を感じられるのではないかと思い、幸田文にも注目している。

一応ほかにも注目している作家を挙げておくと、旅館ものということで『初恋温泉』(吉田修一)も気になった。映画についての本を読んでいるので『映画篇』(金城一紀)も気になっている。
ただ、このふたりの作品を較べたときに、吉田修一のもののほうがより嘘くさく会話もテレビドラマみたいな感じで(ぱらぱら見ただけの印象で言っています。ごめんなさい。)、金城一紀のもののほうが作家の周辺、より身近なところから話が始まっている気がして、読むなら金城一紀かな、という気がしている。
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トルストイ『復活(下)』、太宰治『富嶽百景』

2012年10月08日 22時52分58秒 | 文学
トルストイ『復活(下)』(新潮文庫)を読んだ。
だんだんと話がどういう方向に進むのかよくわからなくなり、トルストイには明確にわかっているのかもしれないが、僕にはついていけず、置いてきぼりをくらった。しかしトルストイはやはり素晴らしいのではないかと思った。
わたしは薄汚れているなという気持ちにさせくれる。
そしてそれをトルストイは必ずしも否定しない。
結局主人公のネフリュードフはぎりぎりのところで自分のいままでの生活から離れることはできなかった。そのへんがいいのではないかと思った。

太宰治の『富嶽百景』を読んでみた。
語り手は井伏鱒二の泊まっている茶屋に泊まった。茶屋に泊まるというのがどういう感じなのかよくわからない。ネットカフェ?
山小屋みたいなものなのかもしれない。といって山小屋をよく理解しているわけではない。
『富嶽百景』は、いろいろなことをするが、いつも遠くに富士山があった、というような小説だった。富士は立派だが、私にはそれが少し恥ずかしい、しかし憧れもある、という感覚を描いた話なのだろう。
久しぶりに読んでおもしろかった。
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小林信彦『映画が目にしみる 増補完全版』

2012年10月07日 01時06分41秒 | 文学
小林信彦『映画が目にしみる 増補完全版』(文春文庫)を読んだ。
終わりのほうは、ニコール・キッドマンとクリント・イーストウッドの印象しか残っていないくらいこの二人の話しか出てこない。クリント・イーストウッドはまだしも、ニコール・キッドマンってそんなにいいかなあ。
『セーラー服と機関銃』は主役の薬師丸ひろ子に興味がないから見ていないのに、テレビドラマ版は長澤まさみなので見ているというところで、私とは正反対だなと感じた。
長い本なので気になったページを折っていた。折った部分について書いておく。
・『雨あがる』が気になった。(55頁)
・大島渚の『御法度』が気になった。(61頁)
・ニール・サイモンを読もうかな。(172頁)
・相米慎二ねえ。(178頁)
・007は第一作「ドクター・ノオ」と第二作「ロシアより愛をこめて」だけ見ればよい。(283頁)
・川本三郎『美しい映画になら微笑むがよい』。(340頁)
・『スイミング・プール』。しかしあの監督あんまりおもしろくない。(364頁)
・『下妻物語』はみんな褒めるので見ないといけないな。(367頁)
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