(3)御成街道(千葉)
千葉の御成街道だが、船橋から東金まで一直線の道だ。現在でも約90%は残っている。切れているところは、自衛隊の基地、ゴルフ場が二か所といったところだ。現存の道路の道幅は6~8mで、江戸初期としては十分だっただろう。
ではその直線道路は何のためにできたのかというと、家康が東金市に狩場を作り、鷹狩に行くためだった。記録によると、1614年1月9日から8日間と1615年11月17日から9日間、鷹狩のため江戸を離れている。注目すべきは第一回目の鷹狩の年の暮れに大坂冬の陣、翌年の鷹狩の前に大坂夏の陣があった。つまり、二回の鷹狩の間に豊臣勢を殲滅させたわけだ。
では、家康はどうやって船橋まで行ったのか。将軍の鷹狩なので百人規模だったのではないかと想像。部隊の大部分は陸路(現在の千葉街道)と思われるが、家康は舟を使ったのではないかと推測している。城内から船に乗れるのか城外に出て乗るのかわからないが、船橋は東京湾の最奥に近い。堀割を使って、海に出て、沿岸を航海すれば楽だし、早いし、さらに安全だろう。
本件とは別だが、幕末に三田の薩摩藩蔵屋敷での西郷×勝会談でも勝海舟が和平反対の幕軍の中をどうやって会談場所にたどり着き、さらに無事に江戸城に帰り着いたかというと、船でいったん海に出てから行ったのではないかと推測している。薩摩藩蔵屋敷は薩摩藩が江戸の物流拠点として桟橋も完備していた。
ということで、出発点の船橋、千葉、土気そして東金には御殿が立てられていて、地名にも御殿町と残っている(千葉には御殿が二つあったという説もある)。
そして、二度目の鷹狩の最後の宿泊地が船橋御殿。ところがこの夜、市中に大火発生、町のほとんどが焼け落ちたにもかかわらず、船橋御殿だけは焼け残ったと記録されている。
その後、鷹狩の記録はない。
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