もう一つの海ゆかば

2011-07-10 00:00:18 | 美術館・博物館・工芸品
yusen横浜にある日本郵船歴史博物館。日本郵船の横浜支店だったそうだ。明治、大正、昭和と日本の東側の玄関口だったのが横浜である。特に米大陸へは横浜港、そして神戸は上海、香港方面への西の玄関だった。

日本郵船といえば三菱グループの文字通りの旗艦会社である(旗艦という熟語がよく似合う会社である)。しかし、創生時期には、内外の航路でダンピング競争を行って倒産寸前まで追い詰められたこともあった。そこを合併による競争緩和で乗り切り、外航船では日本の中軸会社に成長した。特に客船部門である。

しかし、順調な経営が暗雲に包まれたのが太平洋戦争だった。

「御用船」

つまり戦時徴用船である。日本郵船は185隻、113万トンの船舶を徴用されたそうだ。持ち船のほとんどである。徴用ではなく政府が買い上げたのは、僅か3隻だけ。

その結果、その多くの船舶は太平洋の海底に眠ることになる。日本郵船社員で戦争中に亡くなった人数は、5,312名にも上る。船員の43%が犠牲になる。この比率は、海軍兵員の死亡率である16.5%の2.6倍である。とても割り切れないが、こうして日本は負けたわけだ。

思い出したのが、『海ゆかば』である。

万葉集の大伴家持の本歌の一節である。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)。

戦争の歌である。大君に命を捧げようという意味の歌詞である。

万葉集のこころは、男性的な「ますらおぶり」である。しかし、その後、日本は女性的な「たおやめぶり」の社会に代わっていくのであるが、そのメンタリティの変化の裏側には貞観時代の地震を初めとする天変地異の大発生があるのではないだろうかという説が現れている。

未曾有の大危機を乗り越えつつあるのか、あるいは乗り越えられないのか。10年後には答えがでているのだろう。首相も10人代わっているかもしれないが。