朝倉家の下っ端Aの遍歴

2005-10-15 22:04:04 | The 城
8675da72.jpg福井で観光地というと、東尋坊、永平寺をもって一級とし、その他として、福井市内の継体天皇の像があり、石川県との県境の方に散らばる温泉街ということになる。

東尋坊は見事な日本海の絶景地ではあるが、既に2回行っている。ナホトカ号による重油汚染の跡は、8年経っても消えていない。次に永平寺だが曹洞宗の本山の一つとして厳しい修行は有名だが、私とは宗派違いで、まだ奈良の本家に行ってないので、ばちがあたらないように今回はパス(もう一つの本山である鶴見の総持寺の方には、行っているが)。継体天皇のことは、諸説あることは知っているが、あまり詳しくないし、予習していないので次回ということにする。また名立たる温泉街も最近は勝組ホテルと負組ホテルにわかれているそうだ。かつては、例の「女体盛」なる和風料理の本場だったらしいが、最近は名前も「人魚盛」に変わり、さらにロシア人になったそうだ。ロシア料理か??さらに、「人魚」というだけでは男女が確認できないので、行かないことにする。

そして、前回紹介した丸岡城は、あまりメジャーな評価は受けていなかったし、元は城下町(福井城)だったのに、福井では、歴史シリーズはさっぱりだ。そのあたりの福井人の思考を考えてみる。まず、福井の武将と言えば、「朝倉家」である。伝統のある一門だったが、最後に軟柔な思考の義景をもって、織田信長に平定されてしまった。そして、その後は「柴田勝家」だ。信長の一の子分であったはずが、結局、北の庄城で滅ぼされる。なんだか、ちょっと恥ずかしいのかもしれない。

そして、私は朝倉家を記念して建てられた「朝倉記念館」へ向かうことにする。というのもここには、私の愛好する「将棋」の古い駒の出土があったとされているのである。中将棋駒といって、100枚ほどの駒で、かなり現在の将棋とは違うルールだったはずだ。HPには一部の写真があるが、現物を見るのも価値がある。(現在の将棋は、この朝倉中将棋が盟友の近江浅井氏に伝わり、浅井氏の手で現在のルールになったというのが通説である)

しかし、福井駅には観光案内はない。やっと調べた方法は、JRの越美北線(数時間に1本)。バス(1時間に2本)というもの。行きはバスにする。乗り場9だ。福井市から南に向い、足羽(あすわ)川に沿って上っていく。そして、20分ほど走ると、衝撃的な事実が頭の中に喚起されてくる。

つまり、そのあたりの、ある地名(仮にAとする)は、私の母方の先祖の姓なのである。そして、かつて母親から聞いていた先祖の出自についての言い伝えが蘇ってきたのだ。というのも母親は、歴史にはまったくの無関心であるのだが、「元々武士だったが、福井の山の方から落人のように○○(西日本のある地)まで逃げていった。」というものだ。母親は平家の落人と思っていたらしいが、それはかねてから「時代錯誤」だろうと思っていた。つまり、母方の先祖「A家」は織田・徳川連合VS浅井・朝倉連合の姉川の戦いとその後に続く敗戦。そして一乗谷の焼き討ち、さらに朝倉家が滅亡した越前大野の賢松寺での切腹までのどこかのシチュエーションで、福井から逃げ出したということなのかもしれない。

8675da72.jpgそう考えると、にわかに、見える風景が変わってくるわけだ。足羽川は下流10kmほどはなだらかな大流を作るが、山地が近づくと急に細く、深く、急になる。そして、これより山中に入るというところに朝倉記念館は立ち、私もそこで降りる。実際には、ここが「一乗谷」の入口で、ここから先は急な山腹をえぐったような谷となり、谷底から山頂にかけて館や山城がどこまでも奥深く続いているように見える。JR越美北線もこの谷に沿って走り、途中何箇所かは、路線整備が難しいのか、バス便になっている。

そして確信したのは、史実では、この一乗谷に逃げ込んだ朝倉軍に対し、織田軍は丹羽長秀がこの谷に3日をかけて火を放ち、ありとあらゆる物を燃やし尽くしたとされている。そして、谷の一番奥にある越前大野に一族を追い詰め、策謀により腹を切らしたとされるが、そこはもう袋のネズミなので、助かる途はなかった。おそらく母親の先祖は、谷に追い込まれる寸前に、大脱出を図ったのだろう。まあ、それが武士として正しいか間違っているかの判断をするのはやめることにする。なにしろ潔く最後まで主君に忠誠を尽くしていたら、現在の私の遺伝子の半分は別人になっていて、もっと短めのblogを書いているはずだからだ。

そして、記念館では、義景が愛したという花々と、遺跡から無数に発掘された花器を記念して特別展が開かれていた。そして、お目当ての中将棋駒なのだが、意外にも展示されていたのは、近江浅井(あざい、と読む)家にあったといわれる現代とほぼ同様の将棋駒(ただし、1枚「酔象」という駒が付く)が展示されている。これは本来、将棋史の大事件なのだ。しかし、写真撮影の許可をバイトの女性にお願いしたら、強く拒否されてしまった。画一的。撮影禁止の表示はなかったので、一応確認という訊き方だったのだけど・・

後で、考えると、日本将棋の最大の特徴である「取った駒を再利用する」という「温情主義」はこの、心優しい朝倉義景にその起源があるのではないだろうか。

そこから、さらに谷に踏み入って、高度差百メートル以上の山腹の山城跡を襲う元気がなかったのは430年前の先祖と同じ。一両編成のディーゼル車で福井へ戻る。

8675da72.jpgここで、歴史に戻るが、朝倉義景は妻の美貌に溺れたということになっている(溺れる本人が悪いようにも思えるが)。公家の娘だった。一方、浅井長政の妻は織田信長の妹の、お市。捕虜になった朝倉家の方の妻子は、信長の元へ護送中に、面倒とばかりにバッサリと切り捨てられている。ところが浅井家のお市の方は、信長さまの妹ということで秀吉が必死の努力で救出している。

通説では、正妻ネネがいるにもかかわらず、お市の方を第二夫人にしてしまい、信長のごきげんを取ろうとしたとされている。そして、浅井家で助かったのは、お市と三人の娘だけで、長政はもちろん、父の久政も首を塩漬けにされてしまったのだ。そしてさらに信長の性格の凶暴性を証明する史実として、朝倉義景と浅井長政・久政の3つの頭骸骨に金箔を張り、杯として酒を飲んだと言われている。

そして、お市の方の話はまた・・


最新の画像もっと見る

コメントを投稿