「ぬでしま」とお読みする。
二か月ほど前だと思ふが、読売新聞が日曜日に連載してゐる「明日への考」で、この橳島氏のインタヴュー記事を読んだ。それがたいへんに面白く、簡単には結論を出さず考へつづけていくことの重要性を語つてゐた。それでこの方の本を是非とも読んでみたいと思つて見つけたのが本書である。
この本もまつたく結論を出してゐない。「であらうか」「ではないだらうか」といふ疑問文が重ねられてゐるので、「先端医療」の最新知識をお手軽に得たいといふ動機の人には、不親切なものとして映るであらう。しかし、少なくとも将来医療に関はらうと思ふ人や、生殖医療にせよ安楽死にせよ身近な人がそれらに関はつた経験がある人には、とても大事な問題であると感じると思ふ。
「よく考へる」ことが私たちに日本人には少々欠けてゐるのではといふのが、筆者の思ひである。
巻末には、フランスの「生命倫理法」の紹介がされてゐるが、「倫理」と「法」とは本来別次元のものであるからそれらを結びつけることはをかしいといふ議論がフランスではなされたといふ。しかし、日本ではさういふことはおきまい。なぜなら、言葉について精緻な定義をしながら議論を進めるといふ習慣が私たちにはないからである。もちろん、日本には「生命倫理法」はない。それは必要ないからか。違ふ。原理原則を打ち立てようといふ発想がなく、大学の倫理委員会等で事象ごとに検討すればよいと考へてゐるからである。しかし、それでは時々の国民感情によつて結論を左右されてしまふことになる。やはり日本にも原理原則は必要ではないか。それが本書を書いた本質的な動機のやうだ。
「第一章から第四章まで、医療技術の進展が私たちの生老病死にもたらす、様々な問いかけについてみてきた。問題は何かを偏りなく適切に問うことがだいじなので、一つ一つの問いかけについて、答えを出すことはしないできた。」とある通りである。
生命倫理について、欧米にはキリスト教が思考の基本にある。それがない日本は問題かと言へば、さうではないと筆者は言ふ。むしろ特定の価値を持たない日本人こそ、議論を通じて誰の意見からも等距離の指針を作ることができると書く。
しかし、私はそれには異論がある。議論を通じて結論を出すといふことを果たして日本人は得意とするかどうか。インフォームドコンセントが、圧倒的な知識を持つ医師による説明を患者が受け入れてゐるにすぎないと筆者が批判してゐたが、それと同じやうに圧倒的な知識を持つ人がその他の人を説得するか、あるいは自己の主張に閉ぢこもつてそれぞれが蛸壺化するかのどちらかだらう。自己を相対化するために必要なのは相対的他者ではなく、絶対的他者が必要である。それはやはり欧米に一日の長がある。私たちは歴史的に、強い集団と弱い自我と、強い集団と弱い集団としか経験してゐない。だからこそ、原理原則の必要を感じないのである。
私はさう考へてゐる。とは言へ、重要な書である。