カール・ユーハイム物語(4)

2006-01-19 00:01:00 | カール・ユーハイム物語
e478a7f3.jpg第一次世界大戦が終結。日本に抑留されていた約5,000人のドイツ人捕虜は、その大部分が兵士であったこともあり、三隻の帰還船で海路ドイツへ向かったのだが、約200人は、日本に残ることになった。

もともと捕虜になったところからして日本側の意図が不明なのだが、その多くは中国青島で何らかの職業を営業していたものであった。つまりスペシャリストである。そして、本国ドイツを離れ、青島まで仕事に行くというものの多くは敗戦後のドイツに戻っても生活の糧を得ることは容易でないわけだ。

一方、日本側の事情も、貴重な欧州の人材をなんとか活用したいとの思惑もあった。たとえば現在、ハム・ソーセージを製造販売している「ローマイヤ」も、その時の職人の一人が興したのである。そして、カール・ユーハイムに目をつけたのが、当時、横浜に本社をおき、京橋に東京支店を出店し、さらに銀座にレストランと洋菓子店を進出させようとしていた「明治屋」である。そして、ソーセージ製造主任1名、レストラン主任1名と一緒に洋菓子部門の責任者として高額のサラリーと3年という複数年契約が提示されたわけだ。

記録によると、カールの月給は350円。カールの下には15名の日本人職人がいたのだが、「ベガさん」と呼ばれる彼ら職人の給料は15円から25円までだったそうなので、いかに当時のカールの給料が高いかわかる。

e478a7f3.jpg銀座の店舗は「カフェ・ユーロップ」という名前で、瞬く間に東京の名所となるが、他店の3倍もの単価だったらしく、著名人が多く出入りし、いくつかの文学作品の中に残像が残っているようだ。そして、そのカフェ・ユーロップの場所を調べたところ銀座尾張新町17番地。本当に銀座の真ん中である。中央通りと三原橋通りの交差する交差点(いわゆる銀座四丁目交差点)。日本でもっとも地価の高い場所である。現在の和光ビルの後ろ側の部分にあたるようだ(交差点に面した特等地には交番があった)。そのころから85年経ち、現在も元の位置にあるのは三原橋通りをはさんだところにある安藤七宝店くらいだ。

建物は地下1階、地上3階で、地下はソーセージ工場。一階が洋菓子工場と売店である。カールの仕事場である。そして2階が喫茶+レストラン。当時はドイツ料理というのが日本では好評だったのだろう。特筆すべきは、レストランであっても、一階で靴を脱ぎ二階に上がったそうである。そして、この2階にはもう一つ重要なことがある。それは、カールの妻、エリーゼが手伝いとして働いていたことだ。よくわからないが、例の20円くらいの給料だったのかもしれない。ただし、エリーゼは決して夫の職場には顔を出さなかったそうだ。

この時、妻がレストランの仕事を続け、その要領を覚えていたことが、その先の彼らの運命に影響することになる。さらに彼女は、結婚前、経理学校に通っていて、数値管理の知識を持っていたわけだ。

ここで、銀座でのカールの働きぶりなのだが、「仕事の鬼」だったそうだ。そして、徹底的にドイツでの仕事を再現していく。妥協なし。毎朝8時に出勤するや、窯炊きから始まるのだが、これが石炭2俵を燃やし尽くして熱を封じ込める。さらに、例のバウムクーヘンを焼く時には、3日にわたり樫の木の薪を燃やし続けたそうだ。そして、石炭機関車のように3年間働き続け、カフェ・ユーロップは繁盛し、3年間の雇用契約満了の日が近づく。そしてユーハイム夫妻は、夢であった米国行きを心に秘めてながら、国内各地での出店をさぐるわけだ。そして、彼ら夫妻と長男ボビーの家族の次の舞台は、横浜へと移るのである。1922年2月のことである。  

カール・ユーハイム物語(3)

2006-01-19 00:00:05 | カール・ユーハイム物語
fb1e6187.jpgカール・ユーハイムが青島から捕虜として連行された先は、大阪捕虜収容所であった。1915年9月。この時、約5,000人のドイツ人捕虜を収容するため日本全国に16の収容所が用意されていた。大阪には540余人。実際、捕虜は特に何をするわけでもないが、長い戦争が終わらないと処遇が決まるわけでもない。さらに、当初はドイツの勝利を疑わなかった捕虜も徐々に憂鬱の度を増していくことになる。中には、ノイローゼになったり、見込みのない脱走に走るものが多発するようになり、カール自身も一日中、物思いにふけることがあったようだ。

実際、こういう状況は日本政府にとっても困った問題になっていた。単に、戦機を捉え領土拡大に走ったものの、長期にわたる捕虜の収容など想定していなかったわけだ。そのため捕虜たちの気晴らしのため、いくつかの企画が行われるようになる。例えば、2000坪の空地が用意され、フットボールが行われたり、一部の職人が大阪市内のパン工場に働きに出ていたりしている。少し後になるが徳島県の坂東収容所でベートーベン第九交響曲が本邦初演という記録もある(近く映画が上映されるらしい)。

そして大阪ではクリスマスパーティが計画されたのだ。といってもドイツではないので、とりあえずたいしたことはできない。舞踏会、音楽会、仮装行列といった企画が立てられたのだが、カールが菓子職人であることを知っているものから、クッキーが焼けないか?と提案があった。パン工場へ働きにいっているものが、小麦粉と砂糖を調達し、寒さよけに使われていた七輪で、スペコラチウスという人形型のクッキーを焼いたのだが、これが非常に好評で、この日以降、収容所内で各種ドイツ菓子が作られていくのである。ただし、バウムクーヘンは無理だ。

戦局は、その後膠着状態になる。一つの動きはアメリカの参戦。1917年2月。もう一つはロシア革命である。1917年。ドイツが仕組んだ特別列車でスイス亡命中のレーニンをモスクワに送り込む。革命の混乱の中、1918年3月3日、ロシア(ソ連)はドイツと単独講和。このため、ドイツは再び息を吹き返し、西部戦線に集中するが、結局連合国軍の前に屈服。1918年11月11日。戦争終結。

一方、世界は第一次大戦末期にもう一つの大惨事に見舞われていた。スペイン風邪だ。インフルエンザの大流行に人類が初めて見舞われる。世界人口の半数が罹り、死者は4000万人から5000万人と推定される。第一次大戦の戦死者数は、軍人900万人、民間人1000万人。第二次大戦の死者は、軍人1500万人、民間人3800万人と言われるのだが、わずか2年のインフルエンザはこれらに匹敵する犠牲を出している。

そのため、狭い収容所でインフルエンザが流行した場合、まったく対応困難となるため、大都市大阪から捕虜収容所は瀬戸内海の小島に移転することとなった。広島県似島(にのしま)。もともと日本軍の検疫所があった孤島である。まったくさびしい限りである。そして、ここでも捕虜たちは退屈の限りであったのだが、彼らの高い技術を見込んで、広島市でドイツ物産展が開かれたのだ。展示即売会だったそうだ。手芸品、家具、ハム、ソーセージとならび、この時、ドイツ菓子も出展。そして、カールの念願でもあったバウムクーヘンが焼かれている。この時の日本人のカールの菓子に対する高い評価が、彼に日本での開業を意識させたのである。

そして、この時、展示会が行われた場所は、「物産陳列館」という建物であったのだが、今でも残っている。原爆ドームだ。

その後、1917年11月に第一次世界大戦が終わり、捕虜がすぐに釈放されたかというと、そうはならなかった。欧州の列強に米国、日本が加わり、長い長い戦後体制をめぐる会議が始まる。パリ講和条約の交渉は1920年8月までかかってしまう。途中、カールら捕虜の釈放が行われたのは1918年11月。原則はドイツまたは青島へ送還されるのだが、エリーゼとの手紙では、青島ではとても営業できないとのこと。また荒廃して領土の狭くなったドイツに帰っても生活できないという状況とのこと。カールはひとまず妻子を日本に呼び寄せることとした。日本で生活するか、米国へ行くかはまだ決めていなかった。

1919年1月25日、神戸港にエリーゼとカールフランツ(ボビー)・ユーハイム上陸。カールとボビーはこの時、初めて顔を合わしたのだが、ボビーは毎日、エリーゼからカールの写真を見せられていたということだ。

時にカール32歳。そして、さらに彼らの運命はねじれていくのである。