言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

江藤淳はこのまま消えるのか。

2013年06月09日 23時12分01秒 | 日記・エッセイ・コラム

 

小谷野敦さんのブログ(猫を償うに猫をもってせよ)を讀んでゐたら、結構衝撃的な話が書かれてゐた。江藤淳がソ聯のスパイだつたといふのである。詳しくは、引用した文章を讀んでほしい。<o:p></o:p>

 

 それにしても江藤淳といふ人は、亡くなつて十四年經つが、全集が出るといふ話も聞かない。弟子の福田和也氏がわづかにちくま學藝文庫だつたか、コレクションを4册ほど出してゐるばかりである。文壇に睨みをきかし、政治家にも一定の發言權を有してゐたあの人にして、かうも奇麗に忘れさられてゐるのは不思議ではあるが、かういふ説があるとは思はなかつた。さて、眞相はどうだらうか。小谷野さんは評傳を書くおつもりだらうか。<o:p></o:p>

 

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(以下引用)<o:p></o:p>

 

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岳父・三浦直彦の「関東州局長」という元職を江藤が書いたのは、一九七五年十一月の『國文學 解釈と教材の研究』の夏目漱石・江藤淳特集における自筆年譜においてであろう。こういう、妻の父を自慢するような記述に不快感を漏らす者はいたが、いったい、そのような地位にいて、ソ連に抑留もされず、漢奸として処刑もされなかったのはどういうことか、考えた者はいたろうが、書いた者はほとんどない。<o:p></o:p>

 

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 江藤はのち、『昭和の文人』(八五年から『新潮』に断続掲載)で、平野謙が自身の父親の仕事を隠していたと、異様な執拗さで批判することになる。一方で江藤は、『一族再会』で、祖父たちを顕彰し、母について語るのだが、父について、また岳父について、ほとんど論及しなかった。そして私はずっとこの「関東州長官」について考えてきたのである。<o:p></o:p>

 

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 江藤が、これまた執拗に、占領軍の検閲を調べ、また憲法に疑念を呈し始めるのは、七八年以降のことである。一般的に、江藤はこれを、戦時中の検閲よりも占領軍の検閲のほうがひどかったと主張するためにやっていたと解されている。だが私には、江藤が「ソ連」から目を逸らすため、つまり岳父がスパイであった国に触れることを避けるために、過剰防衛的に米国を攻撃したもののように感じられてならないのである。<o:p></o:p>

 

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 確かに江藤は、八四年の、中野孝次らの「反核アピール」を、柄谷行人、吉本隆明らとともに、「ソ連の紐つき」だとして批判したし、日本ペンクラブでの反核声明にも理事として反対している。<o:p></o:p>

 

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 そのくせ、江藤は米国を攻撃し続けた。占領軍の検閲の研究のあとも、『日米戦争は終わっていない』(一九八六)を刊行している。石原慎太郎らの『「NO」といえる日本』(一九八九)もあったが、石原の場合は、改憲してソ連‐ロシヤ、中共、北朝鮮の脅威に備えるということが大前提としてあった。西部邁の反米は、あたかも安保闘争の闘士であった過去の感情を引きずっているおもむきがある。<o:p></o:p>

 

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 仮に、江藤をソ連‐ロシヤのスパイとして考えてみると、不思議なことに平仄は合うのであって、保守派のふりをしつつ、ひたすら国内に反米感情をあおろうとしているというかたちである。むしろ親米保守とも言うべき、山崎正和、中嶋嶺雄らに突如として攻撃をしかけたのも、そのためではないか。<o:p></o:p>

 

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コメント
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