長崎のひとたち

2009-01-15 00:00:28 | 市民A
昨年末に、顧客先の中堅(忠犬)社員と飲んだ時に、関東の出身なのに、出身大学が国立長崎大学とのこと。別に、大学マニアじゃないので、出身大学には殆んど興味はないのだが、なぜ、関東から国立長崎大学に進学したのか聞いたところ、「第一志望を落ちて、二流校になった」というような言い方をしていた。

滑り止めなら、なおさら、なぜ長崎なのか知りたいのだが、『自分が選んで勉強した(はず)』の大学を『二流』と呼ぶ感性が気に入らず、それに本当に『二流』のように感じる言い方だったので、その話題は封印してしまったのだが、その時のやりとりが、何か気になっていた。

そして、最近、長崎大学に関するニュースがいくつか登場した。

まず、赤羽桂子さん。世界の医療団の一員として、エチオピアで医療活動中、昨年9月に誘拐され、ソマリア国内に幽閉されていたが、やっと解放された。

赤羽さんは、福岡県立修猷館高校を卒業後、富山医科薬科大医学部(現富山大医学部)に進学。その後、東京都内の病院2カ所に勤務し、平成15年10月から3年半、茨城県の土浦協同病院で小児科医として働いていた。しかし、福岡大学医学部助教授だった父親を平成17年に亡くしてから、父の研究テーマだった感染症の予防を、自ら現場で実行しようと、熱帯医学研究所のある長崎大学大学院に籍を置き、エチオピアに向かったそうだ。医師であり学生であるという奇妙な立場には、こうしたわけがあった(一緒に誘拐されたオランダ人男性看護師の運命については、各紙とも報道していないようだが、同時に解放されたようだ。)


そして、もう一人の長崎大学関係者は、ノーベル化学賞を受賞された下村脩さん。

下村さんの話の前に、日本関連の受賞者4名の記念講演のようすが報道されてきた(原文は公開されている)。日本では、英語の話せない(つまり日本語の)益川教授ばかりが人気になっていたが、講演の内容について、あまり深く解説されないのは、記者の素養によるのということだろうか。

まず、益川講演の最大のキモは、やはり『日本語によるスピーチ』ということではないだろうか。現在、西欧主要国以外の国で、高級な科学を自国語で展開している国は、「日本とイスラエルだけ」という説もあるようだ。一つは、国内に科学の蓄積があることが必要であるとともに、言語が近代科学に耐えうる論理性を持つことが必要だ。日本語も、短く書かずに丁寧に長く書き、英語のように適度に主語を補完していけば、論理的表現が可能ということだろう。

逆に、お見舞いに大学病院など行って、エレベーターに乗ると、乗り込んできた医師たちが、英語の資料を読み合わせながらあわただしく手術室へ向かったりするのを見ると、少し、不安は高まる(他人事ながら)。


次に、小林誠さん。この方は、益川氏に言わせれば、「私の論文を英語に翻訳しただけ」ということになるのだが、壇上に、故人となった坂田昌一、戸塚洋二両氏の写真を掲げられたそうである。小林=益川理論の前に受賞すべきも、早世されてしまった二人の功績を称賛するということである。運命の悪戯。

そして、南部陽一郎氏は、妻の看病という理由で、受賞式、講演会には出席せず、記念講演の代理をイタリア人、ジョヴァンニ・ヨナ=ラシニオに任せる。こちらも運命の悪戯というか、南部氏とラシニオ氏は共著者の関係である。つまり、小林=益川ペアと南部=ラシニオの二つのペア4人のうち、一度に3人までというノーベル賞の規定で、ラシニオ氏が落選。なぜ、彼が落選したのか。想像だが、この理論が世に出たのは1960年代である。素粒子理論の欧州での中心はイタリアだった。だから、その時、ノーベル賞を決めるなら間違いなくラシニオ氏だったはずだが、それから40年超。今や巨額の研究費をつぎ込めるのは日本ぐらいであり、特に小林さんは政府機関の現役の理事。そういうごちゃごちゃした感情を解決すべく、南部氏は妻の看病といって、ラシニオ氏に講演会を投げたのではないだろうか。




そして、長崎大学出身の下村脩さん。1961年に緑色蛍光タンパク質GFPを発見した。何万個ものクラゲをすりつぶしてエキスを抽出したそうである。流しに捨てたところ発光して驚いたということである。どうして新発見って、こういうように「あきらめた時に」成功するのだろうか。正月のお御籤に、「失せ物=根気よく探せば出る」と書いてあるようなものだ。そしてGFPは、美しいものではあるが30年間利用法がなかった。医学の領域で実用されたのは、つい最近なのである。



そして、彼は、ノーベル賞受賞者の中で唯一の被爆者である。

下村教授は講演の中で、焼け野原となった長崎の町をスライドではっきりと見せ、

 「ここで私は2年間、何もすることができなかった。たまたま薬学部が復興したというので、そこで勉強したけれど、自分は科学研究がしたかったのであって、薬学には全く興味がなかった。でもそれ以外はすべて原爆でなくなってしまったのです」と、ストックホルムの聴衆に語りかける。爆心地から15キロ北東に離れていて死を免れたそうである。

彼のスピーチは、こちら。きわめて簡単な英語である。



二人の長崎大生。16歳で被曝した少年は、1960年、横浜から氷川丸に乗り、米国にわたることになり、女性医師は、ジェット機に乗り、エチオピアに向かったのである。