カール・ユーハイム物語(2)

2006-01-18 00:01:35 | カール・ユーハイム物語
0505a790.jpg20歳になった彼に持ちかけられた話。それは、菓子店協会のボスからの依頼なのだが、地球の裏側にある、青島で菓子職人を捜しているという求人話だった。

この青島だが、1897年にドイツ人神父2名が殺害された事件にことを発し、ドイツ軍が占拠し、翌1898年に独清条約で99年間の租借を規定したもので、多くのドイツ人が移住していた。

カールは、まだ20歳。新天地までは、ベルリンからモスクワまで「ショパン号」という特急列車に乗り、そこからシベリア鉄道に乗らなければならない。ただ、シベリア鉄道は数年前まではバイカル湖の手前で一旦終了し、船で湖を渡りさらに乗り換えなければならなかったが、日本との戦争が近づいた1905年に前線開通していた。そして、満州から中国領内に入り、出発から約2週間をかけ、ドイツ軍が入ったばかりの青島(チンタオ)へ到着することができた。1906年の末だった。

最初はプランペック氏の経営する洋菓子店の店員としてだ。当時、ドイツでは菓子職人は免許制で、一定の技術に達すると資格が与えられることになっていた。特に、バウムクーヘンは、完成までの行程が複雑で、約3日間寝ずの番が必要という大作業であり、バウムクーヘン焼き職人は寿命が10歳短い、とも言われていた。カールがその資格を取得したのは25歳のこと。そして、彼は一旦、ドイツに帰る。目的は花嫁探しだった。

当時の世界の状況を思えば、どこの国でも国力=人口という考え方が一般的であったわけで、カールのような海外での単身生活者がいると、たちまち世話人があらわれる。どういう縁か彼に紹介されたのは、エリーゼという22歳の女性なのだが、両親を早く亡くして商業学校に通っていたそうだ。そして、ドイツらしいのは、お見合いの場で出てくるのが「ビール」。緊張のあまり、飲みすぎて思いもかけないことをカールは言ってしまう。「青島は田舎だが、もう少し資本を集めて、米国進出するつもりだ」と・・・

そして婚約した足で一足先にカールは青島に戻る。そして、以前の店から独立し、「ユーハイム」という欧州風の菓子と喫茶店の経営を始める。心は既に、アメリカ行きを決意していた。そして遅れてエリーゼが、シベリア鉄道を乗り継ぎ到着。そして彼らは、将来の無限の夢のため、青島の教会で結婚式を挙げることになる。

しかし、二人が結婚式を挙げた日、1914年7月28日は、ドイツがフランス・ロシアに宣戦布告した第一次大戦開戦日のわずか5日前だったのだ。

ドイツが戦争準備する間に、抜け目なく行動していた国があった。「日本」だ。日英同盟を結び国力の増強時期ととらえ、密かに遼東半島のドイツ権益を狙っていたわけだ。早くも開戦後4日目の8月4日には、英国と同時にドイツに宣戦布告。8月23日には青島攻撃が始まった。守備すること二ヶ月強。ついに11月7日午前3時。ドイツ軍青島守備隊降伏。

そして、日本軍が上陸。この時、カールとエリーゼはどうなったかというと、カールは他の一般人男性と一緒に市内のある場所に集合させられたわけだ。そして、一旦、帰宅する。本来、一般市民に対する保護は国際条約で規定されているわけで、そのまま市民生活を送ることができるはずなのだが・・・

事実は、ドイツ兵4,300名のうち、戦死者800名を除く者が捕虜として日本国内に移送されていったのだが、その後、約1年をかけ捕虜が徐々に追加されていく。非戦闘員であるカールがエリーゼと別れて捕虜の扱いを受け、日本に送られたのは1915年9月20日とされる。なぜ、非戦闘員を日本が連行したかは、よくわからないし、その後の第二次大戦で同盟国だったこともあり、追求されることはなかったのだが、三つの推定原因が考えられる。

まず、日本側には青島攻略時に戦闘ではなくチフスによる病死者が多数出たそうで、捕虜の数を膨張させて犠牲に対するバランス上、戦果を水増ししたという可能性だ。そして、二つ目はドイツ市民であるということが、何らかの予備役という性格だったという可能性だ。そして日本に連行されたものの多くが技術を持ったものであることから、産業移入あるいはドイツの産業レベルの破壊、といった意図性があったという説である。いずれにせよ、戦闘状態の時に兵士でなかったものまで、多くの男子が捕虜となった。

そして、カールが収容されたのは、当時、大阪市西区恩賀町にあった捕虜収容所である。その時の彼の最大の悲嘆は、身ごもったまま青島に一人取り残されることになった妻エリーゼのことであったことは想像に難くないのである。  

カール・ユーハイム物語(1)

2006-01-18 00:00:59 | カール・ユーハイム物語
71e6b95c.jpgバウム・クーヘンという洋菓子がある。先年末にも年始用の手土産を求め、近くの百貨店に行ったところ、二つの専門店で売られていた。一店はユーハイム。何と言っても老舗はユーハイムのバウムクーヘンだ。固さといい歯ざわりといい、甘味の奥ゆかさといい、他の追随を許さない。そして、なんとなくこのユーハイムというブランドは、海外の有名な洋菓子店からの輸入と思っていたのだが、数年前、日本の老舗に関する書籍を読んでいた時に、ドイツ人であるカール・ユーハイム氏の手で日本で生まれたものだと知った。

しかし、その時には、まだ、このドイツ人の極めて数奇な運命のことなど知る由もなかった。

彼の誕生は119年前。非常に細い糸をさぐるように彼の履歴を追っているうちに、彼の人生が20世紀を象徴するような戦争の歴史の織物の中に潜む金色の糸であったことがわかってきた。

実は、彼の人生のステージは数多くの場所で展開する。祖国ドイツ、中国遼東半島、大阪、広島、東京、横浜、そして神戸だ。本来ならば、できるだけ多くの場所に足を運び、実感をもって書き綴りたいとは思うのだが、何しろエリアは広いし、さらに歴史は遠くかすんでいる。特に神戸には多くの関連する場所があるのだが、そのあたりは、機会があれば後日訪れてみたいとは思っている。かなり調べてから行きたいという気持ちもある。

まずは、彼の人生を時系列に沿って追いかけ始めることにする。

71e6b95c.jpg1886年12月25日。今から119年前、ライン川に沿うドイツの小都市、カウプ・アム・ラインに少年が生まれた。カール・ヨセフ・ウィルヘルム・ユーハイム。つまり、カール・ユーハイムは、小さなビール工場を経営する父フランツと母エツ・マー・ベアーバンズの間の10番目のこどもだった。さらにこの両親にはあと3人のこどもが生まれる。さして、大きくないビール醸造所に13人の子沢山では、そう満ち足りた少年時代を送ったとも思えないが、逆にそれが彼が海外に出て行った理由なのでもある。

ところで、バウム・クーヘンは、木の切り株のような模様のケーキである。ドイツ語でバウム=木、クーヘン=菓子である。そして、このケーキはまさに日本の年越蕎麦のように、ドイツではおおみそかになくてはならないものだった。

そして、クリスマスの少し前になると、グリム童話にも登場する「お菓子の家のミニチュア」が菓子屋の店頭に並ぶそうだ。ドイツでは「菓子店」というのはかなり大きな市民権を持っていて、重要産業なのである。日本でも有名和菓子店は起源を江戸時代に遡れる。

そして、子沢山のユーハイム家の菓子店購買担当はカール少年だったそうだ。そして、その縁があったのかカールは菓子店職人の見習いとなるのだが、人生最初の転機が16歳で訪れる。父親がビール工場で崩れたビール樽の下敷きになり重傷を負う。そして、1年後、ついに亡くなってしまう。工場の経営は、兄たちが引き継いだものの、カールはもはや自立するしかないと考えるようになる。そして、3年後の20歳になった時、新たな展開が始まる。  

ライブドアが狙われたタイミング

2006-01-17 21:30:30 | MBAの意見
まもなくUPする「カール・ユーハイム物語」執筆準備中なので、深く書くことはできないのだが、個人投資家の多くが読む、「キッチンカブー」1月17日号の無料ホームページ部分の記事「こだわりブレックファースト」を紹介。17日朝7時30分発信。もちろん、当該記事について、まったく私には責任がないことを付け加えると同時に、livedoor blog が突然消滅しないことを祈ることにする。では。

**********************

:本日のこだわり相場感 ◎ 目先波乱も影響は限定的か 「ライブドアに対する東京地検特捜部の強制捜査」と言うニュースが今朝の最大の市場の話題になっていますが、誰が考えても裏で画策された仕業であると考えられます。誰が仕組んだのかは分かりませんが、ホリエモンをよく思って居ない大物政治家が居たのかも知れません。それを知りえる業もありませんし、今後もその事実は闇に隠されたままになるのでしょうが、日本の昔からの風土と言う事になるのでしょうか。更にもう少し突っ込んで考えますと、本日午後に耐震偽装問題ヒューザーの社長が証人喚問が行われますが、その話題を最大にそらす意味では、このライブドアの強制捜査は大きな意味があるようです。 

どうして証人喚問が月曜日ではなく火曜日17日に行われたかと言うと、丁度17日は阪神淡路大震災の記念日に当たりますから、この面でも社会の目が他にそらされると言う事になります。もし、これが事実であるとすれば、ヒューザー社長の証人喚問が余程避けたいものであると言う事が考えられます。政治の世界ではよくあることですし、日本に限らず世界各国でも同様の事が行われている事を考えれば、仕方ないことなのかも知れません。大きな権力を持った人間に逆らうとなればそれなりの覚悟が必要ですが、それに抗する人物は今のところ現れて来ないようで、今後も同様の現象が行われでしょう。

 トレードの森の中のコンテンツ(弊社有料情報サイトカブーフレンズ)でも誰かが言っていましたが、昨日の後場に急速に値を消す銘柄が増えていたようで、昨晩のライブドア強制操作のニュースを既に知っていたかのような商いも見受けられたようです。本音の事を言えば、そのような商いをする者こそ取り締まって欲しいものですが、そうは行かないのでしょう。いずれにしてもライブアド問題は本日の相場のかく乱要因になる事は確かです。ライブドアはどうなるでしょうかと言う問い合わせが多く頂きますが、それは市場が決める事です。実際に目先のニュースを受けて、個別のライブドア株と関連銘柄は売り物が嵩むことになります。これが同様のM&Aを進めてきたような、新興市場株に波及するどうか、そしてそれが、1部市場などに影響を及ぼすかと言う事が注目となります。個人的な見解を申し上げますと、少なくとも本日は新興市場を中心にどうしても影響が避けられないと言う事になると思われます。ただ、明日以降まで続くかどうかとなれば分かりませんが、早ければ、本日の後場辺りからは希望的な観測の意味でも落ち着いた動きになるのではないかと思っています。**************

追記ライブドア強制捜査、武部幹事長「遺憾の極み」(読売)・見切り千両、損切り万両「小泉首相にも責任ある」 亀井氏(共同通信) ・・犬の遠吠え

モーツアルトイヤー

2006-01-16 21:50:40 | 音楽(クラシック音楽他)

dcc524e5.jpg2006年はにぎやかだ。まず、ワールドカップイヤー。それにトリノ五輪。そして忘れてはならないのが、モーツアルトイヤーだ。1756年1月27日生まれなので、生きていれば今年250歳になる。が、普通、世間の常識ではそうは言わずに、「生誕250年祭」という。

ところで、ちょっと前にもモーツアルトイヤーがあって、CDをたくさん買った記憶があるのだが、それは、「没後200年記念」だったわけだ。1791年12月5日没だから、1991年のことだったのだろう。早15年。

実は、モーツアルトは35歳で亡くなってしまったので、こういうように没後メモリアルと生誕メモリアルが15年で来るのだが、今年の生誕250年祭の次は、没後250年ということになり、35年の間隔になる。生誕と没年のそれぞれを50年刻みで祝っていくと、こんなことになる。

1991(没200)、2006(誕250)、2041(没250)、2056(誕300)、2091(没300)・・・

これでは、メモリアルイヤーの間隔が、15、35、15、35、15、・・・ということになる。本当は25歳か75歳で亡くなられれば等間隔になったのだが、それでは何とかならないものかと考えてみた。つまり逆算すると彼が17か18歳の時のイベントを見つけることができれば、きれいに50年間に3回、均等にお祭りができるわけだ。

そして、あれこれ考えて探し出したのが、K.183、交響曲第25番ト短調。1773年10月10日に完成した。モーツアルト17歳の作品。交響曲第25番は、後年の第40番ト短調としばしばセットで「小ト短調」と呼ばれるのだが、最初の大名作交響曲と言われる。最初の才能の大爆発という意味で、何か「聖ト短調イヤー」とかならないものだろうか。

そしてこの25番には通称がないので、番号で呼ばなければならないのだが、モーツアルトには同様に、あの交響曲の横綱ともいえる「交響曲第40番」にベートーベンの「運命」のような通称がついていないことも不思議だ。そして、このなぜ通称がないのかということを論じた諸説は多いのだが、いずれもパリッとしない。例えば、38番には「プラハ」と名前がついている。39番には名前がない。次の41番には「ジュピター」と名前がついている。現代の通常のアンケートなどでは、まず40番とベートーベンの運命が人気を二分する。なかなかこの問題は解けないのだが、私なりに妥協的な答えを用意すれば、「名前をつけるまでもなく、有名」ということなのかとも思うし、もう少しふざけた言い方をすれば、40も交響曲を作曲する人間は他にはいないから、「40番」と言えば、他の作曲家と区別できる、ということぐらいか・・

ところで、話は代って、このモーツアルトを「釣り餌」として、旅行会社がモーツアルトツアーを設定している。例えばJTBのパンフレットは華やかなのだが、ちょっと標準的なコースプランを紹介してみる。
1日目:フライト
2日目:モーツアルトディナーコンサート(室内楽付き夕食)
3日目:お土産に有名なモーツアルトクーゲルンとピアノの旋律の似合うウィーンのカフェ
4日目:高さ32メートルの自然史博物館屋上からウィーン市内を一望
5日目:体験型博物館「音楽の家・ウィーンフィル博物館」入場観光&ワイン造り酒屋ホイリゲで楽士の奏でるバイオリンやアコーディオンの音楽とともに、ワインとハムとソーセージをつまみ、ウィーンの夜を楽しむ
6日目:フライト

*まったく、最初から5日目夜のコースに直行したいものだ。 


日本三位の庭、山本亭とは

2006-01-15 21:49:31 | 美術館・博物館・工芸品
e09b49e2.jpg2005年9月10日に弊ブログ3年連続日本一の庭園とは・・では、島根県安来市にある足立美術館をとりあげたのだが、その広大な敷地に遥かに広がる大庭園を日本一と採点したのは、米国の日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデン」。当時の日経記事を引用すると、

足立美術館(島根県安来市、足立隆則館長)の日本庭園が3年連続で「庭園日本一」に選ばれた。米国の日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデン」が2003年に始めたランキング調査によるもので、今年は国内693カ所の庭園を対象に実施した。 同誌は「細部まで維持管理された造園の大傑作」と論評し、2位に桂離宮(京都市)、3位に山本亭(東京・葛飾)を選んだ。

実は、その時から気になっていたのだが、1位の他、2位の桂離宮はメジャーであるのだが、第三位の東京葛飾の山本亭。なにしろ693庭園の中、第三位。しかし、東京には数多く名園がある。まあ、書き連ねるのも面倒なので省略する。京都の寺院にも各種庭園がある。さらに日本三大名園というのもある。それをおいての三位。見に行く一手なのだが、ずいぶん遅れてしまった。何しろ、場所がわからない。というか調べなかったのだが。

e09b49e2.jpgそして、色々情報をとると葛飾の柴又にあることがわかった。となれば、「寅さん」に、「柴又帝釈天」に、「矢切の渡し」であるのだが、やはり山本亭というのは聞いたことがない。よくわからないが現地で対応ということにする。最寄り駅は柴又。京成電鉄の支線の柴又線(高砂-柴又の一区間しかない奇妙な線だ。)で柴又駅に着く。すると駅前には観光地図があり、いきなり帝釈天への門前通り。山本亭は帝釈天と寅さん記念館の間にあるようだが、私の頭の中には数万坪の足立美術館のイメージが刷り込まれているため、ピンとこない。

帝釈天は日蓮宗で、宗派違いのため軽い寄進にとどめ、裏口から外へ出ると、木造の旧宅が建っている。それが山本亭なのだ。どこにでもあるような、ちょっとした豪邸風だが、数万坪というわけではない。その建物に入るには入場料がいるのだが100円。足立美術館は2,200円。その差は何かと言うと、この山本亭は葛飾区が地元のお金持ち山本家から購入し、区民に庭園として一般公開しているからだ。だから、建物も歴史的建造物だし、庭園は「書院造り」になっている。ようするに、普通のお金持ちの家の庭という解釈で全面的に正しい。e09b49e2.jpg

庭面積は890M2(270坪)、建物は450M2(136坪)。建物の中では、抹茶や和菓子を所望することができるし、”ちょっと大正デモクラシー”という気分だ。外を眺めれば、縁側の近くに池を設け、背後には緑濃い植え込みと築山を用意し、さらに滝を落としている。典型的な書院庭園である。さらに緋鯉が悠然と泳ぐ。ただし、視界の中には、庭のすべてが目に入るので、まことに気ぜわしい。江戸城内の黒書院の前には小庭園があったとされるが、こういうものだったのだろうと思いをめぐらせてみる。

しかし、よくこの面積にこれだけ詰め込んだものだ、と感心するのだが、ふと、先日、外国人とよくビジネスランチをする方に聞いた話を思い出した。

「外人向けの和食で、一番無難で好まれるのは、”幕の内弁当”です。」

米国紙で評価が高いのも、この理由なのだろう。「幕の内庭園」。

ところで、都内三大書院庭園なるものがあると建物内の掲示板に記されていた。山本亭の他、墨田区の旧安田邸世田谷区の徳富邸だそうだ。亭の字と邸の字の差はよくわからない。また深みにはまりそうだ。  

能楽-舞囃子「草紙洗小町」を観て

2006-01-14 21:48:41 | 音楽(クラシック音楽他)

東京虎ノ門のJTビル。通称「タバコビル」(屋上に灰皿状のモニュメントがあるため、「吸殻ビル」とも呼ばれる)2階のJTアートホール「アフィニス」で、定期的に開かれる昼休みを利用した「アフターヌーンコンサート(無料)」で東京藝術大学在籍の学生たちによる能楽を観賞。

フルコースの能は1時間半ほどかかるが、そのクライマックス部分だけを演じる「舞囃子(まいばやし)」という形式。少しニュアンスは違うが、オペラの序曲を聴くような感じだ。楽曲が中心で、シテ役は能面ではなく素顔で紋付袴という出で立ち。所要時間は15分と短いので、前座で解説をしてもらった。

まず、能楽と一言で言った場合、能と狂言に分かれるそうだ。その二つの総称が能楽。そして、その能の中のダイジェスト版に楽曲を組み合わせたものを「舞囃子」というそうだ。演奏に使われる楽器は3種。大鼓(おおつづみ)は直径が40センチほどの太鼓で、演奏前に馬の皮を炭火で炙り、乾燥させた上、桜でできた胴に麻紐で硬く締め上げる。手のひらでたたくのだが、甲高く拍子木のように乾燥音になる。次に小鼓(こつづみ)。直径25センチ程か。大鼓と逆に、皮に湿気を与え、弛ませてたたく。いくつもの音色を出すために技巧が特に必要。そして能管(のうかん)という横笛。音程がわざとずれるような音色で、幽玄の味をだすそうだ。そして、調子の合の手を、ハアッ、ホッ、と入れる。そして、地唄が入る。

音楽としては、これだけの仕掛けで大音量だ。以前、雅楽を聴いたときも、少ない楽器で大音量が出ると思ったが、和楽器の特徴かもしれない。基本的には、和音より一人一人の節が重要とされるのは、この少人数制のせいかもしれない。

そして出し物は「草紙洗小町(そうしあらいこまち)」。実は、この話が面白い。ストーリー上の主要登場人物は主役ニ人に脇役は帝と紀貫之の二人。

まず、小野小町(おののこまち)。才色兼備の世界三大美女の一人。ただし、百人一首のカルタでは後ろを向いていて、顔を出し惜しみしている(どこかのブロガ-のように)。能の世界では、前半の才色兼備の時期と後年(寿命90歳以上という説がある)落ちぶれて、放浪の身になったという伝承による老年期の話がよく登場するらしい。実際には、天皇の更衣だったとする説が強く、したがって老年に放浪などしなかったはずだ。

 おおた註:この百人一首のカルタで小町が後ろを向いているというくだりは、Wikipedia「小野小町」からの援用なのだが、カルタの多くは、小野小町にこちらを向かせて顔を描いている。例えば、白洲正子著「愛蔵版・私の百人一首」の中で元禄時代作として公開されているカルタの写真でも小野小町はこちらを向いている。しかし、それが、気に入らないのか88番皇嘉門院別当、89番式子内親王は完全にむこう向き、62番清少納言は80%むこう向きとなっている。女の世界は難しい。

次に大伴黒主(おおとものくろぬし)。六歌仙の一人とされるが、古今和歌集仮名序に「大伴黒主はそのさまいやし。いはば薪を負へる山人の花の陰にやすめるが如し」と評される。早い話が、陰険男だったらしい。(「いやし」、というのは「いやしい」という意味で、「癒し系」という意味ではない)

ある時、この二人が、宮中で帝の前での歌合せで対決することになった。しかし、どうみても黒主には勝ち目がない。そのため前日になり、黒主は小町の館に忍び込み、朗詠を練習中の和歌を盗み聞く。そして、事件は歌合せの当日起こる。つまり、いくら黒主が小町の和歌を先に知っていたとしても、それ以上の和歌を作らなければせっかくのスパイ行為も実らないのだが、なんと黒主は、小町が詠んで帝の御意に叶った歌について、「その歌は、万葉集にある”読み人知らず”の古歌の盗作である」と因縁をつけたわけだ。

そして、動かぬ証拠として、手元から万葉集の草紙版を取り出すと、そこに小町が詠んだ歌が記されていたわけだ。万葉集は膨大な規模で、だれも全部は知らないだろうという読みだったのだろうが、それなら、都合よくその部分の草紙を持っていたことは、どう説明するのだろう。

そして、その草紙を、当日の審判の紀貫之を含めた関係者が取り囲み、押し問答をするうちに、聡明な小野小町が「そこだけ、墨色が新しい」と発見したわけだ。そして紀貫之が、草紙を水で洗ってみると、まだ墨が草紙に染み込んでいなかったため、小町の歌だけが流れ落ちてしまい、黒主の悪計が発覚(ファン・ウソック教授のような話だ)。

黒主はその場で悪事露見を恥じ、自害しようとするが、小町も帝もこれを許した、という筋立てだ。

これを現代的な法律にあてはめると、
小町の館に侵入-->住居侵入罪
歌を盗聴    -->適用法なし
草紙偽造    -->著作権法違反
自害しようとする-->銃刀法違反
盗作疑惑をかける-->詐欺? 名誉毀損

調べているうちに、現代日本には「盗聴」を直接的に違法とする法律がないことがわかった。盗聴器をとりつける行為とか、電話線を改造する行為には罪名がつくし、痴漢行為の一部として軽犯罪法が適用になったり、猥褻図書を販売したりすると法令違反になる。しかし、いわゆる「盗み聞き」は罪に問われないようだ。

それなのに、「盗聴法」という、捜査上、盗聴を認める法律ができた。そして、帝をもだまそうという行為は、戦前であれば、おそろしい法律に抵触した可能性がある。それは「不敬罪」だ。  


大型店の出店規制は、誰のため?

2006-01-13 21:47:36 | MBAの意見
282d1079.gif数々の外資系スーパーの日本上陸がうまくいかない中、2006年、超大型店舗が上陸する。”IKEA”。IKEA Styleを標榜し、世界32カ国に202店舗を展開する、家具を中心としたスウェーデンの総合インテリア企業。以前から、日本ではいくつかの家具店と代理店契約していたのだが、中国沿海部への出店とあわせ、日本へ大型店舗を持ち込む。1号店は千葉県。2号店は横浜港北地区。この2店が2006年度中で数年以内に、関東に4~6店舗、関西に4~6店舗という計画だそうだ。すでに神戸ポートアイランドにも用地を確保したそうだ。1店あたりの店舗総面積4万平米、売り場面積3万平米というのは、日本最大と言っているIDC大塚家具の有明店とほぼ同じ。それを約10店も作ろうというのだから半端ではない。まず、自宅に近い横浜港北店の建設現場に行く。第三京浜港北インターの出口から300メートルくらいの場所に巨大な建物が建設中だった。およそ3つのビルが横に繋がったような構造になっている。交通量が多いため、運転しながらではゆっくり見られなかったが、きわめて大きい建物だ。この場所は以前は、外車輸入のヤナセの整備工場や部品センターだったのだが、大きな建物を解体し、更地にしていたので、何ができるのかなと思っていた場所。ただし、周りには駅はないし、クルマでくるしか方法はない(無料送迎バスとかはできるのだろう)。2006年9月開業予定と掲示されていた。ついでに建築中のビルの鉄骨を見たら、上階より下階にいくにつれ、鉄骨は太くなっている。建築士は良心的だ。それに家具は重い。実は、自宅には、IKEA製品がいくつかある。ずいぶん前に苦労して買っていた。最高の家具というわけではなく、「中の上」といったところだ。そして、部屋の中に一つ買うと、もう一つ欲しくなり、さらにもう一つ・・ということになり、結局、トータルコーディネートされたIKEAの部屋ができあがる。そういう意味で、世界の家具を集めた大塚家具とはだいぶ戦略は違う。しかし、戦略が違うと言っても、ユーザーの室内のスペースには限りがあるから、競合関係にあるのは間違いない。では、有明出店後の大塚家具はその後、どういう戦略になったかというと、結構迷走を感じる。まず、三越の不採算店に目をつけ、三越閉店後の店舗を次々に入手し、1万平米クラスの店舗を出店する(横浜、新宿南、多摩センター・・)。実は、大塚家具横浜店にも行ったことがある。元は三越横浜。家の中の小さなコーナーに、飾り棚かワインセラーとか購入しようとしたわけだ。引越ししたあと、ダンボールに入ったままの、食器やカップやその他の雑貨品を片付けようと思ったわけだ。そして、大塚家具に入ると、まず大げさな受付があった。勝手に店内に入ってはいけないわけだ。そして、入口で会員登録しなければならない。さらに、店内を自由に歩き回れないように、見張り役のセールスマン(IDCインテリア スタイリスト)が同行することになる。ちょっと困ったことに、こちらの前提は、「サイズ」「価格」「色調」「デザイン」といったところだが、特に「サイズ」は最重要なのだ。あくまでも縦、横、高さが不一致だと意味がない。ところが、店員の受けている教育は、顧客のグレードを判断し、まず、行くべき階の行くべきコーナーを特定する、ということから始まるからうまくいかない。結局、不毛な会話を延々と続け、店員の知らない「家具製造上の手の抜き方」を逆に教授しながら、店内(確か、通しで4階分)を歩き回った末、徒労の半日が終わった。まさに三越商法だ。そして、その横浜の店舗も今はない。今度は、大型店舗を閉鎖して、小規模のショールームでカタログ販売を展開しようとしている。業界内ではこういわれている。「小塚家具」。そして、おそらく、IKEAの大進出の前に、手痛い被害を受けるだろうと思われていたのだが、突如、神風が見えた。といっても見えただけで、実現するかどうかは別物だが。1万平米以上の大型店舗の出店制限が2007年に法案化か?ということ。もともと大店法というのがあって2000年に廃止になったのだが、1,000平米以上の店には出店規制があった。中小商店の保護という自民党政策に沿ったものだったのだが、海外勢からの外圧で廃止になり、大店立地法に変わった。事実上、巨大店が自由化された。その結果、郊外に大型店ができたり、多くはつぶれたりした、というのは、ご存知のとおりだが、一方、駅前の中小店舗がやっていけなくなり、いわゆる「シャッター通り」が出現した。実は、大型店舗とシャッター通りの因果関係はまったく不鮮明なのだが、現在、大型店舗規制の話が沸きあがったわけだ。この辺の事情は、まったく不透明であり、2007年と言えば、「小泉以降」。鬼がいなくなったらすぐに邪鬼が踊り、「規制社会に逆戻り」というのでは、ガッカリの極みなのだが、いったいどうなるのだろうか。実際、一度下ろしたシャッターが開く日が来るとは思えないし、以前、1,000平米の規制時代に枠外であった日本のライトサイドとレフトサイドの資金源の一部である農協店舗と生協店舗が、再び規制の網から逃げ出すかどうかは一つの要注意点なのであろう。そして、もう一つ、渋谷道玄坂に土地を確保したヤマダ電機やこのIKEAが猛烈な駆け込み建設に走るのかどうか、これも注目点である。そして、その他の需要の裏づけのない大型店舗が続々と駆け込み出店を続ければ、再び、人為的な、郊外商戦が過熱化し、シャッターの売れ行きがどんどん加速することになるかもしれない、と推測。  

将棋指しの反則、そして必勝法

2006-01-12 21:46:31 | しょうぎ
25歳の二人の将棋指しが、25歳の自分について語ったブログがある。一つは女流棋士である石橋幸緒四段の「ごきげん・DE・ブログ」。昨年末の誕生日に「男性プロに勝つ!」と宣言している。そして昨年後半から絶好調である。鹿島杯と女流オープンの二つのカップ戦優勝。

そして、本人のブログをいくら読んでも書かれていないが、彼女は幼児の頃から、腸の手術を繰り返し、思うように栄養がとれなかったため、成長が遅れ、養護学校に通っていた。実は、12歳で女流2級のプロになってからも、まだ通っていたのだ。彼女の特技の「将棋」の世界で努力を重ねる母子の前に、いくつかのラッキーが重なり、今の地位を得たことは、本人の著書「生きてこそ光り輝く」に詳しく書かれている。逆に現在は、将棋界で最も元気娘だ。多くのブログ読者もそれらの事情を知って応援を続けている。

そしてもう一人は、以前取り上げた島村健一君の「強く優しく明るく正しく」。彼は、全国小学生名人と中学生名人の二つのタイトルを持ち、プロ棋士をめざしながら、奨励会二段で中途退会。23歳。プロになるには、三段に上がり、リーグ戦で年間4人の枠に入らなければならないが、年齢制限まであと2年を残し、自ら去った。先日、いったん退会した瀬川氏が35歳で特例でプロ入りしたが、これからもプロ入りを狙うと宣言している島村君の前に、今日現在、公式的な道は存在しない。少なくても、アマチュア大会でバリバリ活躍しない限り、まったくありえないのだが、とりあえず都道府県の予選を勝ち抜くために、競争の厳しい東京から転居するまでの決断はしていない。

実は、島村君がなぜ奨励会を途中退会したか、その理由を知りたいと思っていた。若い頃は様々な誘惑もある。競争相手も必死だから、基本的には友人はできないし助言もない。身分制度の厳しさから、そういう甘い罠に逃れていったのだろうか、と思っていたわけだ。しかし、彼自身がそれについて記していた。

ある日昇段の一番の将棋を二歩で負けました。そこから7連敗、奨励会を休会しました。

つまり、勝てば三段昇段という大事な将棋を「二歩」という反則で負け、心理的ショックが尾を引き、その後7連敗し、精神的なショックで休会。(その後、退会届けを出すに至る)この話を読んで、「天才少年も、やはりあまりに人間的だ」と思うことができたのだが、だからといって、それはあまりにも辛い重荷になったのだろうとも思ってしまった。なにしろ、勝ち将棋を「二歩」という初歩的な反則で負けた時のダメージの大きさは、私自身きわめて良く知っているからだ。そして、そのダメージから立ち直るまで、果てしなく長い時間が必要だということもだ。彼には、まだ2年前のことだ。ここで、解説すると、将棋のルールは、要するに8種類の駒の動き方を覚えることに尽きるのだが、ただ一つ「二歩(にふ)の禁止」というルールがある。日本将棋の最大の特徴は、相手から取った駒を、盤上どこでも好きなところに打てるという点だが、「歩」についてだけは、縦の列に自分の歩があったら、その列には打てない。その反則を「二歩」といい、一生に何度か、この反則をする。プロの対局でも時々ある。(相手に「二歩」を指されると、きわめていい手に思えて瞬間的にドキッとする。読んでないからだ。)そして、自分のことを書いてみる。

今を遡ることかなり前、中学三年の時、ある県の中学生名人戦で準決勝まで4連勝。そして、最終局も圧倒的な優勢で、相手の王様を追いつめたわけだ。そして、相手の王様のまわりに彼我の金や銀が固まり、私の手番だったわけ。ここで、何か前に進む駒を王様の頭の上に打てば、以下、私の駒の方が多いので、「詰み」となり、私が県の中学生名人になったはずだ。その後、どういう進路を選んだか考えても意味がない。その時、運悪く私の駒台に乗っていたのが、「飛車」と「歩」の二枚の駒。どちらを打ってもいいと思い、歩の方を打ってしまったのだが、これが「二歩」の反則負け。「天国と地獄」というのが、概念的なコトバではなく、実在性のあるコトバであったことを知ったわけだ。

そして、そのあと長い間、駒から離れる。本格的に再開したのは24歳になってから。実に9年のブランクがあった。途中、ただ一度だけ、大学生の時、友人が都内西北部の名門大学の将棋部員だったこともあり、大学将棋部の部室を訪問したことがある。戯れに指そうと思ったら、碌に覚えていない。なんと、駒を並べた時に、飛車と角を逆に並べてしまった。相手がずいぶん憮然とした顔をしていた。「駒の並べ方もわからない初心者め!」c795f4fc.jpgしかし、もともと定跡派ではないので、およその感覚で指していたら、結構負けない。強い学生がいなかったのだろうが、そこにいる部員全員をなぎ倒して、風のように消えてやった。道場破り!。おそらく、「駒も並べられない」というのが、もの凄い油断を呼んだのだろう。いったん緩むと、人間って真剣になれないものなのだろう。そして負け続けると、頭に血が上り冷静さを失い、さらに負けると、怖くなる。

実は、それ以降使ったことはない戦術なのだが、強豪選手と試合をする際は、最初に飛車と角を逆に並べてみたらどうだろうか。そして、相手にまちがいを指摘させる。相手が油断することは間違いないだろう。プライドを捨てる気さえあれば、かなり勝率は高いような気がする。必勝法。

ただし、問題点が一つだけある。あなたの相手も、きょうのおおたブログを読んでいた場合だ。両者とも飛車と角を逆に並べ、互いに自分から間違いを指摘しなかった場合、そのまま指し始めるしかないが、左右逆になった盤面を見つめながら、お互いに「相手が強いのか弱いのか」知謀の限りを尽くして推測しなければならなくなる。  

「しまむら」探索

2006-01-11 21:45:28 | マーケティング
9a052baa.jpg自宅近く、横浜市北部某所に「ファッションセンターしまむら」がオープンした。ある中規模スーパーの2階で、以前は、スーパー自身が衣料品を売っていたが、少し冴えなかったところだ。

だいたい、「しまむら」は埼玉県の郊外には大量に出店していて、幹線道路をクルマで通ると、「しまむら」と「山田うどん」ばかりが目立つ。ところが、どうも全国規模になっていたようだ。ユニクロみたいなものなのだ。しかし、自宅のまわりには何ヶ所もユニクロがあるのに、「しまむら」はない。

まず、ホームページで調べると、2005年12月の店舗数はユニクロが703店、「しまむら」は988店。ユニクロの方が70%程度である。ところが、売上げは、ユニクロが3800億円/年に対し、「しまむら」は2200億円/年。逆に売上げは60%となっている。つまり店舗あたり売上げは1/2程度ということだ。さらに、売上高経常利益率はユニクロが15.9%に対し、「しまむら」は8.5%と二倍の差がある。これだけみれば、ユニクロの方が効率経営といえるのだが、そう簡単な話ではない。

要するに、顧客のターゲットが違うらしいのだ。このあたりは、ネット上に多数の「ユニクロVSしまむら」という論文があるので眺めてみてもいい(ただし、明らかに間違っているレポートも多い)。まずは、表層的に考えて、両社のヴィジョンやターゲットを自社ホームページでひろう。「ユニクロ」いつでもどこでもだれでも着られるファッション性のある高品質なベイシックカジュアル。「しまむら」25~45歳までの家庭の主婦が日常生活のために使用する衣料品。つまり、かたや「誰でも」という戦略に対して、かたや「主婦だけ」という差がある。となれば、共存共栄関係か、というとそうではないのだ。

奇妙なことに、ユニクロの多い地区には「しまむら」は少ない。たとえば、しまむらは東京都には14店しかない。埼玉には80店、千葉には52店、茨城45店、群馬35店など。神奈川にも少ない。23店。思うに、ターゲットの差もあるだろうが、二社の経常利益率の差から、土地代に対する負担能力が違うということに起因しているように思える。郊外店が多いのは、むしろ、そのせいではないだろうか。

そして、この新しくオープンした「しまむら」は競争激化地区なのである。国道246号線と直角に交差する主要道路に面し、南側400メートルに位置するのだが、その交差点から逆に246の北側400メートルにはユニクロ郊外店があって、いつも駐車場は満車状態(その駐車場需要を狙って、向かいにコメダ珈琲店があるくらいだ)。

オープンから3週間ほどした週末に「しまむら」をのぞいてみた。まず、中央に大きく広がるのが、店の狙いである「主婦向けのエリア」そして、壁際には、こども衣料と男性衣料が少し場所をとっている。そして、店員はほとんどみない。レジ打ちだけだ。さらにBGMがユニークだ。どこかで聞いたことのあるメロディがカンフー調にリアレンジされている。まったく中国の百貨店だ。ユニクロも中国製だが、しまむらもほとんどが中国製なのだろうが、中国製であることを隠そうとしない。

そして、気になったのは、お客様の動静なのだが、肝腎の中心部にはあまりいない。「おおきなサイズ」コーナーには何人かが滞留しているが、広い店内で、壁沿いの、こども・男性コーナーでは、山積みのバーゲン品が売れている。それも、主婦が、ケイタイでサイズを確認しながら買っているわけだ。

このあたりをまとめると、こういうことだろうか。(主婦の心理)私の服は、「しまむら」では買わずに、阪急百貨店か高島屋で買うとして、その購入資金を潤沢にするために、夫やこどもの衣料費は「しまむら」で買い物をして浮かしてしまおう。

埼玉県の方にうかがうと、衣料品全身一式を計3000円で「しまむら」でそろえる女性のことを、「シマムラー」と呼ぶそうである。逆に、神奈川では、こどもや男が、本人の知らない間に「シマムラー」にされてしまいそうなのである。  

初詣は寒川神社へ

2006-01-10 21:44:39 | マーケティング

7e1c82b6.jpg年が明けてから1週間経ってしまったが、恒例の初詣に行く。昨年は1月16日だったので、まだ、ご利益の有効期限は1週間分残っているので大丈夫だ。

いつもの寒川神社は、鉄道が不便なので、東名厚木ICからクルマで入るが、毎年恒例の駐車場確保の一苦労がある。まず、神社の駐車場は無料なのだが、神社併設の第一駐車場には、長い列ができている。第二駐車場は無料だが、少し遠いし、無料なのでそれなりに短い列がある。こういう時に発生するのは、臨時民間駐車場なのだが、ただの空き地の所有者が家族総出で臨時収入を狙って旗を振っている。神社から遠い場所は1台500円で近い場所は1000円。元旦には来たことはないが、もっと高いのかもしれない。そして、神社に近づき過ぎてしまうと、どこの駐車場にも明いた場所がないと、通り過ぎなければならず、また1キロほど大回りして、もう一度最初から駐車場を探さなければならない。こんなつまらない話でも、ミクロ経済学や、ゲーム理論や、仏教的諦念の概念が必要になる。

そして、妥協して、神社直営の「無料で少し遠くて少し列あり」という第二駐車場を選択する。待つこと10分。徒歩5分。話は変わるが、だいぶ以前、鎌倉の鶴岡八幡宮で、やはり私設駐車場に入った時、800円を「オバサン」に払ったのだが、そこへ、帰ろうと戻ってきたドライバーが、「オレは1000円だった」と怒り出した。早い話、トラブルに巻き込まれるのだけはゴメンなので、さっと姿を消したのだが、もともと、そういうものだ。ぼられた方が言っていいのは、「バチアタリメッ!」だけだろう。戻る。

景気のせいか、いつになく、参詣客が多い。神社の本殿に昇殿して、名前読み上げ付きで御祓いしていただくためには、?申込書を書く?祈祷料を支払う?待合室で待つ?本殿への廊下に並ぶ?昇殿するという五段階作業になるのだが、各段階1時間と見た。ということで、昇殿しないで、「お札持ち帰りコース」を選択する。申込書に祈願の内容を書き、祈祷料を払い、お札に名前が記載されたら受け取り、そしておしまい。合計で約1時間。一応、帰り際に、本殿の外側に列をなし、コインを寄進し、「先ほど受付で書いた願い事」が、相模国の守護神である「寒川比古命、寒川比女命夫婦」に数日中に伝達されることを祈っておく。7e1c82b6.jpg

そして、待時間の間に、あるパンフレットを見つけた。「通信祈祷のご案内」要するに、あらかじめ郵便局に指定用紙で払込を行い、その受領書とお願いごとを記載した指定用紙を郵送またはFAXで送ると、送料500円で自宅にいながらにして御札が受け取れるというシステムだ。一応、ネット対応にはなっていないが、そうなるのも時間の問題かもしれない。さらに進化するとバーチャル御札とかできるかもしれない。ゴルフの前日に優勝祈願料をネット銀行から振込むと電子御札の画像が送られてきて、プリントアウトしてポケットに入れておくとか・・(紙にプリントアウトする必要はないかな??)

ところで、これも恒例のオミクジを引いた。「中吉」。昨年は「大吉」だったから1ランクダウンだ。詳細項目を見ると、
願い事 06年:他人の言葉に迷わず辛抱すれば叶う。 05年:漸々吉運に向いて思わず早く叶う。
待ち人 06年:支障あり、時間がかかる。 05年:来ます。
失せ物(うせもの) 06年:急いで探すこと。 05年:出る 低い所。
商売 06年:若干時間はかかるが有利に運ぶ。 05年:ひそかにすれば吉。
旅行 06年:何処でもよし。 05年:早く行くが利。
そしてもっとも重要な、金運は・・ 06年:過分な期待はかけぬこと。 05年:無理をすると大損
要するに、昨年は、何もしなくても運勢が良かったのに、今年は若干の努力と辛抱が必要ということか・・

旅行だけは今年のほうがいい
。あちこちに行こう。それにしても、失せ物とは何だ?急いで探せか・・そして、日経平均は、長い調整のあと少しだけあがるのだろうか?いや、それは私の成績だけの話だろう。  


52日

2006-01-09 21:43:28 | The room of Sora
17c58b3a.JPG52日目のソラ。1,060g。

本来なら、第一回ワクチンの時期だが、ケンネルコフにかかり、通院中に「虫」がみつかる。虫下しの治療が優先となる。ワクチンがまだなので、まだ、家の中で、軽い運動だけ。

それにしても、動物病院では、人間用の医者よりずっと丁寧に診察する。約1時間。「虫がいる」、というので、思わず、「人間にも、うつりますか?」と聞いたところ、「あまり、うつらないようですよ」って言われたのだが、ということは、「たまにはうつることがある」ということなのだろうか。17c58b3a.JPG

その時は、動物病院にかかるべきなのか、人間用の医者にかかるべきなのか、それは難しい選択だ。

ところで、ペットショップで初対面のときは、哲学者のように思索深そうだったが、非常に素早いことがわかった。ケージ(おり)の外に出すと、走り回る。食事は30秒で終わり。最初の頃は5秒だったのだが、さすがにペットフードを食べるのは自分だけであることがわかってきたようだ。何しろ、ショップでもらった当座の離乳食はアメリカ性で、肉骨粉を使っているのはかなりの確率だから、人間が食べるわけにはいかない。(犬がBSEにかかったという例は今まで報告されていないそうだ)17c58b3a.JPG当面の目標は、「病気快癒」。これから行く初詣の祈願事項に一つ追加する。

それと「爪切り」。そして、写真撮影はなかなかうまくいかない。ではまた。  

永遠なる薔薇 石内都の写真と共に

2006-01-08 21:42:10 | 美術館・博物館・工芸品

1757baf1.jpgThe Rose Eternal 永遠なる薔薇 

石内都展が1月29日まで、銀座7丁目ハウス オブ シセイドウで開かれている。1947年生まれの女性写真家。実は、半年前に近代美術館で代表作の一つである「連夜の街」のリバイバル展を見ていた。そして、本人のトークのヴィデオ画像が流れていたが、作品の濃厚さとはイメージの異なる「おしゃべりおばさん」のようだ。アーティストであるとともに、個人事業者であるから営業も重要ということだろうか。

そして、この1、2年、個展や写真集やタイトなスケジュールで活躍している。急に仕事を急ぎ始めたことに特別の意味があるのかどうか、知ることはできないのだが。

1757baf1.jpg今回は、薔薇を題材としているのだが、会場を提供している資生堂は薔薇とは大いに関係のある会社だ。もともと、薔薇の香りのエキスを抽出し、香水を作っていたのが、資生堂の起源だそうなのだ。今でも石鹸に刻まれた会社のマークには二本の薔薇が描かれている。

ところが、その資生堂の考えと、彼女が会場に持ち込んだ薔薇の写真とは、すこし距離が離れている。何しろ、彼女のレンズが捕らえる薔薇は、可憐さ、清々しさ、あるいは気品とか高潔さといった部分ではなく、まさに爛熟を通りこえ、徐々に劣化していく段階を撮影しているのである。薔薇の日持ちは、咲いてから7日から10日程度が一般的だが、徐々に劣化をはじめ、花びらが色褪せ、外延部がめくれ上がり、外側から1枚1枚はずれていき、最後は地に落ちるその最後の数日を捉えているのだ。

これは、売防法で廃墟となった全国の公娼街の廃墟を撮影した「連夜の街」ともつながる彼女流の「滅びの美学」ということなのだろう。体の傷跡を写し続けた「SCARS」も同様だろう。

1757baf1.jpgそして滅びの美学といえば、文学では太宰治の「斜陽」、三島由紀夫の「金閣寺」などがそうだが、今回の彼女の場合は、落ちる寸前の薔薇をかなり執拗に、あるいは暴力的に写し続ける。三島文学の根底に感じる「滅び」は「滅びの予感」というもので、実際に金閣寺が滅びるのは一瞬の火災であり、自分自身もまた、一瞬に滅びていった。また、太宰文学では、滅び行くものを美化していくのだが、一方、石内都の世界では、滅びるものは必ず滅びる。そして、その過程を残酷までに冷静にレンズに吸収させる。

ところで、ある知人が言っているのだが、「現代の滅びの美学」は「二子山部屋」かもしれないというのだ。栄光の家族が徐々に分裂してしまい、薔薇の花びらのように散っていき、最後は部屋そのものが滅びていくのかもしれない。が、そこには「美学のかけら」もないと思われるのだ。

そして、最後に部屋を第三者の金融機関に手渡した日、崩れた土俵の前にカメラを持って現れるのは、石内都かもしれないのだ。  


日本版ポリティカルコンパスで判定

2006-01-07 21:41:00 | 市民A
愛読ブログの”「大西宏のマーケティング・エッセンス様”、ならびに”「まるぼ」ニウス様”で日本版ポリティカルコンパスの話が登場していた。

9ced37b5.jpg





















実際には、縦軸に政治的保守・革新、横軸に経済的保守・革新をマトリクス化して、どこにスタンディングポジションを置いているか、という性格判定テストである。標準に対する乖離を+10.0から-10.0までの数値で表示。全52問について解答して、「判定」をクリックすると、直ちに分析が終わり、グラフ上にドットされる。

政治ポイント=-2.2 (やや政治的左派)
経済ポイント=+2.22 (やや自由経済派)
総合判定=リベラル右派

問題を回答しながら気がついていたのだが、「評論家的」に回答する場合と、「現実的」に回答する場合とでは、いくぶん選択が変わるのだろうと思う。

例えば、評論家的に言えば、「年金なんかいらない」と思っても、「自分の年金は欲しい」し、「M&Aはもっと派手にやってもいい」と思っても、「自分の会社が売り飛ばされたら困る」し、「女性の性行動は若年齢化した方がうれしい限りだ」と思っても、「自分の娘だけはダメだ」とかだ(ちなみに私の娘は生後50日で、まだ自分の名前も覚えていないようだし、時々吠える)。

そして、ある時は評論家になり、またある時は自己中心的な妥協的な回答をするので、案外極端な点数は出ない。たぶん超極端な考え方であっても半分の5点くらいまでではないだろうか。となれば、本来標準的な範囲の5点の半分の2,5点くらいまでが「常識の域内」で、5点超が「変人の域」と言う位ではないだろうか。

さらにいえば、右とか左と言うのは、相対的な問題であって、「自分の考え方が変わらない」としても、国際情勢が変化したり、好況や不況、金利動向、バブル等によって、世間の常識の軸が変われば、自動的に自分の相対位置が変わってしまうことにも注意が必要だ。


ところで、このマトリクスに実在の日本の政治家をはめ込んで見た。もちろん、直接会ったわけではないので、単なるイメージで並べるだけなので、深い意味も浅い意味も何もない。

まず、現宰相は右上の部屋としてみる。同室の住人としては、前原氏と安部氏を入れてみた。

次に、右下には、小沢氏と福田氏を入れたら、竹中氏の場所がなくなった。福田の右、小沢の下あたりだろうか・・

次に左上は亀井氏の部屋。

左下は、福島さん、菅氏の部屋。

麻生、谷垣のポジションはよくわからないが要するに、経済無政策というような気もする。一応麻生氏を政治的保守、谷垣氏は中道と置いてみた。

ところが、どこにおいてみたらいいのかよくわからないカードが2枚残ってしまった。一枚目は公明党、そして二枚目は労働組合だ。

どこにおいてもシックリこないのだが、たぶん、このグループは政治とか経済という軸で考えるのではなく、もう一つ別の三次元軸か四次元軸で考えているのであろう(と推測)。

日本橋上の首都高移設で検討会設置

2006-01-06 21:39:35 | 市民A
9da65567.jpg江戸時代、江戸を中心とした五街道というのがあり、日本橋を基点としていた。もっと正確に言うと、日本橋から南に向かうのが、東海道と甲州街道。北に向かうのが奥州街道と中山道。日光街道は奥州街道から途中分かれる。

そして、その後、明治末期に石造りの洋式橋として架け直され、今日にいたるのだが、問題は、東京オリンピックのどさくさにまぎれて完成した首都高速環状線が、日本橋の上空をふさいでしまったために、いつも真っ暗な上、景観が台無しになったことだ。橋といえば日本全体でガッカリ橋が多い(めがね橋、はりまや橋・・)が、それ以上の世界規模のガッカリ度だ。このあたりは2005年3月4日号弊ブログ「日本橋の今昔」に記したのだが、最近、非常に大きな動きがあった。小泉首相が「一声」放ったわけだ。12月26日の毎日記事から引用する。

 *******
小泉純一郎首相は12月26日、奥田碩日本経団連会長ら4人の有識者を首相官邸に呼び、東京・日本橋の景観を美しくするため、橋の上をまたがり、川に沿って走る首都高速道路の移設を検討する有識者会議を設ける考えを明らかにし、協力を要請した。有識者らによると、首相は「私が辞める(2006年9月)までに報告書を出してほしい」と期限を付けたという。

奥田氏の他に呼ばれたのは、作家の三浦朱門氏、伊藤滋早稲田大教授(都市計画専攻)、中村英夫武蔵工大学長(土木工学専攻)。現在の日本橋は明治44年(1911年)に架けられ、99年には重要文化財に指定されている。日本橋の上の首都高移設については、すでに国土交通省が03年8月から東京都や学識者による「みちと景観を考える懇談会」を設けて検討を続けている。

首相は26日夜、記者団に「川のたもとを散歩で楽しめるように、日本橋の昔ながらの名勝を復活させ、世界的な名所にしたい」と狙いを説明した。

 *******


ここで、いきなり話に入る前に、基礎的な関係を整理してみる。

9da65567.jpgまず、なぜここに高速道路ができたか?という点だが、おそらくは水の上しか、あいていなかったということだろうと確信できる。水道橋の上からずっと水の上をこの首都高は通っている。
そしてこの日本橋の下を流れる川はどこから来ているかというと、善福寺池から流れ出す善福寺川が、井の頭池から流れ出す神田川に合流し、その神田川が隅田川に合流する手前、水道橋のあたりから江戸城内堀に向かって支流が切り込まれ、日本橋を経て、東京湾へ流れていくようになっている。つまり、神田川本流ではなく、江戸城の堀の水を引き込むための人工河川であるわけだ。
ということで、機能的には粗末にされやすいわけだ。(もちろん川を埋めてしまえば、神田川はさらに頻繁に大洪水を起こすだろうから、それは駄目だ)

そして、頭の中のニューロンがスパゲティみたいにでたらめな設計者が作った首都高速の中で、この場所がどういう意味があるかというと、大変困ったことに、環状線の北側の一部になっているわけだ。つまり、この部分を単純に壊してしまうと、一周できなくなる。南側を回るしかないが、当然、南側の交通量は2倍になり、首都高自体が、まったく機能しなくなるだろう。

9da65567.jpgさらに日本橋を迂回して地下で東京駅、あるいは神田、両国方面に抜けようとしても地下は既に地下鉄や各種共同溝で掘りつくされていて、場所がない。さらに地上にも代替スペースは見当たらない。地下鉄も南北方向には銀座線と都営線、東西方向には東西線と半蔵門線が交差している。


ここで少し考えてみる。実は、首相の頭の中は、あるモデルが浮かんでいるのではないだろうか。
非常に似ている案件がソウル市にあった。2002年だ。

清渓川(チョンゲチョン)再生事業である。清渓川はソウル市内を南北に分ける漢口の支流だが、その川の上を利用し、6キロにわたり高架の都市高速道路が通っていたわけだ。さらに、都市化の代償として、この小流は完全にゴミの川に化してしまい、川に蓋をかぶせるという、いたって安易な方法で対処していたそうだ。

ところが、高速道路の老朽化が大問題になってきたわけだ。このままだと老朽化によって道路が崩落するということ。(以前、中東某国で、韓国社製のインターチェンジが完成後1週間で崩壊する事件があったが、そういう国だ。日本も似てきたが・・)

当然ながら、環境問題、財政問題、利権問題とか入り混じったのだが、ソウル市長選で清渓川再生計画を掲げた候補が当選するに至り、結局、高速は廃止され、川の蓋ははずされ、下水の流入を禁止し、美しい川が復活し、都市再生モデルとして、多くの国から視察団が見学に訪れることになったわけだ。

そして、高速道路はどうなったかと言うと、「単になくなった」ということなのだ。


実は、引用文中にある「みちと景観を考える懇談会」が2004年に民間からアイディアを募集している。しかし、あまりいい案はなかったというのだ。それは、指定条件として、代替道路を作るということがあったからだそうだ。「景観」は重要だが、そのために失うものが巨大すぎても困る、ということで、それもそうだ。

そして、このいくつかの清渓川見学団の中に、日本の(株)都市総合計画代表取締役、司波寛氏という方がいて、2005年2月の出張のあとレポートを書いている。その中で、東京の状況について、「現在工事中の環状6号地下に建設される”首都高中央環状線”が完成した段階で、山手線内のすべての高速道路を廃止してしまえばいい」と書いてあるのだ。
さらに、「日本の場合、あらゆるシミュレーションを行ってから実施するが、韓国は先に実施してから、後で問題を考える」と韓国での事業速度の速さをほめている。

実際、彼の意見は過激過ぎるとは思うが、首相が「日本橋問題」について選んだ人選は、かなり大物ばかりである。大物に期待するのは、当然「豪快な結論」であるのだから、少し心配である。邪魔とは言え、道路が国家全体の資産であるのも事実。こわすのは簡単だが、元には戻らないし、韓国のようにもうすぐ崩落するというわけでもない。

さらに、首都高も民営化したのではなかったかと思うし、万博会場の弁当持込問題とは口を出す規模が違うということがわかっているのだろうかとも思ってしまう。


9da65567.jpgただし、私も個人的には、日本橋に青空を取り戻せないかとは、ずっと思っている口なので、現実的なプランを考えてみた。

プラン1
日本橋上空の道路を、川の中にチューブ状のトンネルを作り、そこに封じ込める。アクアライン方式。全体の交通システムに影響を与えないのがメリット。川底を白魚ならぬクルマが走るわけだ。(橋の上で左右を見ないこと)

プラン2
もっともおカネがかからない方法なのだが、現在の「日本橋」そのものをあきらめて、1区画南側に「概念上の日本橋」をつくる。もちろん下に川がないのでちょっとアーチ上にアスファルトを盛り上げれば完成だ。1,000万円くらいでできるかもしれない。(が、これでいいという人間は、まずいないだろう。)  

ウラ箱根駅伝のススメ

2006-01-05 21:38:43 | スポーツ
1月2・3日に行われた第82回箱根駅伝は、復路で数多い劇的場面が展開された結果、亜細亜大学が優勝。駅伝の常連でありながら、29回目の出場での初優勝。10区アンカーの岡田選手がゴールした数秒後には胴上げが始まったのは驚いたが、駅伝というのが、団体競技であるにもかかわらず、個人競技であるという性格上、優勝の喜びは二重にうれしいのだろう。そしてもう一つの胴上げはシード権を10秒差で守った第10位の東洋大学。こちらは合理的に嬉しい。

ところで、私の居住地は駅伝コースのある横浜市なのだが、いわゆる「旧東海道」、別名「第一京浜」、あるいはさらに別名「国道15号線&国道1号線」からは大きく離れ、市の北側に位置している。なかなか沿道で応援するのは、大変だ(というと九州から応援に来るという人には怒られそうだが)。fec65edb.JPGところが、すぐ近くを通る幹線道路がある。国道246号。通称ニーヨンロクと言われ、都心では青山通り、神奈川では厚木街道とか大山街道とか呼ばれることもある。社民党本部のある三宅坂から渋谷、二子玉川、町田、厚木、大井松田から御殿場の山を登り、最後は富士の裾野を南下し、富士市までつながる。ほぼ東名高速と並行している。

そして、一般に、横浜から箱根に向かうのは、駅伝コースと同様に南回りで小田原から上っていく方法と東名や246号で御殿場から乙女峠のトンネルを抜けて北から入る方法がある。もちろん、この道は、都内を抜けると、徐々に上り坂になり、大井松田から御殿場までは、山間の高架橋の上を通る難所である。さらに、御殿場から乙女峠までも相当急勾配である。そこを駅伝で走ったらどうだろうかということだ。俗称、ウラ箱根駅伝。

しかし、地図を調べているうちに、これは大変なコースということが見えてきた。何しろ距離が長い。箱根駅伝のコースは約100キロ強。それに対してウラ箱根は三宅坂=芦ノ湖間で約150キロになる。三宅坂から渋谷まで、まず5キロ。その後、長い長い直線で厚木まで55キロ。大井松田まで徐々に上り坂で30キロ。さらに御殿場まで、蛇行を続け30キロの登り。さらにそこから御殿場まで最後の30キロ。5人で走るなら一人30キロになるが、ちょっと無理かな?そして、ウラ箱根にわざわざ登場しようという大学があるわけはないので、何か工夫が必要だろう。

となれば、普通、絶対登場しない大学がいいかもしれない。例えば・・・予選はIQ試験にするとか・・そうなれば、まったく違うメンバーになるのは推察のとおりだろう。文武両道。それなら、この150キロのコース、片道の下りだけにしてしまえばいい。天は二物を与えずということわざがある。女子大だけでもいい。さらに応援に力が入る。そして、IQ選抜でも女子選抜でも、どちらでも、この246コースにふさわしいチームがある。246に接する唯一の大学、青山学院。

話を、正規の箱根駅伝に戻すと、今年はコースの一部が変更になった。往路108キロに対し、復路は109.9キロと長い。都内最終コースが日比谷通りから中央通りに変わった。新橋から銀座を抜け、首都高で景観台無しになった石造りの日本橋を渡った後、左折して読売新聞社に向かうことになった。歴史上、正しい東海道コースだ。ところで、中継を見ていると、アナウンサーが中央通りのことを「一坪9,000万円」と紹介していた。そして、その一坪9,000万円の通りの基点である日本橋の景観について、ある国の宰相が途方もない野望を持っていたことが、昨年末に明らかになったのだが、明日はそのことを、ちょっと真剣に書いてみる。