言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『解つてたまるか!』を觀て(改訂版)

2005年05月06日 21時38分16秒 | 日記・エッセイ・コラム
 前囘掲載した内容は、後半が解りにくかつたので、改訂しました。

 福田恆存作『解つてたまるか!』を見に、東京濱松町に行つてきた。じつに37年振りの上演といふことで、この日を樂しみにしてゐた。觀劇後の感想は、本當に面白かつた、充分に樂しめた、である。舞臺の造形や、演出の出來については、專門家がするであらうから、私はこの際一人の觀客に徹して以下に感想を書いてみようと思ふ。

 芝居がはねた直後の感想は、「なんて寂しいんだ」といふものであつた。福田恆存とはなるほどさういふ人なのだらう。他人になんか自分の氣持ちは解るはずはない、解つてゐるなどと言はれるのが一番腹が立つ、なぜなら自分でも自分が解らないのだから、と考へる人なのだらう。なるほどさういふ理屈も「解る」。しかし、それでも解つてもらひたいといふ思ひもあつたに違ひない、だからこんな芝居を書くのである。「解つてたまるか」と本當に思つてゐれば、かういふ芝居は書けまい。自分でも解らない自分を他人は知つてくれてゐると、もう一方で信じてゐるから書くのである。「『解る』にレジスタンスしてけふまで生きてきた」といふ臺詞は、「『解る』こと、あるいは『解り合ふ』ことを最高の價値としてゐる微温的な人間關係にレジスタンスしてけふまで生きてきた」といふことなのだらう。ロレンス風に言へば、「現代人は愛し得ない」のだし、簡單に愛し合へると言つてしまふ安易な人間觀を福田恆存は攻撃し、そのうへで「現代人は愛し合はねばならないのだ」と言つてゐるのである。
 だから、一見するとからりとした笑ひが終始響いてゐたが、その裏には寂しい聲色も聞こえてきたのである。
 主人公でもあるライフル魔の最後の長臺詞は暗示的である。
 「町は死んでゐる、清潔な廢虚だ」――かうした情景は、町に人が溢れてゐても本來的に變はるものではないだらう。ただ、ライフル魔の脅迫により人人が誰もゐなくなつてはじめて顯在化したに過ぎない。私たちが生きてゐるこの世界は、荒涼としてゐて、擦りむいた皮膚のやうにひりひりとする感觸こそが相應しい世界なのである。じつに寂しい景色なのだ。ライフル魔の目に映つた景色は、そのことに氣づいた人間の極めて素直な心象風景なのだらう。彼以外の人間は、そのことを胡麻化し、蓋をし、世間といふ枠に生きるよすがを求めてゐるにすぎない。
 この分析は、なるほど福田恆存の眞骨頂なのである。が、この寂しさを現出させることによつていつたい誰が救はれるといふのだらうか。私には、さういふ思ひもないわけではなかつた。「清潔な廢虚」を俺だけは見たのだ、さういふ思ひを抱きながらも、現實に生拔いてゆくことをせずに自殺してしまふ、さういふ選擇は、主體性によるものなのかもしれないが、それもまた一つの甘つたれなのではないか。どうせ他人は自分のことを「解らない」と斷念するのなら、誤解を甘受して生きてゆくべきなのではないか。それは酷といふものなのかもしれないが、あの「自殺」による終幕はどうにもしつくりこなかつた。それこそ、福田恆存に「解つてたまるか!」と言はれてしまふだらうけれども。

 それにしてもこの40年間といふ時間の變化は、私たちの意識や生活を變えてしまつた。例へば、殺人といふことに對する見方も變化した。殺人といふ行爲には動機があるものなのか、更に言へば人間の行動には動機が必要なのかといふ問ひかけは、この作品が書かれた40年程前よりも、現在の方が理解されやすいだらう。それだけに寂しさが、言つてよければニヒリズムが色濃く映し出されてくるのである。「清潔な廢虚」が現實に感じられてしまふのである。

 私は、何も結論を見出してはゐないが、觀劇後に讀んだ中村光夫のこの劇に對する評言になるほどさうだなと思つたのである。
 「彼が觀客にもとめるのも、ただ舞臺を見、面白ければ笑つて、なんか心にのこつたら、それについてはあとでゆつくり考へることだけでせう。」
 私は、中村光夫の忠言通りに行動してゐたといふことなのだらう。これほどに私の腦を動き出させた芝居に、十分に滿足してゐる。

 演出 淺利慶太 劇團四季 濱松町自由劇場 5月22日まで。


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