言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「絶対」といふこと

2012年07月10日 08時27分40秒 | 文學(文学)

 

アステイオン76 アステイオン76
価格:¥ 1,000(税込)
発売日:2012-05-11

先日、山崎正和氏の対談を讀んでゐたら、次のやうなことが書かれてゐた。

「16世紀、日本にやってきたイエズス会の宣教師が愚痴るんです。日本の坊主曰く、『キリスト教は永遠、普遍というが、だとすれば、あなたが布教に来る前、私がキリスト教について知らなかったのはおかしいじゃないか』(笑)。かのイエズス会士も困ったでしょう。」

 山崎氏も、対談相手の田所昌幸氏もこのことについて何の異論もなく、「まさしくさうだ」といふ調子で対談は続いてゐる。「(笑)」などといふ表記をするぐらゐだから、まつく痛いところを突くものだと、中世日本人への讃頌とさへ思へる口ぶりである。

 この逸話が、何から引かれたのか分からないので(ルイス・フロイスの『日本史』か)、当のイエズス会士がこのあとどう答へたのか不明だが、反論できないイエズス会といふのもずゐぶん情けない。私ならかう答へる。

 「ある」といふことと「知つてゐる」といふこととは違ふ。水が水素と酸素の化合物であることを知らなくても、水は毎日使つてゐる。電車の仕組みを知らなくとも、電車には乗れる。

「知らないこと」が「普遍=永遠」の否定にはならない。それが絶対といふことである。知つてから「気づく」のであつて、知つてから「ある」のではない。認知の埒外に存在はある。

 

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