言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

榎本博明『教育現場は困ってる』を読む

2021年08月13日 15時15分03秒 | 受験・学校

 

 

 平凡社新書が続くが、偶然である。じつは橳島氏の本を探してゐて偶然手にしたのがこの本で、やはり本は本屋で買ふのがいいと言ひたくなる。とは言へ、私が普段住んでゐるところは車で出かけないと本屋がない(歩けば小一時間かかつてしまふ)ので、ネットで本を買ふ状況はありがたいといふことでもある。

 そんなこともあつて大阪に戻つて来ると近所に本屋があるのでかなり購買意欲が刺戟されてしまひどんどん買つてしまふので、それはそれで困つたことでもある。

 さて、本書の著者である榎本氏の本は初めて読むが、読んでゐて我が意を得たりといふ気持ちになることが多い。つまりは、今日の文科省の教育行政の間違ひだらけを指摘してくれてゐるのである。

 アクティブラーニングと言はれる対話型の授業では、深く思考することはできない。

 「楽しい授業」とは、おしゃべりができる授業のことではない。

 役に立つこととは、実用性のことではなく教養である。

 キャリアデザインは、「やりたい」ことを軸にしてはいけない。

 以上のことが本書のテーマであるが、私も全く同意見である。心理学者でもある著書の指摘は、学問的な論拠を示されてのことであり、文科省の何の根拠も示さぬ単なる「政治的」判断のやうな主張を深いところで批判できてゐる。

 かういふことが常識にならないのが現代日本の闇で、余談にわたるがそのことは先日のオリンピックの開閉会式の様子にも窺はれた。誰のためなのか、何のためなのか、そして何を言ひたいのか、全く分からない。数万人のスタジアムの規模で演出するとはどういふことなのかの身体性も分からないこまごまとした演出は、小劇場で演劇を作り上げたことがない劇団がいきなり新国立劇場で演劇を上演したやうなトンチンカン振りであつた。あれもまた闇である。おまけに無観客のはずが、場外には人が溢れてゐたといふのも闇である。「中へどうぞ」と言へばいい。それが感染対策であらう。それが出来ないといふのであれば、少なくとも近くの駅は封鎖しておくべきだし、自家用あるいはタクシーを含めた公共交通機関車の停車禁止措置はすべきであつた。それらをしてゐないといふことは本気ではないといふことだ。

 ついでに言へば、コロナ対策も闇である。感染者数の数へ方も地方によつて違ふと言ふし、死亡者数もコロナによるものではなくとも後から感染してゐたと判れば、コロナによる死者とするなども何のための統計なのかが分からない。こちらは厚生省が指示を出してゐると言ふが、官邸はその数をもつて政策を決定してゐるのであらうか。根拠となる統計資料が正確ではない。これも責任不在である。

 話がだいぶ逸れたが、教育についてテキトウが過ぎる。共通テストの記述問題や英語外部検定の利用は頓挫したが、高校生の教科書に実用的な文章を入れることは防げなかつた。エントリーシートを書かせたり、どちらのエントリーシートがいいかを比較させたりすることが、国語の授業で必要であるといふことを、文科省は検定で了承したが、本当にそれで良いのか。学力低下が前世紀の終はりごろから指摘されてきたが、それへの対処が実用的な文章の読解に至つたといふ経緯は文明の停滞をいみしてゐると見てよい。お粗末すぎる。近代文語文を読ませろと言つてゐるのではない。現代思想を読ませよと言つてゐるのでもない。しかし、お粥のやうな文章を読ませて学力低下が防げると考へるのは、どう控へ目に言つても思考怠惰である。

 もつと現場に行つたらいい。組織の長や大学のセンター長や、学校の長とオンラインで話す程度で「十分にご意見を拝聴した」などと言つてくれるな。酷すぎる。

 最後に著者の言葉を引用する。

「明らかに知識不足なのに、自分の意見を発信する訓練に力を入れ、吸収が疎かになっている。『正答主義』からの脱却といって、何の知識の根拠もなしに自分勝手なことを言う訓練をする教育が横行している。『知識偏重からの脱却』といって、知識の吸収をないがしろにする教育が行われている。それは、けっして好ましい傾向とは言い難い。」

 

 

 

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