言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語238

2008年02月01日 13時33分38秒 | 福田恆存

(承前)

  漢字をむやみに尊重し過ぎるといふ態度も、私たちの國語を考へる上で問題である。

「週刊文春」で「お言葉ですが…」を十年ほど連載してゐる「シナ文學者」の高島俊男氏も、漢字はあまり使はないと言ふ。その理由はかうである。

「支那文字は、支那語にぴったりとしているだけに、これをもって系統や性質のことなる言語を書きあらわすのは無理である。このことは、もし英語を、すべて漢字のみで書きあらわそうとすればいかに困難であるか考えてみれば、だれにもわかることである。

 日本語は、支那語とは系統のことなる言語である。どこまでさかのぼっていっても、いっさい類縁関係はない。性質もまったくちがう。

 古代日本人は、固有の文字をもたず、またこの世に支那文字以外の文字のあり得ることを知らず、支那文字を人類唯一の文字と思ったために、これを日本語を書きあらわす手段としてうけいれ、以後千数百年、日本語になじませるためくふうをこらしてきた。

 しかしいかにしても、日本語と支那文字とはしょせんおりあわない。日本語と漢字とは、結局融合せず、単に癒着した状態である。漢字は世界でもっともすぐれた文字(ただしあくまで漢語を表記する体系として)であり、いっぽう日本語もうつくしい言語であるが、両者の性質があまりにもちがうために、この癒着は醜悪である。」

(『寝言も本のはなし』大和書房、平成十一年。二一一頁)

 もちろん、福田恆存は漢語だから、大和言葉だからといふことのみで、漢語不要論や、大和言葉尊重論を言はない。すべての「主義」から遠く離れて「平衡感覺」を持續しながら考へる福田の一貫した姿勢である。漢字主義者ではもちろんないし、かと言つて和語絶對主義者でもない。かつて渡部昇一氏が「和語禮讚」にはしゃいでゐた折に「和語、必ずしも尊からず」と書いた(「新潮」昭和五十五年二月號・全集第七卷四六二頁)一事を見てもそれは自明であらう。

  したがつて、福田恆存は吉川氏同樣、①(前囘引用した吉川氏の文章のこと)のやうに和語だけでは國語は成立たないと考へてゐるのである。

  次に②(同右)についてである。まづは引用から。

「そも仮名づかひといふは、いにしへのとなへざまを、そのままに仮名にうつしたるなるべし。さればこの掟を守るは、いとゆかしきに似たれども、今の言葉の古(いにしへ)と異なれるは、ひとりとなへざまのみにはあらず、もろもろの言葉のさま皆すでにうつれり。テフととなへしをチョウととなへ、ホンタウととなへしをホントウととなふるは、となへざまのうつしなり。コテフといひしをテフテフといひ、ムベといひゲニといひしをホンタウニといふは、言葉のうつれるなり。かくよろづのさま古とはうつれるに、ただ書きざまのみ古のとなへざまをうつすは、さまでよしあることともおぼえず。」

(『吉川幸次郎全集』第十八巻三二六頁)

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