言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

二か月ぶりの帰阪

2015年03月20日 08時30分09秒 | 日記
 正月以来の帰阪である。今日、京都大学の入試研究会が大阪であるので、そのついでに昨晩遅くに戻つた。そしてこのブログも久しぶりの更新。さぼつてゐたわけではないが、年度末はやはり忙しい。

 目の前のカレンダーが1月のままであることに今気付き、少しだけ感傷的な気分になる。あつといふ間の二カ月半。あれもこれもしてゐないままに、取り合へず目の前の仕事を片付けながら、走つてゐた。先日、駿台講師の大島保彦さんの話を聞く機会があつたが、締め切りに追はれてゐるのではなく、追ひ抜かれてゐる、もはや締め切りの背中を見てゐると言つてゐた。私の場合には、それほどではないが、教育といふことはそれが学習支援に限つて言つてもなかなか「これで終はり」といふことはないから、いつも「やり残してゐる」感じがする。登つて来た、あるいは、歩いて来た道を時々振り返つては、胸のざわつきを鎮めてゐる。


 先日、九州の学校時代の教へ子から手紙とある冊子を贈られた。彼は、私の教へ子で唯一国語の教員になつた人物で、母校で教へてゐる。送られてきた冊子とは、その彼が六年間教へて来た生徒たちの書いた卒業文集である。私がその学校を離れてもう11年になるが、その後も担当者が代はつても継続してその卒業文集を送つてきてくれる。初めの頃は、私が教へた生徒やその弟妹たちの文章が載つてゐて、顔が思ひ浮かんだり懐かしかつたりしたが、今はたぶんさういふ縁のある生徒のものはないであらう。それでも送つて来てくれる思ひがうれしくて、読んでは勝手に順位をつけて手紙を書いてゐた。それが、今年は久しぶりの「縁」がある文集となつたので、忙しいとも言つてゐられずに、これから読んでみようと思つてゐる。

 また、前回このブログにも書いた山内健生氏の『私の中の山岡荘八』のことであるが、著者の山内氏から本を御恵贈いただいた。こちらも読まずにはゐられない。国語の教師としては問題かもしれないが、私はとても本を読むのが遅い。「精読してゐるからです」などと気の利いたことを言へればいいのだが、さう言へばきつと自己正当化でしかない。単に遅いのです。すぐに脳がいつぱいになつてしまつて、整理せずには進めない。子どものころから同じ本ばかり読んでゐたのが原因かもしれない。同じ本は何度でも読めるのだが……

 四月から、久しぶりの受験生を受け持つ。生徒たちにとつても大事な春休みである。忙殺の中にあつて、彼らのそれぞれの場所での奮闘を祈るばかりである。
コメント
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