正しきことと良きことの区別ができない人がゐる。
正しきことがいつでも良きことかどうか、一度考へるべきである。
子供が何か過ちをした。
それを叱る。それは正しきことである。
しかし、叱つたからと言つて直ちに子供が良き子になるわけではない。だから、時間の猶予を与へなければならない。
その時に、以前に輪をかけて叱り、怒鳴り、圧力をかけても、つまりは正しきことを幾重にも重ねても、それは良きことにはならない。裏木戸の戸を開けておけと古くから言はれるやうに、正しきことで子を追ひ込むことは良きことではない。むしろ悪しきことである。
良きこと悪しきこと、正しきことと過つこと。かうした区別が大切である。
これとは直接に関係ないが、アランは次のやうに書いてゐる。
「ひどく腹を立ててゐる人間は、ひどく感動的な、いきいきと照らしだされた悲劇を、みづから自分自身に向かつて演じてゐるわけである。その悲劇のなかで、かれは、自分の敵のあらゆるあやまち、自分の敵の悪だくみ、下準備、侮蔑、将来の計画などを、心にえがいてゐるのである。いつさいが怒りによつて解釈され、そのためますます怒りが増大する。復讐の三女神フリコスを描いて、自分でこわがる絵かきのやうなものだ。ささいな原因のせいであつたのに、その原因が心臓と筋肉の激しい動揺が加はつたばかりにますます大きくなつて、ついには怒りがしばしば嵐のやうな猛烈なものになつてしまふのは、かういふしくみによつてである。しかし、およそかうした興奮を鎮める方法は、けつして歴史家の立場でものを考へて、自分が受けた侮蔑や苦情、権利要求などを検討することにあるのでないことは、明らかである。さういつたものはすべて、精神錯乱の場合と同じく、虚偽の光に照らし出されたものだからである。この場合にもまた必要なのは、反省によつて情念の雄弁を見抜き、それを信じることを拒絶することである。「あのうそつぱちの友人は、相変はらずおれを軽蔑した」などと言はずに、「この興奮状態では、おれは正しくものを見ることも、判断することもできない。おれは自分に向かつて大見得を切る悲劇役者にすぎない」と言ふことだ。さうすれば、劇場には観客がゐないので照明が消される。そして、みごとな舞台装置もなぐり書きにすぎなくなるだらう。これこそ、現実的な知恵であり、不正の詩にうちかつ現実的な武器である。ところがなんと悲しむべきことに、わたしたちは、妄想のなかに身をおいて自分の不幸を他人にあたへることしか知らないその場かぎりのモラリストたちによつて、助言をうけ、指導されてゐるのである。」『幸福論 56』