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ジェイソン・ライトマン監督『JUNO/ジュノ』

2015年03月28日 00時10分58秒 | 映画
録画していたジェイソン・ライトマン監督『JUNO/ジュノ』を見る。
とてもおもしろかった。
こういう映画を見ると自分のものの考え方の根本を問われる感じがする。
16歳の少女が妊娠してしまう話と言えば、どうしても暗い話になるだろう(少なくともどこかに暗い影がでてくる)と思うのだが、そのようなところがなく、軽い雰囲気でずっと描けるのがすごいと思った。
最後は、「そりゃ若い二人が苦労しながら赤ちゃんを育てるのがいいだろうよ。生みの親に育てられるのがいちばん幸せに決まってる」と僕のなかのものすごく深くにいる、倫理観みたいなものが大声で叫ぶのだが、この映画はそのような倫理の声をかわす。
子どもを欲しがっていて、いまは離婚してしまっている女性に赤ん坊を譲る。
アメリカだからだろうか。
このような映画が日本でできるとはとうてい考えられない。これをハッピーエンドのように描くことができない。
映画を見て、いいとか悪いとか言ったって、感動したとかしないとか言ったって、結局世間の倫理観に近いとか遠いとか言っているただそれだけのことじゃないのかと、そのようなことをとても考えさせられる映画でした。
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ロバート・B・パーカー 洋書

2015年03月25日 23時17分15秒 | 英語
ロバート・B・パーカーの小説を英語で読んでみようと思い、ずっと以前に買ってあった「Now & Then」という洋書を読んでいる。
暗い道を歩いている感じで、よくわからないまま読んでいる。
もっと簡単な本を読んでから、練習をしてからこの本を読んだほうがいいのではないかとか、いろいろと思うのだが、ロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズが読みたいのだからこのまま読むしかない。
英語の勉強って、どうしても正解を探し続けてそのまま終わってしまう傾向にある。
いまは何かを読みたい気分なのでまずは読んでいこうと思う。
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ドナルド・キーン『思い出の作家たち 谷崎・川端・三島・安部・司馬』

2015年03月23日 22時55分51秒 | 文学
『ドナルド・キーン著作集 第四巻』(新潮社)を図書館から借りて読んでいる。
『思い出の作家たち 谷崎・川端・三島・安部・司馬』を読んだ。
谷崎潤一郎ら五人の作家の思い出を語るというような本なのだが、彼らの代表作をひと通り眺めて、ちょっとしたエピソードを語って終わりという感じの本で、日本人が読んでもそんなにおもしろい本ではないなと思った。外国人への日本の作家紹介という面が強いのだろう。谷崎潤一郎と川端康成のところはそうだった。
三島由紀夫は少しおもしろかった。
たとえば『金閣寺』について語るこんなところ。

《肝心なのは、たとえ溝口が反社会的な行動をとろうと、日本建築史上最高の一大記念物を破壊するという許されざる罪を犯そうと、なお読者が溝口に共感することなのだ。この小説は結局のところ離れ技なのであり、読者を自らの倫理観に逆らわせて、溝口にとってこの犯罪は必然だったのだと納得させるにとどまらず、溝口青年が彼の幸福を阻んできたものをついに破壊する時、主人公と共に読み手をも解き放つのである。》(71頁)

はじめて『金閣寺』の読み方が分かった気がした。しかし改めて読むと思うと気が重いのだが。

安部公房には僕は興味が持てない。
これはカフカにあまり興味が持てないところから来ているのだと思う。

司馬遼太郎については彼の文章に興味を持っているので、ドナルド・キーンが司馬遼太郎の本があまり翻訳されない理由について考察していておもしろかった。

《しかしながら外国人読者の大半は、司馬の人となりにはさほど関心もなく、脱線も特にありがたいとは思わないだろう。その作品が良い編集者の恩恵に与っていないことにさえ気づくだろう。たとえば文章の反復は珍しいことではないし、一方で小説の冒頭で読者が知っておくべき事情が終盤になるまで明かされないこともあり、それも、ほんの何気なく書かれるにすぎない。これらの瑕――もし、そうだとするならば――は、非日本人の読者を困惑させたり苛立たせたりするだろうが、司馬の活気ある散文体に心動かされ、作家としての彼に信服している日本人読者を悩ませることはないのである。》(107頁)

司馬遼太郎の小説で同じ話が繰り返されるのは確かにそうなのだが、《小説の冒頭で読者が知っておくべき事情が終盤になるまで明かされない》というのが何のことを言っているのかわからなかった。
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ドナルド・キーンの対談

2015年03月22日 02時16分30秒 | 文学
『ドナルド・キーン著作集 第九巻 世界のなかの日本文化』を図書館から借りて読んでいる。
対談が中心の巻で、講演(「世界のなかの日本文化」)と司馬遼太郎との対談(「日本人と日本文化」)、安部公房との対談(「反劇的人間」)を読んだ。
ドナルド・キーンについていまもっとも興味を持っているのは彼の文章の書き方で、英語で読んだわけではないので原文ではどんな感じなのかは知らないが、翻訳を読む限り非常に読みやすい。そして、なんだかアメリカ翻訳もの的。翻訳したのだから当たり前なのだが、その翻訳的、しかも読みやすいというところに惹かれている。
日本人の書いた文芸評論とは明らかに違う。小林秀雄にしても吉本隆明にしても江藤淳にしても加藤典洋にしても、そしてまああまり感じられないほうではあるが内田樹にしても、文の”藝”を感じさせる書き方をどうしてもしているのだが、ドナルド・キーンの本にはそのような、自意識? みたいなものが見られない。そこに好感が持てている。
翻訳を通すことで、そのようなもの(なんと言っていいのか、ゴミとか垢とかネガティブな言葉しかいま思い浮かばない)がふるい落とされているのかもしれない。それともアメリカ的な文章の書き方にその秘密があるのかもしれない。
対談では、当たり前だがそのような文章の書き方を感じることはできなかったのだが。

対談を読んであまり意見の対立のようなことを感じることはないのだが、ドナルド・キーンは違うと思ったらきちんと違うと言えるところに外国人を感じた。
いいかげんに納得しない。
ドナルド・キーンは、アメリカ人が日本のことを分かってくれてありがとうございます的な、そのような受け入れられ方だけでやってこられた人なのではないかと思っていたのだが、そんなことはないのだと最近思う。
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アラン『芸術論20講』

2015年03月20日 22時19分12秒 | 文学
アラン『芸術論20講』(古典新訳文庫)読了。
途中で放り出していたので読み終えるのに長くかかってしまった。
アランは読むたびに難しいと感じる。芸術について彼には非常に確固とした考えがあり、長く考えた末に言われる言葉なのでこちらがちらっと読んだくらいでは、どういう意味で言われているのかよくわからないことが多くある。
たまに「すごい」と思う言葉に当たることがあるのだが、あとはだいたい暗闇を進んでいる感じ。
もうすこし勉強が必要だ。
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ロバート・B・パーカー『失投』

2015年03月19日 23時14分26秒 | 文学
ロバート・B・パーカー『失投』(ハヤカワ文庫)読了。
スペンサーシリーズを読むのは二作目。
前回『初秋』を読んだときも思ったが、これは探偵小説なのだろうか。まるで謎を解くという気配がない。しかも殺人事件も起きない。起きるのだが、これも『初秋』と同じで起きるのではなく、主人公が起こす。
まだちょっと戸惑い気味なのだが、読みやすいので引き続き読んでいくことになると思う。しかし文庫の表紙が新装版のものを買いたいのだが、まだあまり出ていない。どんどん新装版で出してほしいものだ。
今回は野球の八百長がテーマで、原の『さらば長き眠り』を少し思い出した。原はおもしろかったな。いま何しているんだろう。
またスペンサーが自分を作家と偽って球団の内部を探るという設定がおもしろかった。アメリカ球団の内部事情ということで、この前読んだマイケル・ルイスの『マネー・ボール』を思い出した。
これだけひねりのない小説であれば英語で読むことも可能なのではないかと思っている。
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ドナルド・キーン『ドナルド・キーン自伝』

2015年03月18日 01時04分09秒 | 文学
ドナルド・キーン『ドナルド・キーン自伝』(中公文庫)を読んだ。
これまで僕はドナルド・キーンにたいしてほとんど興味を持ったことはないのだが、この間彼の『日本人の戦争』を読んでとてもおもしろく読みやすかったので他のものも読んでみた。
『ドナルド・キーン自伝』も読みやすい本だった。
彼の妹が死んで父親が母親と一緒にいる理由が無くなったので出て行ってしまった、という話が印象に残った。ドナルド・キーンの第二次世界大戦時代のこともよくわかった。
また、谷崎潤一郎や川端康成や、(もちろん)三島由紀夫、安部公房、大江健三郎などが話に登場し、日本文学には華があったなと思う。
大江健三郎とは非常に仲が良かったのに、大江健三郎が突然距離を置きだして、今に至る。そしてなぜそうなってしまったのかは未だに謎である、というような話をしていて、おもしろかった。存命の人物にこういう書き方をするのがおもしろい。「誰か、大江健三郎に理由を問い質してください」と言いたくなる。

ドナルド・キーンと言えば谷崎、川端、三島の紹介をする、というのが僕に植えつけられた印象(昔見たテレビでしゃべる姿からの印象)なのだが、やはり三島由紀夫の話が多く出た。
『宴のあと』と『近代能楽集』に興味を持った。
『近代能楽集』のニューヨーク公演のためにいろいろとがんばったのに、公演できずかわいそうだった。
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高畑勲監督『かぐや姫の物語』

2015年03月14日 00時04分41秒 | 映画
高畑勲監督の『かぐや姫の物語』をテレビで見る。
長い映画だった。こんなに長い必要があるのかどうかわからないが、予想に反して退屈しなかった。
最後のほうで、かぐや姫と再会した捨丸は彼女と逃げようとする。が、夢から覚めて小さな子どもが駆け寄ってきてまた日常に戻るところが、なかなかすごいと思った。そんなことをアニメでやる必要ないだろうと思うが、すばらしい。
月からの迎えが来るときの音楽が印象的だった。なんだか嬉しくなる。悲しい場面に嬉しい音楽を持ってくるのがすごい。
宮崎駿もそうだが、高畑勲も好きなことをやっているなと思う。
かぐや姫が地球の記憶をなくして月に帰る場面で、僕は『レインマン』を思い出した。最後の場面で列車に乗り込むダスティン・ホフマンが見送るトム・クルーズのほうを振り返りもしない。席に座ってもトム・クルーズのほうを見ない。たしかもらった携帯テレビを見ているんじゃなかったか、そんな場面。
かぐや姫は振り返るのだろうかとわくわくしながら見ていたら、地球を振り返ってしまった。振り返らなければ良かったのになと僕は思うが、そこは監督の判断なのだろう。
地球上のいろいろな情にまみれて生きていくことはほんとうに幸せなのだろうかということを考えさせる映画なのだと思う。
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いつのまにか完全に、第二次世界大戦特集

2015年03月12日 23時35分05秒 | 文学
少し前に映画『小さいおうち』を見て、そのあとドナルド・キーンの『日本人の戦争』を読み、今日は録画していたNHKの「100分de名著」の『アンネの日記』の初回を見る。満島ひかりの朗読がすばらしい。僕はいま満島ひかりがものすごく好きなのだなあ。この前、弟の満島真之介といっしょに出演した蜷川幸雄演出の『ハムレット』の稽古のドキュメンタリー番組も見た。
そして『アンネの日記』の番組の後は、録画していた、重松清が太平洋戦争で戦死した兵士たちの日記を読む番組「最後の言葉」を途中まで見る。ドナルド・キーンは太平洋戦争のときに日本兵の日記を翻訳していたという話をちょうど読んだばっかりだ。
いつのまにか完全に、第二次世界大戦特集が始まってしまっている。
始まったものは仕方がない。(いつの時代も戦争はいつの間にか始まってしまうのだ。)
しばらく、第二次世界大戦について勉強しよう。
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ドナルド・キーン『日本人の戦争 作家の日記を読む』

2015年03月11日 22時28分33秒 | 文学
ドナルド・キーン『日本人の戦争 作家の日記を読む』(文春文庫)を読んだ。
戦中戦後の作家の気持ちが日記を通してよく分かるように書かれていた。とてもおもしろかった。
ドナルド・キーンの本の中では、伊藤整と高見順と山田風太郎の日記が多く引用されている。僕がとくに興味を持ったのはあまり多くは引用されていなかったが、内田百の『東京焼盡』と渡辺一夫の『敗戦日記』で、機会があれば読んでみたい。
最後に平野啓一郎との対談が載っていて、安部公房がアメリカ人からチーズをもらって、食べて、「あ、これは日本人でも喜ぶだろう」と言ったという話をキーンが紹介している。日本人は自分が日本民族を代表すると思いがちである、と。
たしかにそのような傾向は自分にもあると思って、考えさせられた。
例えば僕などはこの『日本人の戦争』を読むと、戦争はいけない、とか、言論統制はよくない、などと思うわけだが、いまの日本にはそのように思っていない人がわりといる(らしい)。で、僕には、戦争に反対しない人がいるということがよく理解できない。
これなども自分が日本を代表すると思いがちの例だろう。
自分とは全く異なる考えの人がいるという、多様性を理解することはひとつの課題だろう。
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