1923年9月1日の関東大震災のあと、東京、横浜に居住していた外国人の多くは、神戸に避難をしている。行方がわからなくなった9歳の長男ボビーを残し、カールとエリーゼの夫妻は生後2ヶ月の長女ヒルデガルドとともに英国船ドンゴラ号で神戸へ到着。9月6日に到着すると、とりあえず同胞で神戸塩屋のウィット宅へ間借りすることになる。
その時、家族を支えたのは、妻のエリーゼだった。長女の世話、傷ついた夫の介抱、さらに、長男ボビーの消息を知るため、連日横浜から到着する避難船の間を駆け回り、情報を求める。そして、夫妻への果報は9月10日、横浜からの最終便がもたらした。フランス人たちがフランス船籍で到着。待合場所のオリエンタルホテルに最後の望み持ち向かったエリーゼの前に、ボビー・ユーハイムが現れた。
横浜の店舗で父の救助のため、助けを求めるうちに煙に追われ、現在、横浜球場のある横浜公園に逃げ込むしかなく、そこで二晩を過ごしたということだった。そこを、ユーハイムの馴染み客の、あるフランス人夫人が見つけ、自分のこどもということにして、神戸まで連れてきたということだった。(実は、この時の横浜の瓦礫を海に埋めたことによって生まれた土地が、現在の山下公園である。そして、第二次大戦の横浜空襲の時は、この横浜公園で多くの市民が亡くなっている。)
奇跡的に家族全員が助かったのだが、とりあえず、無一文になったわけだ。そして、新たな職を探し始めたカール・ユーハイムの前には、神戸トーアホテルのコックとして、従業員になるしか道はないような状況であったのだ。さらに、カールはもう一度、横浜に戻っている。そして、瓦礫の山になった元の自分の店舗で営業することが、事実上困難なことを確認している。まさに壁にぶつかってしまったように思えた。
ところが、ここから、いくつかの幸運が始まる。まず、三ノ宮の近くで、横浜時代からの顔見知りであるロシア人舞踏家であるアンナ・パブロバ夫人と出会う。その時、彼女はなぜか、空家情報を持っていた。三宮一丁目電停近くにある三階建ての建物である。彼女はカールに強く出店を求める。そして、彼にとって、この願ってもない話を実現するには、まず金の工面であったわけだ。
まず、震災に伴う「万国救済資金」を1,500円調達。さらにドイツ救済基金からも1,500円。さらに、原料の仕入れ先として、横浜時代からの業者から商品代1,000円までは貸付という形をとることに成功。ようするに自己資本比率0%で勝負しようとしたわけだ。新たな店名として、ユーハイムズを選ぶ。ユーハイムの後に夫妻で経営するという「S」を付けた。当然ながら、開店前は、またしても過去数度あったように麻袋の上で眠ることになる。
そして、開店と同時に菓子はどんどん売れていく。初日の売上は135円だったそうだ。2週間で、仕入れ業者からの借りの1,000円を返済終了。横浜店の壊滅の結果、故郷静岡に戻っていた、タムラチーフを呼び寄せる。今度は日本人ばかりのベガ(職人)さんとなる。さらにラッキーが続く。万国救済資金から借りていた1,500円が返済免除になる。
そして、開店後1年たち、1924年には、大阪、神戸のいくつかのホテルから購入の申し込みが入る。さらに代理店として、ユーハイムの看板で洋菓子を売る小売店も登場。製菓能力が間に合わず、ついに、店舗の近くの土地を借り工場を建てる。競合店がまだなかったこともあり、経営は好調であった。
しかし、日向の次にくるのが夕焼けであり、さらに深い夜であるように、ユーハイムも徐々に影に包まれていくのだ。
最初の不幸は1925年3月22日。2ヶ月前、高熱で倒れた長女ヒルデガルドが闘病むなしく他界する。さらにカールは右目の下にできた腫瘍が拡大してくる。そして、娘を失ったエリーゼは精神失調に陥る。長男ボビーは学校からは素行不良と注意を受けることになる。家族の崩壊の危機だったのだが、カールの選んだ選択は、妻子を一時、ドイツに帰すことであった。
エリーゼをクーベンツスタインのサナトリウムに入院させ、ボビーはドレスデンのキリスト教系の学校へ入れる。結果、その甲斐あって、1年でエリーゼは退院し、1927年3月、再び日本に帰ってくることができた。そして、夫妻は、はじめて店舗以外の場所に住居を構えることになった。熊内八幡の近くである。さらに、カールは懸案だった眼球下の腫瘍の摘出手術を受ける。当時神戸にいたヘヤテル医師の執刀による。
そして、手術は成功。次に訪れる危機は経営上の問題だった。それまでは、ユーハイムから菓子を仕入れて売る店が多かったのだが、神戸大丸が洋菓子部門を始めると、大丸のブランドに押されるようになる。さらに競合店が次々に生まれる。「洋菓子のヒロタ」もその一つだ。さらに、当時、ピラミッド・ケーキと言っていたバウムクーヘンの製作技術がいつの間に他社に漏洩してしまう。人の好いタムラ・チーフが他社に教えてしまったのだ。(なぜ、ピラミッドケーキという名前だったか、よくわからないが、開店当時の店内の写真の奥の棚に展示してあるバウム・クーヘンは「円筒型」というより「円錐型」に近い。そこが味の秘伝だったのかもしれない。)
その経営危機に際し、彼らがどうしたかというと、ベガ(職人)の入れ替えを行なったそうだ。タムラチーフが知り合いを頼み、全国から新しい職人を採用したということだ(リストラ?)。最後は、その妥協を許さない本場の味で勝負することになる。1930年には、天皇の神戸来訪時にの食後のテーブルにのるケーキとして、ユーハイムが納品している。なんとか経営危機は免れ、その頃から「神戸のユーハイム」は、「日本のユーハイム」へと拡大していったわけだ。
ところがユーハイムが神戸で苦闘をしている間に、世界情勢には大きな変化が始まっていた。1931年5月。ドイツ総選挙で、ナチスが第一党となる。カール・ユーハイム44歳、エリーゼ39歳、ボビー15歳。
その時、家族を支えたのは、妻のエリーゼだった。長女の世話、傷ついた夫の介抱、さらに、長男ボビーの消息を知るため、連日横浜から到着する避難船の間を駆け回り、情報を求める。そして、夫妻への果報は9月10日、横浜からの最終便がもたらした。フランス人たちがフランス船籍で到着。待合場所のオリエンタルホテルに最後の望み持ち向かったエリーゼの前に、ボビー・ユーハイムが現れた。
横浜の店舗で父の救助のため、助けを求めるうちに煙に追われ、現在、横浜球場のある横浜公園に逃げ込むしかなく、そこで二晩を過ごしたということだった。そこを、ユーハイムの馴染み客の、あるフランス人夫人が見つけ、自分のこどもということにして、神戸まで連れてきたということだった。(実は、この時の横浜の瓦礫を海に埋めたことによって生まれた土地が、現在の山下公園である。そして、第二次大戦の横浜空襲の時は、この横浜公園で多くの市民が亡くなっている。)
奇跡的に家族全員が助かったのだが、とりあえず、無一文になったわけだ。そして、新たな職を探し始めたカール・ユーハイムの前には、神戸トーアホテルのコックとして、従業員になるしか道はないような状況であったのだ。さらに、カールはもう一度、横浜に戻っている。そして、瓦礫の山になった元の自分の店舗で営業することが、事実上困難なことを確認している。まさに壁にぶつかってしまったように思えた。
ところが、ここから、いくつかの幸運が始まる。まず、三ノ宮の近くで、横浜時代からの顔見知りであるロシア人舞踏家であるアンナ・パブロバ夫人と出会う。その時、彼女はなぜか、空家情報を持っていた。三宮一丁目電停近くにある三階建ての建物である。彼女はカールに強く出店を求める。そして、彼にとって、この願ってもない話を実現するには、まず金の工面であったわけだ。
まず、震災に伴う「万国救済資金」を1,500円調達。さらにドイツ救済基金からも1,500円。さらに、原料の仕入れ先として、横浜時代からの業者から商品代1,000円までは貸付という形をとることに成功。ようするに自己資本比率0%で勝負しようとしたわけだ。新たな店名として、ユーハイムズを選ぶ。ユーハイムの後に夫妻で経営するという「S」を付けた。当然ながら、開店前は、またしても過去数度あったように麻袋の上で眠ることになる。
そして、開店と同時に菓子はどんどん売れていく。初日の売上は135円だったそうだ。2週間で、仕入れ業者からの借りの1,000円を返済終了。横浜店の壊滅の結果、故郷静岡に戻っていた、タムラチーフを呼び寄せる。今度は日本人ばかりのベガ(職人)さんとなる。さらにラッキーが続く。万国救済資金から借りていた1,500円が返済免除になる。
そして、開店後1年たち、1924年には、大阪、神戸のいくつかのホテルから購入の申し込みが入る。さらに代理店として、ユーハイムの看板で洋菓子を売る小売店も登場。製菓能力が間に合わず、ついに、店舗の近くの土地を借り工場を建てる。競合店がまだなかったこともあり、経営は好調であった。
しかし、日向の次にくるのが夕焼けであり、さらに深い夜であるように、ユーハイムも徐々に影に包まれていくのだ。
最初の不幸は1925年3月22日。2ヶ月前、高熱で倒れた長女ヒルデガルドが闘病むなしく他界する。さらにカールは右目の下にできた腫瘍が拡大してくる。そして、娘を失ったエリーゼは精神失調に陥る。長男ボビーは学校からは素行不良と注意を受けることになる。家族の崩壊の危機だったのだが、カールの選んだ選択は、妻子を一時、ドイツに帰すことであった。
エリーゼをクーベンツスタインのサナトリウムに入院させ、ボビーはドレスデンのキリスト教系の学校へ入れる。結果、その甲斐あって、1年でエリーゼは退院し、1927年3月、再び日本に帰ってくることができた。そして、夫妻は、はじめて店舗以外の場所に住居を構えることになった。熊内八幡の近くである。さらに、カールは懸案だった眼球下の腫瘍の摘出手術を受ける。当時神戸にいたヘヤテル医師の執刀による。
そして、手術は成功。次に訪れる危機は経営上の問題だった。それまでは、ユーハイムから菓子を仕入れて売る店が多かったのだが、神戸大丸が洋菓子部門を始めると、大丸のブランドに押されるようになる。さらに競合店が次々に生まれる。「洋菓子のヒロタ」もその一つだ。さらに、当時、ピラミッド・ケーキと言っていたバウムクーヘンの製作技術がいつの間に他社に漏洩してしまう。人の好いタムラ・チーフが他社に教えてしまったのだ。(なぜ、ピラミッドケーキという名前だったか、よくわからないが、開店当時の店内の写真の奥の棚に展示してあるバウム・クーヘンは「円筒型」というより「円錐型」に近い。そこが味の秘伝だったのかもしれない。)
その経営危機に際し、彼らがどうしたかというと、ベガ(職人)の入れ替えを行なったそうだ。タムラチーフが知り合いを頼み、全国から新しい職人を採用したということだ(リストラ?)。最後は、その妥協を許さない本場の味で勝負することになる。1930年には、天皇の神戸来訪時にの食後のテーブルにのるケーキとして、ユーハイムが納品している。なんとか経営危機は免れ、その頃から「神戸のユーハイム」は、「日本のユーハイム」へと拡大していったわけだ。
ところがユーハイムが神戸で苦闘をしている間に、世界情勢には大きな変化が始まっていた。1931年5月。ドイツ総選挙で、ナチスが第一党となる。カール・ユーハイム44歳、エリーゼ39歳、ボビー15歳。