言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語 番外編1

2008年12月07日 10時03分14秒 | 福田恆存

 福田恆存は、「近代の宿命」(昭和二二年)の中でかう書いてゐる。

    もつともらしい虚言に欺かれてはならぬ。時のながれのうちにあつて、人間は停止することができぬなどとだれがいふのか。そのやうなことばに耳かたむけてはならない。ぼくたちの自然は――ぼくたちの肉體は停止することができない。が、精神はいつ、どこでも時間のそとに靜止することができる。いや、それは靜止しうるのみならず、なにか大いなることをなさうとするばあひ、あるいは自己を變革するばあひ、かならず靜止のひとときをもたなければならない。精神がときに靜止するのではない――ぼくたちが靜止するときに登場するものが精神なのである。

  さて、私たちの近代が、西歐化に流されあるいは進んで附き合ふことによつて始り、それに邁進してきたものであることは疑ひを入れまい。漱石が「皮相上滑りに行くしかない」と喝破した通りである。そして、「上滑りしていく以外に方法はない」のも近代のやり過ごし方としては唯一の方法であらう。それが「宿命として近代を生きよ」といふ意味を込めた、福田恆存の文章の意味である。しかしながら、精神の次元においても上滑りに生きる必要は果してあるのだらうか。

「ぼくたちの肉體」とは、經濟の仕組みや憲法を含んだ法制度である。それらは時代と共に變化してゆく。當然のことだ。樂市樂座も御成敗式目も今採用することはできない。時代の氣分を抱へるに足る、それぞれの時代の器が必要なのである。

しかしながら、その一方で、さうした「肉體」の變化とは別の次元の、精神の繋がりといふものがあつたのである。精神は發達しない。萬葉集の歌に私たちが感動し、シェイクスピアの戲曲に涙するのはなぜか。時代を超えた、場所を超えた、普遍的な精神の次元があるからである。そして、その精神は私自身の中にもあるはずである。それを時に思ひ出す必要があるのだ。保守とは本來さういふ心の働きを意味するのである。過去の形を復古することが保守の要諦ではない。精神のうづきを思ひ出し、それに見合ふ形を現實世界に呼び戻すのである。

  ところが、どうであらうか。私たちの近代に、いつ靜止する時があつただらうか。終戰の折――果してさうであつたらうか。バブルの崩壞――活力は停滯したかもしれない。そのことに人人は氣附いてゐたが、一向に精神は登場しなかつた。牽強附會を承知で言へば、國語の再建を主張した政治家が果たして一人でもゐただらうか。保守と言はれる政治家にそれを言つた人を見なかつた。

確かに、「日本語ブーム」は何度となく起きた。そして今も第何次目かのブームであらう。しかし、それらはたいていは興味本位であつたり、豆知識の類だつたりする。根柢にある、人人の國語への愛着や精神のうずきを掬ひ取る國語再建論へと結びつけられなかつたのは、痛恨事である。所詮、國語も手段なのである。それが精神に深く結びついた、本來なら目的に位置するものであるとは、一度だに考へられたことのない事柄なのであつた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする