言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

光明徧照十方世界 念仏衆生摂取不捨

2021年08月23日 09時54分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

 

 

 この夏は、父の納骨式があつた。四十九日の法要と併せて新盆の法事もしていただいた。

 久しぶりに西念寺を訪ねた。山梨の夏の涼しさが殊の外気持ちよく、法要の間境内には風が入り静かな時間が流れてゐた。祭壇の横の柱に刻まれてゐたのが、標題の言葉である。

 調べると「観無量寿経」の一節であると言ふ。「こうみょうへんじょうじっぽうせかい ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ」と読む。その意味は「阿弥陀様の慈悲の御心である光明は、いつもすべての世界を徧(あまねく照らし、念仏を唱へる私たちを見捨てず、必ずお救ひくださる」といふ意味であると言ふ。

 かういふ意識によつてこの宇宙が作られてゐると考へることが、宗教の本質であらうと思つた(仏教のことなど何も知らない私がかういふことを書くことに何のためらひもないわけではないが、半可通なのはいつものことだからいつものやうに書かせていただく。ご寛恕あれ)。私が私の思惟によつて救はれるのではなく、絶対他者の一方的な愛によつてすでに救はれてゐると考へるところが原点になければならない。自己の肯定も否定も、その絶対他者を介在しなければ単なる思惟の産物となつてしまふ。その意味でも「自己肯定感」といふ言葉には重大な欠陥がある。それが自己の認知活動でしかなければ極めて空しいものとなる。

 大事なことは、近代の日本が絶対(他)者を発見できなかつたことだ。自己過信と自己卑下とに引き裂かれてゐることに、現代の問題の根本がある。

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