最古鉄道と薩摩藩邸の関係

2005-05-05 15:13:09 | 日本最古鉄道
29bb6c22.jpg明治5年5月(旧暦)に横浜=品川間で日本で最初に暫定開業された鉄道は、数ヶ月後に品川=新橋間まで延伸した。それでは、その品川=新橋間の開業が遅れた理由を調べてみると、いくつかの発見があった。一つ目は幕末の薩摩藩の藩邸の問題である。二つ目は海上敷設技術と発注先である。そして、それには若干の関連がある。

まず、駅の数は5ヶ所である。新橋、品川、川崎、神奈川、横浜。このうち神奈川駅は現在の東神奈川の近くである。そして横浜駅は、現桜木町駅とほぼ同じ場所である。品川・川崎は現在の位置とほぼ同じであることは写真が残っているから間違いない。総延長は29Kmだ。そして種々の文献をNETで調べると、総延長29Kmのうち約10Kmが海上を走っていたと記載されている。実は、以前に書いたが横浜=神奈川間は入江になっていて、直線的に海上に堤をつくって、鉄道を走らせている(その内側はその後、埋め立てられ、現横浜駅周辺になっている)。地図で測ると横浜地区で約4Kmだ。そして、神奈川=川崎=品川は内陸を通っているようだ。鉄道は水田の中を通っていたとされるので海から離れている。仮に多摩川にかかる六郷橋を海上と認定すれば約1Km、残るはあと5Kmということになるが、現在の新橋=品川間は4.9Kmである。つまり品川=新橋間は、ほとんど海上敷設であったことになる。

そして、書物によれば、海上を選んだ理由としては、「薩摩藩の藩邸を回避するため」と軽く書いてあるのだが、それで済ませないのが「しょーと・しょーと・えっせい」である。薩摩藩邸と言えば、幕末の西郷・勝会談で江戸無血入場が決まった場所として有名だったり、薩摩藩邸焼き討ち事件でも有名。それと同じ場所なのだろうかという素朴な興味がある。そして何か奇妙なのは、藩邸があると鉄道が敷設できないということは、海岸線の一部を薩摩藩が所有しているということだろうか(プライヴェートビーチみたいなもの)?という疑問である。そして、現場に行く前にNETや図書館で調べてみる。諸説があって信用できないものが多いため、いくつかの仮説をもってから足を運ぶ。

最初に向ったのは、JR田町駅だ。品川=田町=浜松町=新橋=有楽町=東京が山手線の順番だ。駅の西口を出ると、第一京浜国道、旧東海道である。都心の方向に歩くと数分で西郷・勝会談の場所に出る。(多くの資料には三菱自動車ビル前と問題企業の名前が書いてあるが、数年前に三菱自動車は品川駅港南口の三菱ビルに「様々な秘密事項とともに」移転していた。)

そして、そこには古地図をもとに各藩邸の位置と鉄道の位置が書き込まれているが、ちょっと怪しい。古地図の上に無理やり鉄道の線と田町駅を書き込んであるのだが時代が混ざっている。この藩邸跡は「蔵屋敷」と記載されていて、海岸に面していて砂浜から物資が陸揚げされていたようだ。そして、敷地の一方は東海道に面している。つまり物流基地として海と陸を繋ぐ絶好の立地になっているのだ。プライヴェートビーチであったのだ。大胆不敵だ。

次に、その蔵屋敷前は三叉路になっていて、日本橋に向う東海道と現在の芝公園方面に抜ける日比谷通りの交点がある。日比谷通りの方を都心方面に50m進むと、日本電気(NEC)の巨大なロケット型のビルとセレスティンホテルが並ぶのだが、その一帯がまた、薩摩藩の藩邸跡とされ、小さな記念碑が建っている。私の調べでは、そこは薩摩藩の上屋敷なのである。上屋敷とは上京中の殿様が在住する場所で、外様中の外様である薩摩藩は、やはり江戸城から遠いところに屋敷を構えていたわけだ。そして、二つの屋敷はすぐ近くではあるが、間に東海道があるため、別の敷地であったということがわかった。

ここで、幕末の江戸の歴史なのだが、江戸市中で薩摩藩が操る浪人による暴力事件が多発したため、幕府は佐幕派の庄内藩に頼み、この薩摩藩上屋敷を焼討ちしたのだ。1867年12月のことだ。しかし、わずか数ヵ月後には鳥羽伏見の戦いで幕府軍が破れ、薩長軍は1968年の3月には一気に江戸に押し寄せたわけだ。つまり、西郷・勝会談の時は、まだ上屋敷の方は焼けたままになっていたことと思われる。そして、この焼討ちの犠牲者は約90人と言われる。正確な屋敷の場所は、なんとNECのロケットビルの立っている場所らしい。不吉だ。ビルの形も、ロケットではなく、墓石と言われたらそう思うような形でもある。あるいは屋敷が燃え上がる炎と煙の形をイメージしたのだろうか。もっともホテルニュージャパンの跡地も外資系の高層ビルが建ち、外資系の会社がたくさんテナントになっている。不吉さにも時効はある。

ところが、調べると、勝海舟はいきなり西郷隆盛と手を握ったわけではないのだ。1868年の3月13日に一旦、薩摩藩下屋敷で予備会談をしたあと、翌3月14日に薩摩藩蔵屋敷で無血開城に合意している。勝と西郷が腹の探り合いをして、勝が自分の責任で合意したように思っていたのだが、即決ではなく、3月13日に薩長から提示された条件を幕府内で検討した結果、翌日、受諾したのだろう。

そして、3月13日の会談場所である下屋敷の場所は、現在は、品川駅前のパシフィックホテルということだ。(薩摩屋敷を3つも見つけてしまった。この辺を曖昧に書いてある歴史物は非常に多い。というか正確に書いてあるものはほとんどない。)1日かけて、西郷は品川から田町まで1駅分前進して圧力を強めたわけだ。そして、さらに雑学だが実際に無血開城だったのは、町人と幕府の高級役人の話で、下っ端の御家人たちは、見つかり次第、首をはねられていて、あちこちに首が転がっていたという目撃証言を読んだことがある。そして幕府側の残党が最後に集まって大量虐殺されたのが今の上野公園で、その場所で140年後の現代人は花見をして酔いつぶれる。ここにも不吉の時効がある。

さらに薩摩藩には中屋敷なるものがあったのかという問題は、未解決だ(普通は、上屋敷、中屋敷、下屋敷と三つ揃える。田町の蔵屋敷はこの中屋敷に相当するのか、あるいは別の場所に中屋敷があったのかは未発見である。あるいは歩いてみると上屋敷が大きすぎるように感じるので隣接して二つあったのかもしれない。)。


次に、海上に鉄道線路を敷設する方法についてだ。実際、薩摩藩だけではなく、この品川から新橋方向には東海道と海岸線が近く、ほとんど隙間がないために、海上に逃げるしかないと考えられるが、一方、薩摩藩のように港湾として利用しているものもいるので海上交通は確保しなければならないわけだ。その結果、海岸から沖合い50mに高さ4mの石垣の堤を作り、その上に鉄道を敷いたとされている。ミニ運河だ。

古い写真があった。結構な大工事なのだが、その辺が最初の鉄道敷設が英国技術で作られた理由なのかもしれないと思う。競い合っていたのが、アメリカとロシアであるが、その二国は海の上の線路とかトンネル技術なんかの経験が少ないだろう。大陸横断鉄道派である。アメリカの技術供与では新橋と横浜に同じ設計の駅舎を作ることは行ったし、北海道ではアメリカ人が鉄道を持ち込んだのだが。この本州の基幹区間を英国任せにしたことが、それ以降、日本の国鉄が狭軌鉄道という危険な宿命を背負った原因となったことは先日書いた。

鉄道シリーズblogはあと、品川駅と川崎駅のあたりを書いて終わる予定だが、どうも日本の列車が過度に定時正確性を追求する問題は明治5年からあったようなのでそれにもふれてみる。

追記:幕末当時、薩摩藩は江戸に7つの屋敷を構えていたことが判ってきた。しかも、現在の慶応義塾大学三田キャンパスは旧薩摩藩邸を払い下げしたものらしいのだ。となれば、薩摩藩は江戸の入口に巨大な勢力を持っていたことになる。さらに、京都の薩摩藩邸跡は同志社大学になっているそうだ。