豆味噌と麦めし

2011-07-29 00:00:14 | あじ
最近、歴史小噺を色々読んでいるのだが、徳川家康のこと。

まあ、表の功績について言うことはないのだが、実はかなりの好色親父だったらしい。古い言い方をすると「ひひじじい」と言うらしい。

と言っても、秀吉のように「鷹狩り」を装って、山里で「女狩り」をしていることを宣教師に説教され、逆上してキリスト教徒を追っ払ったりしたわけじゃなく、一応、側室として正規登録の上、手をつけているのだが、その数16人。感心なのは、年齢を重ねるにつれ、若い娘を選んでいて、32歳の時には、お万の方(24歳)、41歳でおつま(16歳)、49歳の時にはおはち(13歳)、さらに68歳にして、12歳の於六を側女にしている。和製ベルルスコーニである。実際、66歳の時には、女子が生まれている。

で、そういうパワーの源となる食べ物だが、健康食を愛用していた。一つが豆味噌。もう一つが麦めしである。さらに家康は漢方薬を自分で製作、調合していて、調合していた道具一式を展覧会で観たこともあるが、話を味噌と麦にしぼってみる。

まず、豆味噌だが、これだって今でこそ八丁味噌として高級味噌といわれているが、少し前は「ケチの名古屋人は、メシに辛い味噌を塗って食べる」とか言われ、蔑まれていた。

ところが、まさに、家康は、ケチな名古屋人であって、麦めしに豆味噌を塗って食べていたらしいのだ。この味噌にはアルギニンというアミノ酸が大量に含まれているのだが、これが人間の精子の中に大量に含まれているそうだ。

次に、麦だが、今でこそ健康食だが、少し前はムショメシとして有名だった。ボソボソして、噛んでも噛んでも甘くならない。「貧乏人は麦を食え」と放言を吐いた首相もいた。しかし、ビタミンが多いのと、なにしろ繊維質が多く通じがいい。快便だ。

しかし、快便で思い出すのが家康の馬上脱糞事件だ。時に39歳の時の三方ヶ原の戦いでの敗戦。武田軍に打ち破られ、必死の逃走の末、浜松城に逃げ帰った時、恐怖のあまり馬上で脱糞したと言い伝えられている。

この事件、案外、単に腹が痛くなったものの、用を足す時間がなく馬上でやってしまったのではないかとも思っていたのだが、当時から麦めしを食べていたのだろうか。案外、戦場で煮え切らない干し米を食べて腹をこわしのではないだろうか。

だいたい、家康はこども時分には今川家の大事な人質だったのだから、麦めしなんか食べさせられていたはずはない。なんらかのきっかけで、麦めしに切り替えたのだろう。それが三方ヶ原の脱糞事件からだったのではないだろうか。


歴史上では、小田原城包囲戦の最中に、家康は秀吉と並んで立小便をしながら、江戸を本拠地にするように命じられたことになっている。たぶん、秀吉は、言い渡すとさっさと一物をしまってお先に失礼してしまったのだろうが、もし、しゃがんで用を足す方だったら、快便モードの家康の方が、「江戸などいらぬじゃ」と、お先に失礼と逃げだしていたのかもしれない。