ついのすみか

2013-01-10 00:00:38 | 市民A
『これがまあ終の栖か雪五尺』

これは、小林一茶が晩年に故郷信州で読んだ名句で、一般には、「人生の最終局面をふるさとで迎えるにあたり、先祖代々のさまざまな小林家の想い出を回想しながら、目前に積み重なる雪の中でしんみりする情況」を詠んだものというように解釈されることが多いのだが、

例えば、こんな新解釈はできないだろうか。

江戸で暮らす一茶が、そろそろ信州で田舎暮らしを始めようと、地元の知人に家探しを頼み、「自然があふれる素晴らしい住宅があるよ」と言われるままに購入し、さて引越ししてみたところ、冬の大雪に幽閉され、「話と違うじゃないか!ダマされた!」と憤慨するという状況である。

まあ、研究家の歴史考察であれば前者であるのだろう。実際に一茶研究家とともに一茶の孫になる方にお会いしたこともある。後者は、現代の老人ホーム選びのような話だ。ということで前振り終わり。


実は、老人ホームを急遽さがすことになった。幸いなことに自分用じゃない。それで、ホームに関する色々な嫌な話を耳にしていたので、まずはどのようにホーム探しをすべきかの方法を探るため大型書店に行ったのだが、どのジャンルに入るのだろうと考えても思いつかない。「健康」「病気」「介護」「マイホーム」「実用」・・。単行本なのか月刊誌なのか。

home要するに、ジャンル分けできるほどの出版物は市販されていないようなのだ。そして、やっと見つけたのが朝日新聞出版からのムックという形式の一冊(後日、東京駅前の8階建て書店、八重洲ブックセンターの中をしらみつぶしにしたのだが、結果は同じ一冊)。人生の最終局面というのは、ほとんどの人にとって重要問題なのだが、「出産」「結婚」「マイホーム選び」なんていう人生の大問題については、ごまんと出版物があふれるのに、どういうことだろう。

で、この本(ムック)だが、タイトルは『高齢者ホーム』となっているのだが、表紙の下の方には『全国有料老人ホームリスト』となっている。最初のイメージは、老人という表現ではまずいため高齢者ホームと言い直したものの、先日の橋下報道で編集(校正)の無能ぶりを発揮したダメ出版社だから、老人ホームの表現を修正し忘れたのだろう、と決め込んでみた。

だが、よく読み、またネット情報などを総合的に判断すると、きわめて法律的に正確に言うと、高齢者ホームと老人ホームというのは意味が違っていて、高齢者ホームの一形態が老人ホームであり、「サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)」という別形態があるということのようだ。さらに老人ホームにしろ、サ高住にしろ、内容は千差万別ということである。(どうして二形態になったかというと管轄官庁の違いで、老人ホームに予算を投入するのが厚生労働省なのだが、予算がなくなったため、国土交通省の予算を使うサ高住が増えてきたということらしい)

それで、近隣の有料ホームの内容を調べると、まさに人生の最後の住居にふさわしく、貧富の差がきわめて顕著に表現されているわけだ。入居費が数千万円(億に近いもの)で、食事も和洋中自分で選べるような施設もあれば、下限値では、木造アパート風で15平米で入居費ゼロで月額15万円ほどのものもある。

善良なる平凡なサラリーマンは退職金で家のローンを完済した上、売却し、ホーム入居費につぎ込み、年金収入で毎月の利用料と介護が必要になれば介護保険の内数で介護サービスを受けるということなのだろう(善良でないサラリーマンの私は、すでに3回も退職金を手にしても、資産はさまざま中途半端な状態にある)。ローンはかなりあるし、金融資産じゃなく金属資産だし、売却できないゴルフ会員権とか、・・)

入居者の年金収入をすべて囲い込むようなシステム(言い換えるとボッタクリホーム)のところが多いし、さらに、ホームの経営を大手がやっている場合は、きわめて高額だし、良心的なホームは経営が不健全になりがちで、破産しても入居費の大部分は保全されないということもあるそうだ。

また食事も、毎週1回はカレーライスが登場する手抜きメニューのところもある。

そして最大の問題なのだが、多くの場合、ホームを探すのは、入居する本人ではなく、本人の介護に行き詰った子供ということになるそうで、どうしても老人の気持ちがなかなかわからないため、入居する人の希望とはかなりズレた結果となることが多いということのようだ。

かといって、若いうちにホームを探すと言っても、ホームの10年後の予約などのシステムはなく、今の住居を売却整理してホームに移らないと超不経済なのだが、そういう気持ちには普通なれない。気にいったホームに目をつけておいて、いつも空室情報をチェックするとかが一番の方法なのだろうか。

結局、「簡単には事は運ばない」ということだけがわかったということだ。