子供のための哲学教室、といふものにとても興味がある。
もう50年も前のこと、自分自身の子供時代を振り返ると、私は考へるといふことが生きるといふことだと感じてゐたのだらうと想像される。
何となく格好いい表現だが、実態はさうではない。哲学の作法も分からないから理屈つぽい少年といふことでしかない。「屁理屈屋さん」といふ言葉を「格好いい表現」とは思はないだらうから、まさにさういふ存在だつた。
それでも小学5,6年生の担任の先生は、さういふ私を妙に可愛がつてくれて、すべての生徒と交換日記をやつてくださる先生だつたので、私の面倒くさい「屁理屈」にもていねいに付き合つてくださつてゐた。そのノートは今もどこかにあるやうな気もするが、今の自分はそんな屁理屈屋はうんざりだから、見返したくはない。
なぜこんな思ひ出話を書いたかと言へば、ゲームに時間を奪はれてゐる現代つ子たちも、案外屁理屈屋さんはゐるもので、さういふ屁理屈に付き合つてくれる大人を待つてゐるのではないかと考へるからである。生きるためには考へるといふことをしなければ二進も三進も行かない少年はゐるからである。
しかも、その「考へる」が屁理屈に終はらず、ちやんと「考へる」スキルを身に着けさせれば、立派な「考へる人」になれるからである。
感情でものを言ふ大人になるのではなく、あるいは自己顕示欲だけで主張する大人になるのではなく、立派な「考へる人」になつてほしい。
先日もある読書会に参加したが、どこかで読んだことをさも自分で考へたかのやうに台詞のやうに朗々と話したり、露骨に自分の考へと異なると不快な表情をしたり、自分の職業や経歴を話してその分野では俺の主張に一日の長があるとばかりに発言したりする人たちを見たが、考へる振りは出来ても「考へる人」にはなれてゐないなといふことを感じた。
本書の紹介にはついにならなかつたが、この本は、さうした「考へる人」になるための哲学教室のつくり方を指南してくれてゐた。哲学こそが世界を変へるといふことはひとまづ置いておくとして、考へることの大事さを私もまた感じてゐるので、是非ともそのことに賛同する人は読んでほしい。
哲学教室を主宰するのに私は向いてゐない気がするが、その実践に憧れてはゐる。