言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

科學技術にたいする心構へ

2012年04月16日 21時48分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

 原発についての論議が、かまびすしい。いつもは、政治家が決断すべきと言つてゐる政治家が、この問題については、政治家ごときが判断すべきことではないと言ふのだから、噴飯物である。さう啖呵を切るからには、政治家が判断すべきこととは何かといふ見識があつてしかるべきだらうが、それは一向に聞かれない。御都合主義で、日和見で、大向うをうならせるかどうか、が氏の発言の動機である。

 さて、原発についてであるが、これはもう開発したのだから、続けていけば良い。それを使ひこなせないのなら、使ひこなせるやうにすればいいのである。かういふことを言ふ人を聞いたことがないが、原発事故を起こしたロシアもアメリカも今も原発での発電は続いてゐるのである。それなのに、日本だけが脱原発といふのは、いかにも反省好きの国民らしい反応である。

 使ひこなすのには、管理する側の体制が問題だといふのであれば、それも変更すればいい。やめることを即断せよといふ主張は、原発は大丈夫と言ひ張つてきた当局の裏返しに過ぎず、脱原発を神話化してゐるだけだ。イデオロギー的に反発してゐるとしか思へない。

  原子力の開発をやめることの弊害をもつと科学者は言ふべきだらう。それを聞きたい。科学の進歩を信じてゐるのが、科学者ではないのか。

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