言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

比喩やメタファーを透谷は知らなかつた。

2010年06月07日 08時23分58秒 | 日記・エッセイ・コラム

   前囘のつゞきである。北川先生が面白いことを言つてゐた。當り前のことなのかもしれないが、「みみずのうた」を書いた明治二十四年の透谷が、あの「みみず」に詩人の姿を映してゐたといふことは言へても、それがメタファーであると斷言することはできないといふ指摘は、重要だと思つた。今ある知識で、過去の創作を意義づけることは不可能ではないとしても、十二分に愼重であるべきだといふことであらう。またしても、後輩に對しての戒めでもあらう。また、坪内氏への批評でもあつた。

    では、メタファーといふことがいつの頃から詩人に意識されるのであらうか。もちろん、新體詩人、あるいは現代詩家であらうが、その邊りを詳しく知りたいと思つた。懇親會は所用で缺席したので北川先生には確認できなかつたが、誰かに伺つてみたい。「自分で調べれろ」と言はれさうであるが。

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