川端康成「名人」に登場する大竹氏

2009-01-24 00:00:58 | しょうぎ
1月3日に「名人・川端康成著」で、川端康成が、「家元制最後の本因坊」である本因坊秀哉の実際の引退碁、および二年後に熱海の旅館で亡くなった本因坊(名人)のデスマスク写真を写したことなどを小説に仕上げた「名人/新潮文庫」について書いた。



その中で、実際の引退碁は、本因坊(当時64歳)対木谷實(当時29歳)であったのだが、川端康成は、木谷役の登場人物になぜか「大竹」という名をつける。実在の大竹は大竹英雄のことと思われるが、大竹英雄は当時、木谷實の弟子である。「名人」は小説とは言うものの、限りなくノンフィクションに近い実話に、登場人物の心理描写を加えた作品であるのだから、わざわざ全登場人物の中で、ただ一人だけ名前を書き換えたわけだ。例えば、小説の大竹には囲碁の強い娘が登場するが、これも実在の女流棋士の小林(木谷)禮子のことと思われる。

では、なぜ、木谷が大竹になったのかについては、やや謎がある。

対局があったのは1938年。秀哉名人が亡くなったのが1940年。小説を書き始めたのが1942年で、以後中断。再度、筆を下ろしたのが1951年頃で完成が1953年という長丁場である。実は1957年に、これについて、川端自らが、『名人を本名として相手の木谷七段は仮名としたのも、他意あってのことではないが、この小説が作中の対局を必然に虚構して、迷惑をおよぼすだろうという気持から、書きはじめた時に、故人の名人は本名のままにしたけれども、木谷七段は仮名を用い、その後これにしたがったまでである。』と書いているそうだ。

ただし、作家の言葉というのは、実に本音でないことが多いのは、研究者の常識である。むしろ、作品『名人』がドキュメントではなく小説である、という意思表示を、最も効果的に表現したのではないだろうか。

そして、仮名を使った理由と同時に、どうして弟子の名を使ったのか、ということも謎の一つである。「大竹」でなく「おおた」でもいいではないか。

実は、私がエントリを立てた1週間後ぐらいの朝日新聞の夕刊に、「大竹英雄」の特集記事があり、その中で、『名人』の中で実名が借用されたことについて、「木谷實の弟子の中で、最も元気が良かったので、目立ったのでしょう」との自己解釈が紹介されていた。

おそらく、それも一理だろうし、さらに、将来に残るだろう自作『名人』の中で、三流棋士の名前を使うわけにもいかず、少なくてもいずれタイトルを争うべき人材を選んで、苗字拝借ということになったのではないだろうか。

ところで、川端康成は観戦記を書くほど囲碁は強かったらしい。小説を書かずに囲碁の道に進めば囲碁棋士に名を列しただろうと思われているようだが、たぶん学歴が邪魔をしたのだろうか。

実際には、「囲碁の強いノーベル賞作家が一人減り、観戦記の巧い棋士が一人増えた」だけかも知れない。ノーベル賞は別の日本人(谷崎?)が受賞したかもしれないが、名作「雪国」は存在しないことになる。

では、川端康成と将棋の関係はないのか、と散々考えてみたのだが、ようやく一つ思いついた。というか本人とは何の関係もない話。

彼の生家は大阪である。天満宮の横に、碑がある。その碑から徒歩1、2分の場所に、日本で2番目に巨大な将棋雑誌社(会社かどうかは知らないが)がある。



「詰将棋パラダイス」である。



天満宮にお参りの折には、是非、足を伸ば(という距離ではないが)されたらどうだろうか。



さて、1月10日の出題分の解答。

▲1一金 △同玉 ▲3三角成 △同飛(逆王手) ▲2三桂 △2一玉 ▲4三馬 △同飛 ▲3一銀成まで9手詰。途中、▲3三角成るに△2二銀合は▲同馬 △同飛 ▲2三桂以下駒余り11手(許容範囲かな?)で詰む。▲2三桂に△同飛は▲同玉以下。

盤上の3三桂を4一(2一)から跳ばさせるとか、色々できるのだが、手が伸びても意外性はかわらないし、変化手余りも直らないので、9手詰ぐらいが妥当な線だろうか。

動く将棋盤はこちら



今週の問題も、超サービス短編。詰将棋の元みたいなネタである。

わかったと思われたら、コメント欄に最終手と手数とコメントいただければ、正誤判断。