言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

ノートを取る――硬直化した思索、くつろぎなさい

2012年01月22日 21時43分28秒 | 日記・エッセイ・コラム

 大人になると、ノートを取るといふことがなくなる。それは大人とは学ばなくなつた世代のことだといふことの端的な例であらう。

 しかし、学んでゐるはずの子供たちも、どうにもノートの取り方が下手である。別に美しくきれいに取るのがいいといふわけではない。しかし、そんなことではいつかうに頭には入るまいといふ手つきでペンをノートに当ててゐるといつた姿をよく見かける。

 そんな生徒の日常を見てゐて、昨年の夏「ノートの取り方」といふ雑文をまとめるときに、アランのエッセイがふと目にとまつた。私の思ひとは別の次元で、この思索者がノートについて考へてゐることを知り、思はぬ収穫であつた。

 ――しかし、わたしは生徒の方に目をむけて、身動きもせずになんとなく心配げな注意によつて思惟のなかにすぐさまもたらされるあの空虚の観念ともいふべきものを形にあらはしてみたいと思ふ。だれでも、精神を硬直させる、あのほとんど血迷つたやうなにせの注意についてなにか思ひ出をもつてゐるものである。自分に対するかうした拘束はなんの価値もない。歯を食ひしばつてゐる人間は、行動するにはぎこちなくなつてゐるし、行動する前にもう疲れてしまつてゐる。硬直した思索者もそれと同じだ。観念をとらへるためには柔軟さが必要であり、そつと盗み見るといつた種類の注意が必要なのである。ずるさと微笑。くつろぎなさい。くつろぎなさい。

 たいへん結構なことだ。ただ、諸君が聴衆を、とくに若くて精力にみちあふれた聴衆を好き勝手にさせておくなら、かれはもはや何も学ばなくなるであらう。だが、わたしは、だれにもよく知られた動作で、くつろがせるもう一つの方法があることに気づいてゐる。読んではまた読む。暗誦する。急ぐことなく、むしろ彫刻家の慎重さをもつて書くのはさらにいいことである。美しいノートに美しい余白をおいて書く。充実した、均整のとれた、美しい文例を筆写する。かういつたことにこそ、観念のために巣をつくつてやる楽しいのびのびとした仕事がある。ここに書き方の体操ともいふべきものがあり、それは書体や筆致に見られるし、また教養の一つの印でもあるが、まづなによりも教養の条件である。

 精神のくつろぎを得る方法を、アランは知つてゐた。精神の緊張から逃げるためではなしに、再び挑むために、どうしてもその方法が必要であつたといふことである。

 「読んではまた読む」とは、速く読むといふことではない。「彫刻家の慎重さで」といふ卓抜な比喩がその意味を明瞭に伝へてくれる。

 ノートを取るといふことの大切な意味がここにはあるやうに思はれた。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「寺内貫太郎一家」で正月 | トップ | 今日は元旦――秋入學の唖然 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿