![嵐が丘〈上〉 (光文社古典新訳文庫)](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41328ynmExL.jpg)
![嵐が丘〈下〉 (光文社古典新訳文庫)](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/412JG8qaXGL.jpg)
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(光文社古典新訳文庫)を読んだ。
やはりちょっと話も暗いし、登場人物たちの感情が素直に追えないで何を考えているのかよくわからない、どうしてそんなふうに考えるのか共感できない、ということがあり、あまりおもしろい話ではない。ジェイン・オースティンなどは、読んでいるとわくわくして、また読みたいと思わせるのだが、そういうところは無いように思う。
ほぼすべてと言っても良いくらい話が、ロックウッドに向かって、家政婦ネリーが語る話で出来ているのが特徴だ。
次々とひとがよくわからない理由で都合よく死に、最終的にはハッピーエンドのように見えるがそこまでが暗すぎていい印象にはならない。
このところ、イギリス文学を続けて読んでいるので、このまま続けて読んでみようかと考えている。
E・ブロンテの『嵐が丘』の上巻を読み終えた。『嵐が丘』は何度か読んでいるが、おもしろさがあまりわからない。ジェイン・オースティンのほうがいいな、と思っている。
このあと『嵐が丘』の続きを読んでから、
ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』
D・H・ロレンス『息子と恋人』、『チャタレー夫人の恋人』
ジョージ・エリオット『ミドルマーチ』
を読む予定である。
ほんとうはジョイスも入れるべきなのだと思うが、読むとしても『ダブリナーズ』くらいしか読めそうなものがない。彼の代表的長篇小説は私には読めそうにない。
D・H・ロレンスは『虹』と『恋する女たち』が読みたいが、手に入る翻訳がないので読めない。いろんな出版社の文庫から同じ作品の新訳がたて続けに出ることがよくあるが、そんなことをするくらいなら代表作と言われているのに翻訳が手に入らない本を出してほしいものだと思う。
哲学では、
アリストテレス『ニコマコス倫理学』
ハイデガー『存在と時間』
ベルクソン『物質と記憶』
を読む予定である。
E・ブロンテの『嵐が丘』の上巻を読み終えた。『嵐が丘』は何度か読んでいるが、おもしろさがあまりわからない。ジェイン・オースティンのほうがいいな、と思っている。
このあと『嵐が丘』の続きを読んでから、
ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』
D・H・ロレンス『息子と恋人』、『チャタレー夫人の恋人』
ジョージ・エリオット『ミドルマーチ』
を読む予定である。
ほんとうはジョイスも入れるべきなのだと思うが、読むとしても『ダブリナーズ』くらいしか読めそうなものがない。彼の代表的長篇小説は私には読めそうにない。
D・H・ロレンスは『虹』と『恋する女たち』が読みたいが、手に入る翻訳がないので読めない。いろんな出版社の文庫から同じ作品の新訳がたて続けに出ることがよくあるが、そんなことをするくらいなら代表作と言われているのに翻訳が手に入らない本を出してほしいものだと思う。
哲学では、
アリストテレス『ニコマコス倫理学』
ハイデガー『存在と時間』
ベルクソン『物質と記憶』
を読む予定である。
![ハイデガー入門 (講談社学術文庫)](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41X-TwCA7ML.jpg)
昔読んだ印象で竹田青嗣の他の著作に比べると難しい印象があったのだが、やはり難しい本だった。
後期ハイデガーの思想が難しい上に、こちらとしてはそこまで理解して読む必要があるものとも思えないので、話についていけない。
竹田青嗣はハイデガーが本来と非本来を分けることに批判的でそのことをくり返し言うので、読む方もだんだんと特に後期ハイデガーには読む価値がないものと思えてくる。
高井ゆと里の本では「本来性」と訳されているドイツ語には「固有の」という意味があって、そんなに正しいというニュアンスはないというように書かれていたように思うが、そうだとしてもこっちが正しくて、実際の私たちの生き方のほうは正しくないというニュアンスはどうしたってあるように思う。
そこがハイデガー思想の重大な欠点であるという竹田青嗣の考えは正しいように思う。
岩波文庫の『存在と時間』は入手したのでいつか読もうと思うが、すぐには読まないかもしれない。
![極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる (講談社選書メチエ)](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51q-wPi0I2L.jpg)
やはり迷っているのだが、ハイデガーの『存在と時間』そのものを読むべきかどうかを考えている。
入門書だけ読んで、それでいいかなとも思っている。いまさら私が読んだところでなにか得られるものがあるのだろうか(無いだろう)と思ってしまう。文庫で四冊とか、八冊とかとなると怖気づいてしまう。
高井ゆと里の本を初めて読んだが、なかなか独特でおもしろい。
内容は非常にわかりやすい。
若い女性が書いているということを事あるごとに意識させられるが、思えばこれまで様々な著作は男性が書いているということを私が意識してこなかったということなのかなということを反省させられる。
戸谷洋志の本は「いじめ」を題材にしていたが、高井ゆと里の本では自分の性別に悩むひとのことが題材になっている。食事をする前にそこに置かれている新聞を片付けるというようなことも例として書かれていて、感心した。
『存在と時間』を身近な例で語り、より近づきやすくなっているように思う。
〈ひと〉や良心の呼び声など、ハイデガーの話には魅力的な部分も多くあるが、読んでも苦労のわりには得るものが少ないんじゃないかなと思ってしまう。『存在と時間』を読むよりももっとわかりやすい宗教的な読み物やビジネス書のほうが同じような効果を得られるんじゃないかと思ってしまう。
![ダロウェイ夫人 (光文社古典新訳文庫)](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41KUs3fhaIL.jpg)
ずうっと昔に集英社版で読んだことがあるが、まったく意味がわからぬまま最後まで読んだという記憶がある。
今回は翻訳が良かったせいか、時間があったので短い期間でしっかりと読めたせいか、とてもよく理解できたように思う。
ひとの考えだけをつなぎ合わせて、別の人物が登場したらその人物の考えが書かれていくというような、そのような書かれ方だった。
もっと何が書かれているのかわけがわからない小説なのかと思っていたが、そのようなことはないし、セプティマスやピーター・ウォルシュなど、考えに寄り添って感情移入することもできる。意識の流れの実験的な表現を、知的に愉しむ(?)だけの小説ではなく、きちんと生きていく悲しみのようなものを感じることができる。
最後のパーティのシーンでは、それまで登場したひとが一堂に会し、あっちへいったりこっちへ来たりする。もうこのあたりの場面までくればこの小説の書き方にも慣れているので、考えの行ったり来たりを楽しむことが出来た。