カール・ユーハイム物語(8)

2006-01-23 00:00:00 | カール・ユーハイム物語
ユーハイムはもちろん、ユーハイムズ(JUCHHEIM'S)であった。カールとエリーゼの夫婦の二人で築き上げたものであることは間違いない。となれば、1945年8月14日にカールが亡くなった後のエリーゼについても書かなければならない。

カールは六甲山ホテルで亡くなったのだが、もはや日本には棺となる木材も満足にない。急を聞き集まった在留ドイツ人たちは海軍の水葬に使うような麻袋にカールを包み、皆で火葬場へ担いでいったということだ。何度かの新規開店の際、金銭的余裕なくベッド代わりに麻袋の上で寝ていたカールには、それも似合いなのかもしれない。エリーゼはすっかり骨になったカールを背中のリュックに背負い、自宅に持ち帰ってから、お手伝いの女性に、「この中に、だんなさん、いる。」と短く言ったそうだ。

そして、エリーゼにはさらに苦難の道が続く。連合国の指示により、長く在住した日本からドイツに送還されることになる。長男ボビーの行方はまだわからない。ボビーの妻、マルゲリータと4人の孫たちと一緒にニンローデに向かう。この町は、カールが神経症で入院した町であるとともに、ボビーとマルゲリータが結婚式をあげた町なのだ。

そして、エリーゼは23年前、関東大震災の時、行方のわからなくなった9歳のボビーを探し回った時と記憶を重なるかのように長男の消息を追う。戦友を訪ねまわり、彼がノルウェー、フランス、イタリア、ギリシア、キプロスと各地を転戦したあと、ドイツが全面降伏した1945年5月にはウィーン郊外で情報班下士官だったことまでをつきとめる。しかし、今度は幸運はなかった。ドイツ降伏のわずか2日前、5月6日、ボビーは流れ弾にあたり死亡していた。30歳だった。

7c5b2037.jpgしかし、ユーハイムは死ななかったのだ。かつての職人たちが連絡を取り合い、ブランドの再興をめざしたのだ。神戸生田に店舗が復活したのが1950年(昭和25年)。そして1953年にはついにドイツから再び、エリーゼ・ユーハイムを迎えることになる。エリーゼが自ら店頭に立っている写真も残されている。

この後、ユーハイムには河本春男というこれも変わった経歴の持ち主が加わり、社長となったエリーゼを支え、近代的な大会社に育てていく。

そして、ついに1971年(昭和46年)5月2日、六甲の麓でエリーゼ・ユーハイムは永眠する。79歳。彼女もまた運命と苦闘した一人の偉大な地球市民であった。

夫妻は今、故郷から遠く離れ、芦屋市にある芦屋霊園の一つの墓に眠っている。




7c5b2037.jpg私は、このシリーズを書き終えるにあたり、ユーハイムのレストランを探していた。どうもルーツの一つである銀座や横浜などにはないようだった。ネット上で調べているうちにJR中央線千駄谷駅近くにあることがわかり、近くに所用があったこともあり、遅い昼食をとることにした。東京体育館の向かい、津田ホールの地下にレストランはあったのだが、かつてこの道を故あって100回は通っていたことに気付く。

初めて入った店内は地下ではあるが明るく、若い女性達で華やぐ。初めてユーハイム夫妻が横浜に出店したときのランチが1円25銭だったことを思い起こし、税込み1,350円のランチにしようかとは思ったが、スープ、オムレツ、ハーフパスタ、パン、デザートにコーヒー付きを食べられるほどの胃袋は過去のものだ。ドイツの香りが欲しく、ハンバーグランチにする。たまねぎやパン粉といったつなぎをほとんど使わないハンバーグはやや固めではあるが、甘みは少ない。そして、付け合せはマッシュルーム、ナスのバター焼き、クレソン、そしてジャーマンポテトという組み合わせなのだが、ジャーマンポテトを口にしたところ、ますます胸がいっぱいになってしまった。

外に出れば、折から雪雲がひろがり、北風が笛を吹き、めまいと息苦しさに襲われ、空を向いて歩くことにした。