結構な歴史がある甲府城

2024-07-16 00:00:21 | The 城
甲府方面に所用で行った時に甲府城に登った。極暑ではない日だったが、湿度極めて高く、競歩競技のように通り抜けようと思っていたが・・・

現在の甲府城は江戸時代の城の約1/3であるが、本丸跡と天守台跡が残されている部分が鶴舞公園として整備されている。往時はさらに現在の山梨県庁とJR甲府駅を含んだサイズだった。



有名なのは鉄門(くろがね門)。本丸には石の階段を上ることになるが一段の厚みが高く、筋トレ感覚になる(階段を上る器具はジムにはないが)。

そして、本丸跡だが、甲府城はもともと武田家が織田・徳川連合に滅ぼされたあと築城が始まった。秀吉の時代には家康を警戒した秀吉が徳川を見張るために利用していたとされるが、徳川の時代になると、逆に甲州街道の守りのかなめとしての役目となる。

そのため、長く、徳川家の親戚が城主を務めていた。しかし、歴史上評判が良くない柳沢吉保が、この城の城主となり、財源豊富となり、相当立派な街並みとなり小江戸と呼ばれることになったそうだ。ところが、当の柳沢吉保は甲府城に住んだことはなかったそうだ。その前の徳川一門が城主だった時代も含め、ほとんどの城主は江戸に住んでいたそうだ。



柳沢親子が失職(転封)した後は、幕府直轄領となり藩主はいなくなる。

これらの知識は調べたのではなく、天守台によじ登った時に、天守台の上で待ち構えていた甲府市の公式ガイドの方から丁寧に教えていただいたわけだ。

そして、甲府城は幕末にはオセロゲームのようなことになる。

江戸時代最後の年(慶応4年=明治元年)1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争の第二ラウンドと言えるのが甲州勝沼の戦。新政府軍は板垣退助総督が率いる東征軍の第一陣が藩主のいない直轄地の甲府城をすばやく占拠する。なにしろ板垣退助の先祖の先祖の・・・は武田信玄の重臣だったわけで、甲州の民に人気があるわけだ。

そして遅れをとった幕府側は幕府からスピンアウトした近藤勇などを中心として、いわゆる甲陽鎮撫隊を結成し、甲府城を目指す。東西から甲府城到着競争が行われたが、1日の差で近藤チームは負けてしまい、城という拠点を持たずに勝沼付近で戦うことになり、結局江戸に逃げ帰ることになる。

競歩のように城址公園を歩き抜ける予定であったのだが、石段を何回も登り、ガイド様の説明をたっぷり聞いたため、汗もたっぷりということになる。まだ盛夏はこれからだというのに、トンボが飛び回っている。



天守台からの眺望もすばらしく、梅雨の時ではなければ、正面に富士山がはっきりと見え、さらに山裾にはリニア新幹線が東西に走ることになるそうで、相当人気の出るビューポイントになると思う。現在は、ちょうど向かって左にはレールが敷かれ、右側は未着工だそうだ。

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