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☆夏目漱石「こころ」感想

2008年11月29日 21時08分51秒 | 文学
こころ (岩波文庫)夏目漱石の「こころ」(岩波文庫)読了。
乃木大将は明治十年の西南戦争で敵に旗を奪われて以来、死のう死のうと思い続けて三十五年後の、明治の終わったときに死んだ。
ここを読んだとき、最近の事件の、子供のころに保健所に犬を殺されたことを恨んで三十四年後に「仇討ち」をした男のことを思い出した。
「こころ」は過去の記憶にとらわれる話だ。
先生は叔父に騙されて以来人間を信用できなくなるのだが、「叔父に騙された」という記憶から逃れられなくなっているとも言える。
若いころに経験したことから思想を作りそれによって以後の人生のすべてを理解してしまうということがある。ほんとうはそうではなく別の解釈の方法もあるはずなのだが、過去の記憶から逃れられなくなるとそのようにしか解釈できない。
そしてKを結果的に騙したことを、先生は自分がKに対して叔父のようになったと解釈する。世界を、叔父のような人間か、叔父のような人間に騙される人間か、どちらかで判断している。
明治天皇が死んだときに妻が冗談で言った「殉死」という言葉にもとらわれる。
そして乃木大将が殉死したときに先生も殉死してしまう。(そういえば先生は妻と一緒に死ぬのかと思ったら妻には何も知らせずに死んでいた。ほんとうに、奥さんに何も教えずに死ぬ人だ。)
私たちは何をいまからしていくかというときに記憶によって自分の道筋を決めている。無限の可能性に向かって進んでいくわけではなく、自分でなんらかの可能性を定めている。
ハイデガー等の影響で、ここのところ記憶に興味がある。
ここ二十年くらいの日本経済はバブル経済の記憶によってのみ語られ行われているような気がしている。

昔は遺書の内容の方に興味を持ってミステリーを読むような気持ちでこの小説を読んでいた気がするが、今読むと(内容が分かっているということもあるが)先生とKの関係などよりも、前半の先生と私の関係の方がおもしろい。

そういえば、マイクル・クライトンが死んだんですね。本屋の追悼フェアで知った。
「殉死」という言葉が頭をよぎった。
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☆両親と私

2008年11月28日 00時31分16秒 | 文学
夏目漱石の「こころ」は、
上 先生と私
中 両親と私
下 先生と遺書
に分かれていて「両親と私」まで読んだ。あとは遺書。
「こころ」を初めて読んだのは確か中学生のときで、ものすごい衝撃を受けた。
この「こころ」と太宰治の「人間失格」と辻仁成の「ピアニシモ」が当時の僕のお気に入りの三冊でした。
で、当時読んだ時には「両親と私」なんてあまり印象に残らず、親って鬱陶しいもんだ、とかそんな印象しかなかった。
お父さん死にそうなんだなあ。全く憶えてなかった。
心配して家に帰ってみたら大したことなくて、そのまま先生から手紙をもらって電車に乗って東京に帰るようなイメージだったけど、ぜんぜん違った。
父親の弱っていく姿が詳細に描かれていて結構すごい。
どこを読んでもすごい。漱石偉い。
先生の手紙に、
《この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう》
とあり、「特に死んでいる」とはどういう意味だ? この世にいなくて死んでいない状態があり得るのか? と思ってそのように妻に話すと「とっくに死んでいるでしょう」ってことじゃないかと言われた。
そうか、「疾くに死んでいるでしょう」ってことか。
妻偉い。

もうここまででかなりお腹いっぱいで、もう分かりきった先生の「遺書」なんか読まなくてもいいやという気分にならないでもないが、もちろん読みます。

「こころ」傑作。すべてのひとにおすすめしたい。
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☆思わせぶりな先生

2008年11月26日 23時07分55秒 | 文学
よく、他人にとってのさまざまなことを自分にとっての本だと置き換える。そうするといろいろなことに納得がいくということがある。
例えばコンビニエンスストア。
僕にとってはコンビニはどの店も同じなのだが、コンビニを利用する人にとっては店名によって大きな違いがある。
パチンコ屋にも行かないのだけれど、好きな人にはそれぞれの店の特徴がある。
コーヒーの味の違いも分からずどれも苦いだけだが、好きな人は大きな違いを感じている。
自動車のかたちは軽自動車と普通車とオート三輪の形状の違いくらいしか判らない。色の違いは少しはわかる。
そういうことを僕にとっての本に置き換えて、岩波文庫と新潮文庫は違う、角川文庫は全く違う、というようなことなのかな、と思えばなんとなくわかる。他人に優しくなれる。
今日、テレビがつまらなくてふとなんか読もうかと思い、本箱を漁った。
何冊かを同時に読むことが多く、しかも次に読む本が決まっていることも多く、読む本がなくて探すということが滅多にないので新鮮な感覚だった。
これは、世間で言う「女を切らしたことがない」「男を切らしたことがない」という感覚に近いんじゃないかと思った。
私は本を切らしたことがない。
しかしこれを自慢として聞いてくれる人はあまりいそうにない。

夏目漱石の「こころ」を手にとった。
先生は自分のことを知って欲しいのだろうか、知って欲しくないのだろうか。知って欲しいとしか思えない。
《あなたは死という事実をまだ真面目に考えた事がありませんね》
《「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。》
《しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか》
このような発言を繰り返すひとが実際にいたら、鼻持ちならねえと思って決して近づかないのだが、先生はとても興味深い。
最初の方で、語り手が自分が先生に以前どこかであったように感じるから先生もそのように感じているはずだと思っていると、先生の反応が存外冷淡なのに失望するところがあって、「あー、あるある」と思った。
先生が死ぬことは最初のほうから分かっているんだな。
漱石ってほんとにいいです。

会社帰りに本屋に寄り、島崎藤村の「家」を立ち読み。
岩波文庫も新潮文庫も字が小さい。大きくなるのを待つことにする。
大きくなれよ~。(昭和の名作CMより)
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☆三国志とスター・ウォーズ

2008年11月26日 00時22分02秒 | 文学
NHKの「紅白歌合戦」の出場者が決まった。
いまはモンキーマジックにしか興味がないので、モンキーマジックが出てないのが残念。
注目は平井堅と木山裕策の夢の共演、藤岡藤巻と大橋のぞみくらいか。
藤岡藤巻と大橋のぞみは三人で銭湯に行ったら絶対に男湯に入るだろうに、紅組なんだなあ。

吉川英治「三国志」では、曹操が趙雲を欲しがっていた。以前、関羽を欲しがっていたこともあった。彼はひとのものが欲しいのだ。
読んでいておもしろいと思っているのは、劉備の考え方。
孔明がこうやれば勝てると言っているのに頑固に聞き入れず、礼儀を通そうとする。孔明もやれやれって感じで呆れている。
目的がはっきりしない。
最終的に劉備の判断が正しかったのかというと、そうでもない。「情けは人のためならず」的な、礼を通した方が結局得をするというような、「劉備はそこまで見通していたのか!」的な、不潔な話にもならない。
そういうところがおもしろい。
映画「スター・ウォーズ」はやっていることは戦争なのに、憎んではいけないとか、お父さんを大切にとか、近親相姦反対とか、わりと倫理的な話だったように思う(かなり忘れたけど)。
そういう、何がしたいんだかなんだかよくわからないところがおもしろい。
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☆小林秀雄「正宗白鳥の作について」

2008年11月25日 00時00分02秒 | 文学
NHKで放送中の番組「私の1冊 日本の100冊」を、何かおもしろい本が紹介されるかもしれないと思って1週間分再放送されるものを録画して見ている。
あまり興味を惹かれたものはないのだが、内田百の「ノラや」はおもしろそうだと思った。いなくなった猫に対する愛情というところがいい。
いつか読みたい。

小林秀雄全作品〈別巻2〉感想(下)小林秀雄の「正宗白鳥の作について」(「小林秀雄全作品別巻2」所収)を読んだ。
この前買った講演CDを文字にしたもののようだけれど、講演とはまるきり印象が違う。
はじめのほうは正宗白鳥の話で、まあ同じなのだが、だんだん読んでいくと、最終的にフロイトとユングとニーチェの話になる。正宗白鳥の話には戻らぬまま、そのまま未完になっている。
どうにも収拾がつかなくなってやめたんだろうか。
正宗白鳥にはあまり興味は惹かれなかったが、島崎藤村の「家」がちょっと読みたくなった。
しかしほんとにちょっとだけなのでおそらく読まない。
あとはニーチェ。これはおそらく読む。
それとニーチェが好きだったという話を以前も聞いたことのある「赤と黒」。スタンダールの「赤と黒」はニーチェの愛読書というだけで僕のなかで評価が高まっている。
古い本を読み、さらに古い本にしか興味が向かなくなっている状況をいかんともしがたい。
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☆夏目漱石「坊っちゃん」感想

2008年11月24日 15時47分23秒 | 文学
坊っちゃん (新潮文庫)夏目漱石の「坊っちゃん」(新潮文庫)を読んだ。
一点、読んだだけでは分からなかったのは、祝勝会というのが出てきて何の祝勝会だろうと思ったのだが、日露戦争の祝勝会らしい。クロパトキンの名前も出てくるので日清戦争ではないだろう。クロパトキンは司馬遼太郎の「坂の上の雲」に登場していた。
赤シャツが漱石だ、という話をこのところ続けて聞かされていて(茂木健一郎と関川夏央)、そうなのかなあと思いながら読んだ。
うらなりとマドンナと赤シャツの三角関係で、赤シャツはうらなりからマドンナを奪ったわけだから、確かにのちの小説の原型のようなことも思われる。
山嵐が会津で、坊っちゃんが江戸なので、敗れた旧幕派の反逆のようにも取れる。
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☆モンキーマジックを聴く

2008年11月23日 23時33分32秒 | 文学
thank youTIME
NHKの英語番組「リトル・チャロ」の主題歌が気に入ったので、モンキーマジック(MONKEY MAJIK)のCDアルバムを車で聴いている。
スティングっぽかったりマイケル・ジャクソンっぽかったりしてなかなかよい。結局昔聴いた音楽に似ているということが心地よいだけなのだなあ。
そういえば大学生の大麻事件について、テレビで姜尚中が「法は法だ」と言っていた。
大麻は煙草よりも依存性が少ないとか、いろいろ言われるが、そのような効果がどうであるとかではなくて、決まっているから守らなくてはいけないという話。
こどもにそんなことをしちゃいけないというのは、それが正しいからではなくて、正しいとされているからだ。で、正しさの根拠というものは最終的には、ない。
ないけれど、仮構のものでもそれをみんなで守ってやることに意味がある。
根拠なんか問わせずに善悪をこどもに植えつけるということに意味がある。
話がそれたが、僕が言いたいのは、音楽の趣味で、なにがいいとか悪いとかって言うのも、世間で何が良いとこれまでされてきたかにしか根拠はないってことなんですよ。

今日は運転免許の更新に行った。
帰りに植物公園に行って散策する。
ジブリの音楽が流れて、樹木にはすべて名札がついているなかを歩いていると、不思議な気分になった。
「となりのトトロ」的な世界を想像しながら木そのものの形などではなく名前を憶えていくという行為になんか違和感を感じた。
小林秀雄が講演で(このところ影響を受けすぎだ)、「知識のあるひとはいるけれど、美術をほんとうに愛している人はほとんどいない」というように言っていたのを思い出した。

運転と言えば「エコドライブ」という言葉を見かけてこれも違和感を覚えた。
エコならばドライブなんかするな。
昔テレビ番組の「タモリ倶楽部」(たぶん)で山田五郎(たぶん)が「ソフトSMはSMじゃない」と言っていたのを思い出した。
これは余談です。
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☆iPodメモ

2008年11月22日 12時07分20秒 | 文学
小林秀雄の講演CD「正宗白鳥の精神」をiPodで聴いていたら、講演が突然終わり、拍手が入り講演が始まった。
いろいろな講演を集めているのかとCDを調べてみてもそんなことではなく、順番が違ってiPodに入っていたのだった。
2→3→1→4
の曲順で入っていた。
iPodには「トラック番号」というものがありそこには正しい順番が入っているのだが、さらに「アルバムアーティスト」という項目もあり、そこに2と3には「小林秀雄」と入っていたのだが、1と4には入っていなかった。
つまりまず「アルバムアーティスト」で並べて、そのあと「トラック番号」順に並ぶようになっているようだ。
すべてのファイルの「アルバムアーティスト」に「小林秀雄」と入れたら正しく並んだ。
「トラック番号」を最優先にして並べるべきなんじゃないかと思うのだが、ま、いいか。今後気をつけよう。
音楽だったらいいのだが、ひと続きの講演の場合話が分からなくなる。
同じ現象になった人がいるかもしれないのでメモしておく。
ちなみに、小林秀雄講演第七巻「ゴッホについて/正宗白鳥の精神」の正しい曲順は、

CD1「ゴッホについて」
1.小説とは
2.告白という文学
3.ゴッホの人生
4.個性と戦う

CD2「正宗白鳥の精神」
1.座談会の思い出
2.白鳥のリアリズム
3.天賦の才
4.内村鑑三と正宗白鳥

です。
お間違えなきよう。
どちらの講演も(「正宗白鳥の精神」は順番がおかしかったのでもう一度聴くが)、いい。
「ゴッホについて」は近代文学について、または近代文学のつまらなさについて、よくわかる。
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☆夏目漱石「野分」

2008年11月19日 00時12分37秒 | 文学
録画していたNHKの番組「トップランナー」を見ていたらゲストの宮崎あおいが、演じるときに役の人物の心理を考えて、こうなんじゃないかと考えながら演じると言っていた。
しばらく前に見た、これまたNHKの番組で、俳優が「ここで私はこんなふうにはしないだろうと思います」と言うのに対して演出家の蜷川幸雄が「自分には理解できないことでも本に書かれたまま演じるべきだ」というように説得していた。
役を演じるときに自分を出すか消すかってなかなか興味深い問題だ。
最近カフカの「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」という言葉が身に沁みる。

なにかと話題の「定額給付金」だが、もらったら何を買おうかといまから皮算用している。
いまのところ最も有力なのは歯抜けになっている「小林秀雄全作品」を全部揃えること。

二百十日・野分 (新潮文庫)夏目漱石の「野分」を読み終えた。
とてもおもしろかった。
なんだかいろいろなところで、自分のことを言われているような気分になり、身につまされる読書だった。自分のことを高柳君のようだったと思うひとは多いんじゃなかろうか。
道也先生は高柳君にとっては立派な先生だが、彼の細君や兄にとってはそうではない。
道也先生の演説はあまりに長くて驚いた。
最後にほんとにきちんとしたオチが用意されていて、そのせいで印象がすこし悪くなる。
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☆「二百十日」と「三顧の礼」

2008年11月17日 00時55分25秒 | 文学
夏目漱石の「二百十日」を読んだ。引き続き、同じ文庫に入っている「野分」を読んでいる。
どちらも初めて読む。
「二百十日」は落語のような雰囲気だった。ふたりの人物を漱石が座布団に座って首の角度を変えて話し分けている感じだった。華族と金持ちに対する恨みを感じた。
「野分」もまだ途中だけれど、金の話が出てくる。
夏目漱石の小説は三角関係が多いということくらいしか共通点を考えたことはなかったのだが、よく考えてみれば、金の工面をする話も多いように思う。
「野分」では、妻が主人公の兄に金の無心をしに行って、「あなたからも直接お兄さんに頼みなさい」と主人公に諭しているところまで読んだ。主人公は兄にそんなことはしたくない。
初めて読むのにものすごい既視感がある。
金のことなんて考えたくもないのに考えさせられる。そういうことがよく描かれる。
たぶん、もしかすると、ひょっとして、僕が夏目漱石に惹かれるのはそういうところなのかもしれない。

吉川英治の「三国志」はやっと孔明が登場。
孔明本人の登場までに賢そうな人物が何人も出てきて「お前が孔明か? お前か? 違うのか! お前か?」というふうに話が続いていた。
かなり引っ張られた。
孔明はやはりすごそうな雰囲気だ。
「三顧の礼」は三回目の訪問でやっと許しを得ることができて、それまでの、一顧、二顧の礼は断られたのかと思っていたら、会うことができなかっただけで断られたわけじゃない。
読んでみないと分からないことは多い。
一顧、二顧、三顧の礼と言えば、オスマン・サンコンの往年のギャグを思い出す。
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