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芥川龍之介『奉教人の死』

2016年04月30日 20時30分03秒 | 文学
芥川龍之介の短編集『奉教人の死』(新潮文庫)を読んだ。
「奉教人の死」以外は初めて読んだ。
イタリア人の宣教師が日本で天の岩戸の幻覚を見る「神神の微笑」と、ちょっと「藪の中」を思わせる「報恩記」が印象に残った。

「はらいそ」とか「ぢやぼ」とかキリスト教用語の外国語をひらがなで書くのが特徴的で、不思議だった。
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内田樹『困難な成熟』

2016年04月29日 13時14分16秒 | 文学
内田樹『困難な成熟』(夜間飛行)を図書館で借りて読んだ。
編集者からの人生相談への答えという格好での本だが、内田樹が訊かれたいことを訊かれてそれに答えた感じ。
編集者は内田樹のことをよく知っている人なのだろうから、内田樹が答えやすい質問をどうしてもしてしまう。内田樹もこれまで言ってきたような話を繰り返してしまう。
人間というのは何を訊かれても同じ答えを繰り返してしまうものなのかもしれないが、もう少しこれまで誰も内田樹に訊かなかった質問、これまで内田樹が言ってこなかった答えがあればよかったかもしれない。
それでもおもしろい本だった。
内田樹の本を読み慣れているので驚かないが、初めて読むのであれば興味深く読んだだろうと思う。

途中ある詩人の詩からの引用があり、誰の詩なのか明かさないまま意味深に終わるところがあったが、吉本隆明ではないかと思っている。調べていないが、今調べる。
「ぼくが倒れたら」から始まる詩。
調べたらやはり吉本隆明のようだ。

ほう・れん・そう(報告・連絡・相談)について。こういうことを言うのは嫌なやつだからそうでも言わないと誰も話しに来ないのだ、というのはその通りかもしれないなと思う。僕も「ほう・れん・そう」という言葉が嫌い。

「ある高名なフランス文学者」が内田樹の悪口を延々とエッセイに書いたとあったが、誰だろう。蓮實重彦くらいしか思い浮かばないが、そんなこと書くかなあ。
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「Cut」のSEKAI NO OWARIのインタヴュー

2016年04月24日 22時14分32秒 | 文学
SEKAI NO OWARIのにわかファンなので彼らのインタヴューの載った雑誌「Cut」の2015年10月号を図書館で借りる。
期待したほどはおもしろくなくて、FukaseとSaoriのインタヴューだけ読んであと二人のインタヴューと四人そろったインタヴューはざっとしか読まない。縦書きの文章のなかに横書きのアルファベットの文字が混じるのが思いのほか不愉快で、疲れてしまう。
Fukaseのインタヴューに登場する映画『明日の記憶』と全員のインタヴューに登場する映画『インサイド・ヘッド』は見てみようかなと思った。
彼らの「SOS」も「ANTI-HERO」も好きな曲ではあるが、それが主題歌に使われているという映画「進撃の巨人」には全く興味が持てない。

またシャマランがテレビドラマを作っていることを知り、そのドラマ『ウェイワード・パインズ』に惹かれる。『ツイン・ピークス』みたいな話なのだろうか。とても興味がある。
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テレビドラマ「私 結婚できないんじゃなくて、しないんです」を見る

2016年04月17日 02時15分22秒 | テレビ
この前会社から帰って中谷美紀主演のテレビドラマ「私 結婚できないんじゃなくて、しないんです」をなんとなく見ていたら案外おもしろくて来週も見ようと思って録画予約した。
夏木マリの声は湯婆婆にしか聞こえない。「千と千尋の神隠し」を見る前は夏木マリといえば「里見八犬伝」の玉梓のイメージだったのに変わってしまった。
ちょっと最近疲れているのでドラマを見たり音楽を聴いたりしてしまうのだと思う。
SEKAI NO OWARIを暇があれば聴いている。
よく聴くのは「スターライトパレード」とか「スノーマジックファンタジー」とか。「スノーマジックファンタジー」は恋愛を比喩的に描いているように見せながら実は雪山での遭難死を描いているのが素晴らしいと思った。
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遠藤周作『侍』

2016年04月13日 23時25分21秒 | 文学
遠藤周作『侍』(新潮文庫)を読んだ。
『侍』は支倉常長がモデルの長谷倉ともうひとりスペイン人の宣教師ベラスコの話が交互に描かれる。長谷倉の物語では主人公を「侍」と呼ぶ三人称の語りで、ベラスコの物語も最初は三人称なのだが途中からなぜかベラスコを「私」とした一人称で語られる。このへんがちょっと雑な印象を受ける。
芥川龍之介の「奉教人の死」をちょうど読んでいて、そんなことも考え合わせ、キリスト教に影響を受けた文学というのは、結局私のイエス・キリストをどれだけ上手に描けるかということを競っているのではないかという気がする。
つまり侍も宣教師も最後は処刑されるのだが、苦労しても最終的には周りの理解を得られず、理解しない人々にむかって「このひとたちは自分のやっていることが理解できないのです。赦してやってください。」みたいな言葉を言って死んでいく、というような話の形にどうしてもしようとしてしまうのがキリスト教の影響を受けた人たちなのだろうなと感じた。
遠藤周作は『深い河』などでも私のイエス・キリストを描いているのだなと思った。

長谷倉はぜんぜん信じていなかったキリスト教にローマ法王に会うために入信するのだが、信じていない人がどのように信じるようになるのか興味深く読んでいた。しかし長谷倉はわりと早くから「あのやせこけた醜い男」(イエス)のことが気になって仕方がない。こんなふうにあの男のことがものすごく気になる人ってキリスト教徒なんだろうなと思う。
『深い河』の美津子なども玉ねぎのことが気になって仕方がない様子だった。
遠藤周作を読んでも、信じるということがどういうことか信じていない人には理解できないのかもしれない。
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小津安二郎監督『晩春』

2016年04月11日 21時39分46秒 | 映画
録画していた、小津安二郎監督『晩春』を見た。
小津安二郎の映画のなかでは『秋日和』がもっとも好きな映画なのだが、『秋日和』の母親(原節子)を父親(笠智衆)に替えた話だった。でもやはり『秋日和』のほうがいい。
私は本音を言ってしまうと、笠智衆があまり好きではない。笠智衆よりも佐分利信のほうが良い。
『晩春』では特に、笠智衆は嘘も下手だし、演技も下手だな、と思ってしまった。

古い映画だからかもしれないが、声が聞き取りにくかった。イヤホンをして見た。
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堀辰雄『菜穂子・楡の家』

2016年04月10日 21時18分37秒 | 文学
堀辰雄『菜穂子・楡の家』(新潮文庫)を読んだ。
「楡の家」はなかなかおもしろかったのだが、その続編である「菜穂子」はあまりおもしろくなかった。
私小説的な感覚で自分の感じた感情を一人称で描くのが堀辰雄は上手なのだろうと思うのだが、「菜穂子」はそこから一歩踏み込んで複数を描こうとしている。そしてみんな堀辰雄になってしまっている、という気がする。
菜穂子も療養するし、都築明も病気になってしまう。黒川圭介も病的。ひとりだけならいいけれど、みんなこうだと僕などはもういいやと思ってしまう。
道が二つに分かれていて、あっちにいけば鄙びた場所、こっちは別荘地、というような描写や、なにか子供の頃を突然に思い出すという場面や、遠くから教会が見える場面など、ところどころにプルーストの『失われた時を求めて』を思わせる場面があり、堀辰雄はプルーストを目指したのだろうなと思う。しかしあまり成功していないと思う。
遠藤周作はこの作品はモーリヤックの『テレーズ・デスケルー』を下敷きにしていると言っていたけれど、僕にはまったくわからなかった。
菜穂子が夫を殺そうともしなかった。
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SEKAI NO OWARIが好きになる

2016年04月09日 00時44分40秒 | テレビ
昨夜、NHK教育の「ミュージック・ポートレイト」を見たあとに、NHK総合の「SONGS」を見た。
ゲストはmiwaだったのだが、過去のNHK全国学校音楽コンクールを振り返る番組だった。コンクールでは中学生に人気の歌手が課題曲を作っているらしく、アンジェラ・アキやゆずやSEKAI NO OWARIが曲を作っていた。
アンジェラ・アキの曲は知っていたが、ゆずの曲は知らなかったし、miwaの曲もあんまり惹かれなかった。
SEKAI NO OWARIは紅白歌合戦にも出ているので、「ピエロのいるバンド」としての認識はあったが、これまで興味を惹かれたことは一度もなかった。紅白歌合戦で、その年の暮れに初めて聴いたひとにその曲を好きにならせるには、歌手に相当の力量がいる。紅白歌合戦で聴いてすごいと思ったのは中島みゆきくらいしかいない。
SEKAI NO OWARIも全く印象に残っていない。
SEKAI NO OWARIの「プレゼント」を聴いて、アンジェラ・アキよりもゆずよりもmiwaよりも良いなと思って、YouTubeなんかでいろいろと聴いてみるが、とてもいいと思う。
今度アルバムを借りてこようと思っている。
僕などにはフリッパーズ・ギターを思い出させる。(フリッパーズ・ギターよかったなあ。)

このSEKAI NO OWARIのヴォーカルのひとにはたとえバンドを解散したとしても長く歌ってもらって、ごはんを作って食べたり結婚したり子供を育てたりしてそのときどきの気持ちを歌にして歌って欲しいものだと思います。
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磯田道史の司馬遼太郎論

2016年04月04日 23時48分35秒 | 文学

磯田道史の司馬遼太郎論が読みたくて、『歴史の読み解き方 江戸期日本の危機管理に学ぶ』(朝日新書)と『司馬遼太郎 リーダーの条件』(文春新書)を図書館で借りて読む。『歴史の読み解き方』は最後の「司馬文学を解剖する」だけを読み、『司馬遼太郎 リーダーの条件』のほうは磯田道史の参加している座談会だけ読んだ。
『坂の上の雲』が何度も言及され、読みたくなる。しかし僕は二度ほど挫折しているのでなかなか手が出せない。
『歴史の読み解き方』に『坂の上の雲』は史伝文学であるという話があり、やはり歴史小説好きは最後は史伝文学にいくのがほんとうだろうなと思った。僕も最終的には森鴎外の『伊澤蘭軒』や『北条霞亭』などを炒り豆をかじりながらニタニタ笑いながら読みたいものだと考えている。

磯田道史には本格的な司馬遼太郎論の執筆を望む。
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堀辰雄『楡の家』

2016年04月03日 23時39分27秒 | 文学
遠藤周作によると、堀辰雄はモーリヤックの『テレーズ・デスケルー』を下敷きにして『菜穂子』を書いたらしく、『テレーズ・デスケルー』をちょうど読んだのでついでに『菜穂子』を読もうとしている。
そして『菜穂子』の前編であるという『楡の家』を読んだ。
堀辰雄は読むたびにわりと好きだなと思う。
以前江藤淳の『昭和の文人』を読んだときに少し読んだのだが、そのときも、案外面白かった。よみやすい。『昭和の文人』は堀辰雄を悪く描いた名作だが、それでも堀辰雄はおもしろく好印象だった。

『楡の家』は太宰治の『斜陽』を思わせ、あちらは娘が語り手だったがこちらは母親が語り手となっている。
また避暑地の別荘を舞台としていることや、ヨーロッパ文学の影響を感じられることなど、僕には水村美苗の『本格小説』を思い出させた。
母親の書いた日記が載せられ、最後に娘の菜穂子の追記が載せられる。
テーマとしては私たちは自分たちが思っている自分がほんものなのか、他人から見られている自分がほんものなのか、というようなものだろう。そんなに深い思想があるというようなものでもない、と僕は思ったが、文章が気持ちよく、静謐な感じで良かった。
キリスト教は感じられなかった。
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